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月別アーカイブ: 7月 2012

http://www.nnn.co.jp/rondan/ryoudan/index.htmlより、
一刀両断 -小林 節-
時代を画す東浩紀他「新憲法」草案
日本海新聞 2012/07/31の紙面より

 7月8日に、『日本2・0 思想地図βvol・3』(ゲンロン)という本が刊行された。

 その中に、「新日本国憲法ゲンロン草案」という提案が載っている。新しい改憲試案である。その起草の中心人物は、東浩紀(あづま・ひろき)早大教授(42歳・東大出身の哲学者)である。

 日本国憲法が、昭和21年(1946年)に制定されて以来、今日まで一度も改正されておらず、すでにさまざまな不都合が生じていることは周知の事実である。憲法9条と自衛隊の矛盾、先行きが不安な天皇制、プライバシーなど新しい人権の規定の不存在、政策を決められない二院制、リーダーシップが生まれ難い議院内閣制、十分に機能しない違憲審査制、一向に前進しない地方分権等、全て、憲法改正の課題である。

 にもかかわらず、これまでの憲法論議は不毛で、だからこそ、憲法は一度も改正されず、そういう意味で、日本国憲法は今では世界最古の憲法になってしまった。

 その不毛の原因は、東西の冷戦を前提とした改憲対護憲の論争が噛(か)み合っていなかったことにあるのだろう。冷戦時代のイデオロギーを前提とした論争は、相手が「敵」だと認定したら、以後、一切聞く耳を持たず自己の主張だけを言い合う非生産的なものであった。代表的な改憲派は、占領軍により押し付けられた憲法は無効だから明治憲法に戻るべきである…という主張で、これ以外の意見に対しては聞く耳を持っていない。対する代表的な護憲派は、9条が改正されたらまた戦争になる…という主張で、異なる意見の者との論争自体を避けてきた。これでは何も生まれないはずである。

 本来、憲法は、主権者・国民大衆が幸福に暮らすために、サービス機関としての国家を管理するマニュアル(手引書)のようなものである以上、時代状況の変化の中で常に微調整が続けられるべきものである。

 その点で、東・新憲法草案は実用的で優れている。事実上の大統領と天皇制の両立、侵略戦争の放棄と自衛隊の両立、住民代表議会に対する真の賢人会議による牽(けん)制、広範囲な人権保障と人権制約の基準の明確・厳格化、真に実用的な地方自治制度の提案等、まさに、目から鱗(うろこ)が落ちる試案である。

 やはり、イデオロギー論争後の時代に育った知性だからこそ考え得る提案であろう。この真摯(しんし)な問いかけを無視すべきではない。
(慶大教授・弁護士)

http://mainichi.jp/area/news/20120605ddn012040050000c.htmlより、
平和をたずねて:沖縄戦の少年通信士/1 有無言わさず軍隊配属=広岩近広
毎日新聞 2012年06月05日 大阪朝刊

 <生きてると そっと知らせよ渡り鳥 旅愁 口ずさみ涙さしぐむ>(沖縄・屋嘉捕虜収容所 昭和20年7月)
 短歌の作者は、鹿児島県喜界町の佐東喜三郎さん(83)である。太平洋戦争の末期に少年通信士として沖縄戦に投入され、死地をくぐり抜けて生還した。米軍の砲弾で砕け散った同期生もいる。深い傷を負った末に自決した仲間は1人や2人ではない。
 目の前で起きた惨事と死体の山が、佐東さんの脳裏に折り重なっている。捕虜収容所に入れられてから短歌を詠んだ。そうして精神のバランスを保った。
 50歳を前にしたとき、沖縄南部に広がるかつての戦場を訪ねる。以来、毎年のように足を運んだ。無念をいだいて死んだ同期生の俤(おもかげ)をしのび、ひたすら冥福を祈った。
 <さんざめく 観光の群れをそっと避け 洞窟に亡友(とも)の俤を追う>
 奄美大島の東方25キロに浮かぶ喜界島に佐東さんを訪ねた。80代には見えない壮健ぶりで、10代で体験した沖縄戦の記憶を明瞭に呼び起こしてくれた。
   ※   ※
http://mainichi.jp/area/news/20120605ddn012040050000c2.htmlより、
 佐東さんは1943(昭和18)年4月、喜界島から鹿児島市内の工業学校に進んだ。14歳だった。中等教育を担う私立の実業学校で、電気系のコースを選択した。翌年、無線通信士を養成する官立無線電信講習所(逓信省所管)が、生徒を募集しているのを知る。
 「官立の2文字に魅了されました。通信士の仕事をしたいと思ったのです」
 佐東さんは官立無線電信講習所大阪支所(43年10月に開所)に応募する。250人の定員に対して受験番号は3600番台だった。しかも筆記試験の前に、身体検査と体力測定が入念になされた。
 「体力に自信がなく、武道も嫌いなので、落ちるだろうと覚悟していました」
 だが案ずることなく難関を突破して44年5月に入学する。通信技術の授業は厳しかったが、和文や欧文の送受信を習得するにつれ意欲もわいてきた。
 ところが半年足らずで、一方的に繰り上げ卒業を通告される。しかも卒業の2週間前から、数字を組み合わせた略号通信の特訓が始まった。軍隊の通信は4桁の数字のみを使っていると聞かされた。

http://mainichi.jp/area/news/20120605ddn012040050000c3.htmlより、
 軍隊に配属されるのではないか……。佐東さんは一抹の不安を抱いた。軍隊に行くつもりは毛頭なく、民間施設の通信士が希望だった。
 卒業式の2日前、10月8日に1人ずつ所長室に呼ばれ、配属先を告げられた。臨席していた教練担当の将校は佐東さんに命じた。
 「おまえは鹿児島の出身だな。佐賀の電信第二連隊に行ってもらう」
 電信第二連隊は陸軍の西部八二部隊に所属していた。できるものなら拒否したい佐東さんは、「あのう」と口を挟んだ。すると将校は「なんだ!」と一喝してきた。有無を言わさぬ口調であり態度だった。
 かくして16歳の佐東さんは、軍隊に召し上げられた。(次回は12日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20120612ddn012040048000c.htmlより、
平和をたずねて:沖縄戦の少年通信士/2 伏せられた赴任先=広岩近広
毎日新聞 2012年06月12日 大阪朝刊

 太平洋戦争時の陸軍通信隊はグンツウ(軍通)の略称で呼ばれた。軍司令部と師団司令部さらには連隊間の通信を担い、中隊を組んで行動した。
 グンツウの母体が電信連隊である。1944(昭和19)年10月に官立無線電信講習所大阪支所を繰り上げ卒業した少年通信士は219人だった。このうち75人が神奈川の電信第一連隊、40人が佐賀の電信第二連隊に配属された。
 鹿児島県喜界町の佐東喜三郎さん(83)は語る。「根こそぎの学徒動員でした。佐賀に向かう私たち40人の同期生は一蓮托生(いちれんたくしょう)の運命を背負わされたのです」
 佐賀電信第二連隊は陸軍の西部八二部隊に所属していた。佐東さんら40人は10月20日に入隊する。部隊には将校の社交場「偕行(かいこう)社」があり、そこで佐東さんは軍装品を調達した。
 「通信士は軍属で兵隊ではありません。だが服装は軍人にならい、朝夕に戦陣訓を口答させられました」

http://mainichi.jp/area/news/20120612ddn012040048000c2.htmlより、
 偕行社で購入した軍装品について、佐東さんはメモに残している。軍からの支給は服務手当80円、出戦手当85円、入隊旅費26円45銭だった。いわば収入で、対して支出は軍刀71円、文官外套(がいとう)47円10銭、脚半22円50銭、メリヤス下着1円90銭など計14点234円10銭である。差額の42円65銭は徴収された。ちなみに当時はハガキが5銭で、ビールが1円30銭だった。
 「おろしたての将校服をまとい、引きずるような軍刀を下げた姿を互いに見せ合っているうちに、そこは軍国主義教育を受けてきた少年たちですから、妙に連帯感が生まれ、安堵(あんど)している自分がいました」
 ある種の高揚感が、平常心を飛び越えさせた。希望しなかった軍隊だが、もはやそんなことを考える気分はうせていた。
 このあとマラリア予防の四種混合ワクチンの予防接種を受ける。異常が認められないとわかるや、私物を留守宅に送る準備にかかった。佐東さんは学生服を小包用の紙に包んだ。卒業証書は手元に残した。赴任先は知らされていなかった。

http://mainichi.jp/area/news/20120612ddn012040048000c3.htmlより、
 「小包の受取人である両親には、就職先に行きます、と伝えただけです。軍隊名も差し出し先の住所も書けませんでした」
 鹿児島県大島郡……と宛先を書いていたとき、軍曹が打ち見てささやいた。「近くに行けそうだぞ」
 佐東さんは沖縄を連想したので、問い掛けようとした。軍曹はあわてて厳命した。「いま言ったことは、絶対に口外するな」
 少年通信士の40人と100人ほどの兵隊が電信第二連隊を後にして、鹿児島行きの列車に乗った。鳥栖駅を過ぎたところで、目的地が沖縄だと告げられる。
 「あ〜あ、玉砕やな」
 少年通信士の間でざわめきが起きた。「半ば本心、半ば冗談めかした仲間内の会話でした」。沖縄の要塞(ようさい)化はすでに周知の事実で、玉砕の二文字も列島にひろまっていた。佐東さんは、まさか現実になろうとは思いもしなかった。(次回は19日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20120619ddn012040008000c.htmlより、
平和をたずねて:沖縄戦の少年通信士/3 救命胴衣つけ出航=広岩近広
毎日新聞 2012年06月19日 大阪朝刊

 刻一刻と米軍の艦隊が日本列島に照準を合わせつつあった1944(昭和19)年3月22日、大本営は南西諸島を防衛する目的で第三二軍(沖縄守備軍)を新設した。司令部を那覇市に置き、沖縄を要塞(ようさい)の島にすべく兵力の増強を進めたのである。
 だが、このとき米軍の潜水艦群は沖縄近海に潜んでいた。6月29日には、沖縄に向かう部隊を乗せた「富山丸」が魚雷攻撃を受けて、約4000人の兵隊を失っている。兵隊だけでなく、軍需物資を運ぶ日本の輸送船はことごとく狙われた。
 このため佐東喜三郎さんら40人の少年通信士は沖縄の第三二軍に赴任するにあたり、鹿児島で肉体労働をこなさねばならなかった。乗船中に魚雷攻撃を受けた場合を想定して、竹のイカダ造りに明け暮れた。
 まず海岸に積み上げた孟宗(もうそう)竹を鹿児島港近くの商業学校の校庭に運んだ。4メートルの長さにそろえて切り、それを1本ずつワラ縄で縛りつける。こうして縦2メートル、横4メートルのイカダの山を築いた。作業は10月末から1週間ほど費やした。
 佐東さんは言った。「輸送船が魚雷で攻撃され、海に放り出されたら大変だなと思いながら、イカダを造っていました」

http://mainichi.jp/area/news/20120619ddn012040008000c2.htmlより、
 実はすでに大惨事が起きていた。那覇から鹿児島に向かう学童疎開船「対馬丸」が8月22日に撃沈され、779人の学童を含めて1476人が犠牲になった。当時9歳の平良啓子さんはイカダにつかまり6日間の漂流にたえて生き延びた。著書「海鳴りのレクイエム」(民衆社)に書いている。
 <たどり着いてみると、そこでは一つのイカダ(二〇本ぐらいの竹をあんだもの)を何十人ものひとびとがうばい合っている。すがりついても力のあるものが、力の弱い者をふり落とす。やっとはい上がったかと思うと、またつぎの人に引きずり落とされる。(中略)ふとうしろを見ると、私に、自分のご飯をくれたやさしそうなおばあさんがいなくなっていた>
 少年通信士がイカダ造りに駆り出されたわけだが、軍は対馬丸の惨事を隠していた。魚雷攻撃に遭えば助かる者は限られるが、それでも船に乗るしかなかった。11月3日の早朝、佐東さんらを乗せた「慶運丸」は鹿児島港を離れた。
 「船倉にいて魚雷を受けると危険なので、いつでも海に飛び込めるように救命胴衣を身につけて、全員が甲板上に集められました」

http://mainichi.jp/area/news/20120619ddn012040008000c3.htmlより、
 慶運丸は魚雷攻撃に備えて「之」の字を描くように、ジグザグの「之字航法」で進んだ。「開聞岳を昼間見たのに、夕方になってもまだ見えるほど、恐ろしく遅い速度でした」
 船酔いをする者も現れた。しかし、海に吐きだすことは許されなかった。
 「飯ごうの中に吐き出せ、と怒声が飛んでいました」。佐東さんは苦笑を見せた。「吐瀉(としゃ)物から、船の動きが米軍に察知される恐れがあるというのですよ」
 夜の海上は激しい季節風が吹き荒れた。甲板の冷気は肌にしみ、佐東さんら少年通信士は縮こまって震えていた。(次回は26日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20120626ddn012040039000c.htmlより、
平和をたずねて:沖縄戦の少年通信士/4 焼き尽くされた那覇=広岩近広
毎日新聞 2012年06月26日 大阪朝刊

 沖縄の那覇市は大火にのまれたように見えた。おおかたの建物が焼き尽くされていた。黒い街だった。
 「たいへんなところに来たな、というのが実感でした」
 当時、16歳の少年通信士だった佐東喜三郎さんが目にした光景である。1944(昭和19)年11月6日のことで、鹿児島港から佐東さんらを乗せた「慶運丸」は無事に那覇港に着いた。
 上陸した那覇の街は無残だった。米軍の大空襲が10月10日にあり、その余燼(よじん)がくすぶっていた。沖縄大空襲については「沖縄戦史」(上地一史著、時事通信社)に詳しい。
 <那覇は、燃えるべきもののすべてが火を発しているようだった。黒煙が立ちこめ、太陽は、黒煙をとおして朱色の盆のように中天にかかっていた。(略)家を焼かれた人々の列は夜どおし、北へ、南へ、東へ、といく群も続いていた。その人々が背を向けて遠ざかって行く那覇の街は、夜空を染めて燃えさかり、集積されていた糧秣(りょうまつ)、弾薬もつぎつぎに火を吐き、ガソリン缶が破裂、赤い火柱がいくすじも立った>

http://mainichi.jp/area/news/20120626ddn012040039000c2.htmlより、
 沖縄大空襲の10月10日は、佐東さんの卒業式だった。官立無線電信講習所大阪支所で卒業証書を授与されたものの、2日前に佐賀の電信第二連隊への配属を告げられていた。最後の自由時間を大事にしようと、佐東さんは大阪・新世界に映画を見に出かけた。
 「映画の内容は記憶にありませんが、号外だったでしょうか、那覇が空襲を受けて被害が出ていると報じていたのを覚えています」
 佐東さんは那覇に着くや、このことを思い出した。「号外を見たとき、那覇に来るとは想像だにしなかったです」。暗雲に包まれた沖縄ながら、それでも米軍の上陸はありえないと、願いをこめて自分に言い聞かせるのだった。
 第三二軍(沖縄守備軍)の司令部は那覇市郊外の安里蚕種試験所に置かれ、空襲を免れていた。40人の少年通信士は司令部の合同通信所や首里市(当時)の対空一号送信所などに分かれて配属された。
 送信機は一号から五号まであり、大本営への送信を受け持つ一号が重要だった。この対空一号送信所に赴いた佐東さんは振り返る。「せっかく覚えた通信技術ですが、電鍵をたたいてモールス符号を打つのは受信所の受け持ちでした」

http://mainichi.jp/area/news/20120626ddn012040039000c3.htmlより、
 こういうことである。送信所から約1キロ離れた受信所との間は、遠操線と呼んだ被覆線で結んでいた。受信所で通信士が打ち出すモールス信号は、遠操線を通じて送信所に届き、そのまま一号送信機で大本営に送られた。「私たちの仕事はメーターの監視と大型エンジンの水冷でした」
 対空一号送信所では、エンジンを冷やすために24時間交代で水を補給しなければならなかった。エンジンの高さは背丈ほどあり、踏み台にあがり、ホースで水を満たす。この作業は佐東さんも苦労した。「居眠りをしたため、ホースの蛇口が外れて水漏れしたときには、ぶん殴られました」(次回は7月3日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20120703ddn012040021000c.htmlより、
平和をたずねて:沖縄戦の少年通信士/5 墓地の石室から交信=広岩近広
毎日新聞 2012年07月03日 大阪朝刊

 沖縄県北部の本部半島に渡久地港はひっそりとあった。この小さな港から8人の男が、2ノットの「ポンポン蒸気船」に乗り込んだ。1944(昭和19)年11月下旬のことである。
 第三二軍(沖縄守備軍)の伊江島航空通信隊に配属された面々だった。伍長(ごちょう)、上等兵と2人の初年兵、それに佐東喜三郎さんら4人の少年通信士が船上にいた。佐東さんは首里の対空一号送信所を、わずか1カ月足らずで離れたことになる。
 伊江島は本部半島の北西9キロの海上に位置する。東西8・4キロ、南北3キロの狭小の島に、陸軍は重爆撃機用の飛行場を造成中だった。南西諸島に多数の航空基地を置くのは大本営の方針で、沖縄本島のほかに徳之島、宮古島、石垣島にも滑走路を開いている。
 さて、「ポンポン蒸気船」に乗った少年通信士だが、ほどなくして伊江島に着いた。さっそく自分たちが使う3号甲無線機を陸揚げした。手回し発電機によって動かす携帯用の無線機だった。送信と受信を同時に行えないが、持ち運べたので重宝がられた。

http://mainichi.jp/area/news/20120703ddn012040021000c2.htmlより、
 この3号甲無線機をヒモで十文字に縛った。ヒモの間にこん棒を通して、16歳の佐東さんは同期生と担いだ。そうして持ち込んだ伊江島航空通信隊の通信所は、なんと墓地だった。
 中国南部からの伝来といわれる亀甲墓で、沖縄ではゆるやかな斜面に点在している。亀の甲羅のように石を配した屋根の下に、4畳から8畳ほどの石室があった。このため日本軍はトーチカや退避壕(ごう)に転用し、伊江島では通信所にあてていた。
 「お医者さん一家の墓でした。骨箱を運び出して通信所用に提供してもらったそうです」
 そう話す佐東さんら10人は、亀甲墓の通信所に寝泊まりした。目の前に広がる第五十飛行場大隊の通信を受け持ち、読谷と宮古島の通信所との交信が主な業務だった。
 「夜間に1時間おきの交信は大変でしたが、モールス符号を打てるだけで感激していました」。佐東さんは続ける。「電報量は少なく、互いに交信できることを確認し、良好な通信状態を維持するのが目的だったと思います」
 陸軍が東洋一と誇る飛行場の完成を前に、4人の少年通信士は穏やかに新年を迎えた。だが、それもつかの間の休息にすぎず、45年1月22日、米軍機の大群が姿を見せた。

http://mainichi.jp/area/news/20120703ddn012040021000c3.htmlより、
 <飛行場など軍事施設ばかりでなく、民間地域にも多大な損害をもたらした。文字通り着の身着のまま焼け出された者や死傷者が少なくなかった>「沖縄県史」(沖縄県教育委員会)
 佐東さんは思い起こす。「防空壕でじっとしているだけでした。友軍機が飛び立てなかったのは、おびただしい数のグラマンを認めたので勝ち目がないと思ったからでしょう」
 南西諸島の航空要塞(ようさい)をあざわらうかのように、米軍機はわが物顔で飛んでくるのだった。(次回は10日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20120710ddn012040049000c.htmlより、
平和をたずねて:沖縄戦の少年通信士/6 伊江島、住民巻き込み=広岩近広
毎日新聞 2012年07月10日 大阪朝刊

 軍隊は運隊だと多くの兵隊が口にしてきた。天任せの運ではない。司令官や部隊長の指示ひとつで生死の命運が決まった。
 東洋一と吹聴した沖縄北部の伊江島飛行場を、陸軍が自ら破壊したのは1945(昭和20)年3月10日である。島の住民を動員して築いた重爆撃機用の飛行場だが、第三二軍(沖縄守備軍)は米軍の手に落ちて利用されるのを恐れた。
 その米軍は3月25日から伊江島の攻撃を開始し、4月16日に上陸する。沖縄戦の縮図といわれる住民を巻き込んだ伊江島の惨劇は、こうして始まった。
 <守備軍は、死者四七〇六人を出したほか一四九人が捕虜にされた。戦闘が終わってから米軍が日本兵の死体を点検したところ、約一五〇〇人ほどは地元で動員された防衛隊員、その他の住民であったという>「これが沖縄戦だ」(大田昌秀編著、琉球新報社)
 このとき伊江島航空通信隊の佐東喜三郎さんら4人の少年通信士は、首里の部隊に戻っていた。
 佐東さんは鹿児島県・喜界島の自宅で振り返る。「3月2日だったと思います。電信第三六連隊が結成されたので復帰せよ、との転属命令が出たのです。何もわからないまま翌日、伊江島を後にしました」

http://mainichi.jp/area/news/20120710ddn012040049000c2.htmlより、
 この後、通信所用に亀甲墓を提供した医師一家に悲劇が起きた。爆雷を抱いた三女が、米軍の戦車を目がけて飛び込んだ−−。佐東さんは戦後に伊江島を訪ねて初めて知る。「時々、遊びに行っていたので20代の娘さんをよく知っています。斬込隊に志願して亡くなったと聞いたときは、衝撃のあまり言葉もありませんでした」
 彼女が死んだ4月18日について「沖縄戦史」(上地一史著、時事通信社)は記している。<伊江島の女子救護班員がこの将校団の斬込みに参加を希望した。(略)五名は頭髪を切り戦闘帽をかむり、軍靴をはき、男装した。そして赤十字カバンと爆雷とマッチを持って壕(ごう)を飛び出した。夜間行動のためみな白布で背中に円形の標識をしていた>
 佐東さんはしみじみと語る。「伊江島の洞窟を思い出すたび、洞穴から顔を出し『よう、軍属』『よう、海賊』と仲間同士でふざけ合う声が聞こえてくるようです。私たち4人は沖縄本島に戻りましたが、手を握り合って別れた通信隊の仲間は戦没したと思います。悲しいですよ」

http://mainichi.jp/area/news/20120710ddn012040049000c3.htmlより、
 当時、16歳の佐東さんは電信第三六連隊にあって、軍司令部合同通信所に配属された。このとき第三二軍の司令部は首里城の地下に掘ったトンネル内に移っていた。深さは15メートルから30メートルに達し、総延長が1キロに及ぶ巨大な洞窟司令部である。佐東さんはこの司令部近くの首里高地に造った半地下壕の合同通信所で、軍事通信の任務に追われた。
 そして米軍は、3月27日に慶良間(けらま)諸島の渡嘉敷島に上陸する。艦砲と艦載機群による「鉄の暴風」が沖縄本島にも吹き荒れた。非業の死に追いやられた住民の亡きがらは増すばかりだった。(次回は24日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20120724ddn012040035000c.htmlより、
平和をたずねて:沖縄戦の少年通信士/7 断末魔の叫び、今も…=広岩近広
毎日新聞 2012年07月24日 大阪朝刊

 ズーズー弁で親しまれたヒゲの伍長(ごちょう)は、左胸部から肩口にかけて迫撃砲弾の破片で吹き飛ばされていた。第三二軍(沖縄守備軍)所属の電信第三六連隊で最初の犠牲者だった。池の水面に浮かんだ伍長の死体を前に、佐東喜三郎さんら少年通信士は征野の非情を思い知らされた。
 1945(昭和20)年3月25日、米軍の艦隊群は沖縄本島を取り囲んだ。このあと那覇港の沖合10キロに浮かぶ神山島に、迫撃砲の陣地を構える。すぐさま重砲弾が軍司令部や電信第三六連隊のある首里高地に集中し、一帯は地面が持ち上がったように揺れた。
 惨死はヒゲの伍長にとどまらず、有線中隊の上等兵も迫撃砲弾を浴びた。寸断された通信回線の保線作業中だった。佐東さんは「殺してくれ」と叫ぶ上等兵の声を聞いて駆けつけた。
 「両足の大腿(だいたい)部から下を断ち切られていて、どうすることもできませんでした。断末魔の絶叫が今も耳に残っています」

http://mainichi.jp/area/news/20120724ddn012040035000c2.htmlより、
 佐東さんは半地下壕(ごう)の通信所にもぐり、4人交代で24時間の通信業務についていた。「空から、海から、絶え間なく爆撃されるのでアンテナが壊れたり、部隊間の連絡線が寸断されるのです。雑音、混信、空電に悩まされる通信業務に加えて、断線、保線、断線、保線の繰り返しで疲労の極にありました。艦砲射撃や迫撃砲の銃砲弾を避けながらの保線作業は命がけで、とにかく緊張の連続でした」
 守りに徹するなかで、死傷者は増える一方だった。首里城の地下に掘った洞窟司令部の入り口に設けられた炊事場までの往復さえ、佐東さんは危険を覚悟した。
 「夜間に翌日分の握り飯をまとめてもらいに行くのですが、同期に会えるのが楽しみでした。顔は見えなくても、『おしっ』とか『生きてるか』と小声を交わすだけで元気になりました。誰だったかなと思い返すことがあっても、妙に安心したのも事実です」

http://mainichi.jp/area/news/20120724ddn012040035000c3.htmlより、
 この頃、佐東さんは艦砲による銃弾と迫撃砲の弾丸を識別できるようになっていた。「迫撃砲弾が近づいてくると、ヒューンと風が鳴るような音がするのです。ハクがくるぞ、気をつけろ、と声をかけ合いました。頭上で炸裂(さくれつ)して破片が四方に飛び散るので危険です」
 米軍の偵察機は「トンボ」と呼んだ。トンボが舞うように低空飛行を続けては、日本兵の居場所を見つける。「トンボ」が消えると「鉄の暴風」が吹き荒れた。「トンボが来るぞ、隠れよと口に出しても、神経がマヒして慣れきっていました」
 「天の岩戸戦闘司令所」の看板を、佐東さんが見たのもこの頃である。参謀長の筆墨で、洞窟の司令部に通じる第3坑道の入り口に掲げられていた。
 佐東さんは言った。「日本神話に出てくる、岩窟の固い戸とされる天の岩戸をイメージして、神風はここから吹くと、士気を鼓舞するために書かれたのではないでしょうか」
 参謀長の胸奥はのぞけないが、米軍は沖縄本島への上陸を控えていた。(次回は31日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20120731ddn012040067000c.htmlより、
平和をたずねて:沖縄戦の少年通信士/8 司令部露見、猛烈な爆撃=広岩近広
毎日新聞 2012年07月31日 大阪朝刊

 コードネームは「ラブ・デイ」だった。米軍は1945(昭和20)年4月1日、沖縄本島に上陸する。中部の西海岸に日本軍の姿はなく、地雷も見つからず、コードネームらしい楽観的な無血上陸を果たした。
 第三二軍(沖縄守備軍)は後退配備を敷いていた。首里城の地下深くに掘った陣地は、隆起サンゴ礁の地質のため洞窟の上部を厚いベトン(コンクリート)が覆っているような状態だった。
 <首里高地だけでも日に数千発の砲弾が落下し、密林、城壁などが無残に爆破され、首里市街も瓦礫(がれき)の山となったが、洞窟内は安全で、明るい電灯がともされ、一千名を越す司令部要員の業務に支障はなかった>「沖縄に死す」(小松茂朗著、光人社NF文庫)
 合同通信所に所属した少年通信士の佐東喜三郎さんは、この洞窟司令部の近くに造った半地下壕(ごう)の第1通信所で任務についていた。惨事は4月半ばの朝に起きた。同期生が上半身裸のまま飛び込んできた。
 「おまえの居住壕がやられたぞ」

http://mainichi.jp/area/news/20120731ddn012040067000c2.htmlより、
 佐東さんは約100メートル離れた素掘りの居住壕を出て、通信所に入ったところだった。あわてて戻ると、さきほどまでいた居住壕が跡形もなく吹き飛んでいた。大型砲弾の直撃を受けたのは明らかだった。
 樹木の枝に肉片がぶら下がっていた。交代勤務を終えたばかりの仲間を見つけたので聞くと、彼は居住壕に帰る途中に立ち話をしていて難を免れたという。軍曹ら残りの7人は居住壕にいて爆死した。
 「私物を取り出そうと壕跡の掘り起こしにかかると、こま切れの肉片や軍装品の破片が出るのです。砲弾のすさまじさを見せつけられました。軍刀も卒業証書も見つからず、それからは着た切りスズメです」
 佐東さんは、死と隣り合わせにいる戦場の現実を突きつけられた。「送受信所間を結ぶ遠操線が切断されるたびに、遮蔽(しゃへい)物のなくなった戦野で保線作業に当たりました。悲壮感を通り越して諦めのような、それでいて、この状態から逃れることはできないものかと、何かにすがりつきたい思いに駆られたものです」

http://mainichi.jp/area/news/20120731ddn012040067000c3.htmlより、
 米軍の波状攻撃が繰り返されるうち、ついには保線作業が追いつかなくなった。地上をはわせていた遠操線は、洞窟司令部のトンネルをくぐらせることにした。何十本もの遠操線を束にして、洞窟の壁にぶら下げた。小さな板に書かれた分電盤を示す文字が、ランプの灯の下に浮かんだ。
 そこへもってきて「天の岩戸戦闘司令所」の看板を掲げた第3坑道の入り口が数発の砲弾を浴びた。まとめて敷設していた遠操線の束が切断されたのは痛かった。佐東さんはこう語る。
 「強力な電波が一斉に途絶えたため、日本軍の通信実態を把握していた米軍は、ここに軍司令部があると見破ったにちがいありません。というのも、それまで体験したことのない猛烈な集中爆撃が始まったからです」
 洞窟司令部の命運は尽きようとしていた。(次回は8月7日に掲載)

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120731/plc12073103340004-n1.htmより、
産経新聞【主張】原発比率 成長実現する選択肢示せ
2012.7.31 03:34

 2030年の総発電量に占める原発比率について、経団連は「20~25%」が妥当だとし、5年内に再び議論すべきだとの意見書を提出した。
 野田佳彦政権は、経済への影響を懸念する産業界の声や各選択肢の実現可能性などを多角的に検討し、適正な原発の割合を導き出してほしい。
 政府のエネルギー・環境会議は30年の原発比率の割合を「0%」「15%」「20~25%」とする3つの選択肢を示し、政府はそれを基に意見聴取会を進め、国民的議論を通じて結論を出すという。
 だが、個人参加の意見聴取会では、「原発ゼロ」を求める声が多く、電力会社関係者を除外するなど多様な意見を制限している。産業界からの不安を議論に反映させる仕組みも不十分なままだ。
 当面の電力不足をどう解消するかも見えない。野田政権は、資源小国として安価で安定的な電力供給をいかに確保するかという、国家のエネルギー安全保障の観点から判断しなければならない。
 3選択肢は実質経済成長率が年1%程度でのエネルギー消費を前提とする。だが、政府が30日に決めた日本再生戦略では実質成長率目標を年2%に置いている。
 成長率が高まれば、その分、エネルギー消費は増え原発の必要性は高まる。年2%成長のためにはいかなる選択肢が必要なのかを示すべきだ。
 選択肢では、太陽光や風力など再生可能エネルギーの比率を25~35%に高める。だが、水力を除く再生エネ比率は現在、1%にすぎない。それを大幅に増やす具体的な道筋は示されていない。実現可能性には大きな疑問符が付く。
 その再生エネの全量買い取り制度は7月から始まった。だが、原発ゼロで再生エネを35%まで増やすとなると、電力料金は最大2倍に上昇すると試算される。輸出企業の国際競争力は低下し、料金転嫁が難しい中小企業にとっては死活問題となりかねない。
 再生エネの拡大策については、経団連も「実現可能性が低い」と批判し、早急な見直しが必要という立場だ。こうした意見を反映させていくためにも、拙速な結論は避けるべきだろう。
 山口県知事選では、反原発を掲げる候補が敗れ、冷静な民意が示された。政府も、将来の現実的なエネルギー政策を見据え、国民的議論を促す姿勢が求められる。

http://mainichi.jp/opinion/news/20120731k0000m070096000c.htmlより、
社説:原発と民意 不信のマグマがたまる
毎日新聞 2012年07月31日 02時31分

 原発再稼働問題を中心に国民の政治不信の高まりを示すサインがほぼ同時に発せられた。山口県の知事選で「脱原発」を掲げた候補が善戦し、東京では反原発を訴える大規模なデモが行われ、参加者が国会議事堂を取り囲んだ。
 保守地盤の厚い地域で「脱原発」候補が無党派層に支持を広げたり、政党を超えた人々の運動が起きたりしていることは民主、自民など既成政党への重い警告と言える。とりわけ、原発再稼働を進める野田佳彦首相は不信のマグマがたまっている現実を直視すべきだ。
 自民にとって冷や汗ものの選挙だったはずだ。山口県は民主党旋風下の09年衆院選ですら四つのうち3選挙区を自民が制している。自公は国土交通省OBの山本繁太郎氏を擁立したが民主は候補擁立に至らず無風でもおかしくない構図だった。
 だが「脱原発」論者で橋下徹大阪市長のブレーンだった飯田哲也氏の出馬で、様相は一変した。飯田氏は中国電力上関原発の建設計画の白紙撤回を主張、「山口八策」など大阪維新の会を連想させる選挙を展開した。自公は危機感を募らせ、原発推進だった山本氏も計画「凍結」に修正、争点化の回避を迫られた。
 結局山本氏が当選したが、草の根選挙で約6万7000票差に飯田氏が追い上げたことは軽視できない。

http://mainichi.jp/opinion/news/20120731k0000m070096000c2.htmlより、
 毎日新聞などの出口調査では無党派層の53%が飯田氏に投票した。原発再稼働や米軍機オスプレイの搬入問題など野田内閣への批判が同じ既成政党勢力として自公推薦候補に向かった可能性がある。次期衆院選で大阪維新の会など「第三極」進出への既成政党側の警戒は強まろう。
 こうした動きは毎週、首相官邸前で行われる反原発デモの広がりと決して無縁ではない。市民ネットワークが呼びかけた29日の大規模デモ行進には猛烈な暑さの中、幅広い年齢層の人たちが自発的に参加し、国会議事堂周辺を埋め尽くした。
 日本で久しくみられなかった脱政党、脱組織型の大規模な市民行動はとても重要な意思表示だ。関西電力大飯原発をきっかけに野田内閣がなし崩しに原発再稼働を進め、政府のエネルギー政策がかつての状況に後戻りする懸念、そうした思いを直接政治に反映するすべのない怒りの表れであろう。にもかかわらず、官邸の反応はあまりに鈍い。
 毎日新聞の最近の世論調査では野田内閣の支持率は23%と、発足以来最低を記録した。民主党分裂や消費増税問題などさまざまな要因はあろうが、原発再稼働、オスプレイ配備など手荒な政権運営に陥りつつあることへの世論の警告を真剣に受け止めるべきだ。

http://mainichi.jp/opinion/news/20120728k0000m070183000c.htmlより、
社説:原発危険度 順位付けして公表せよ
毎日新聞 2012年07月28日 02時31分

 政府が示す「エネルギー選択肢」は「原発からグリーンへ」をめざしている。土台となる視点は、2030年までにどこまで原発依存度を下げるか、である。
 そこで第一に考えるべきは原発のリスクだ。再生可能エネルギーのコストや産業への影響から決めようとすれば、原発のリスクに目をつぶることになりかねない。
 ところが、政府が掲げる原発比率「0%」「15%」「20〜25%」の選択肢には個々の原発のリスク評価が組み込まれていない。たとえば、「15%」は既存の全原発50基に「運転40年で廃炉」をあてはめた数値だ。東京電力福島第2原発や東北電力女川原発など東日本大震災で被災した原発の稼働も前提としている。国民の感覚とは相いれない。
 原発依存度を下げる方針を掲げている以上、政府はまず、リスクの高い原発から廃炉にしていく決断を示す必要がある。そのためには、単に「40年廃炉」を指標とするだけでは不十分だ。複数の指標で原発のリスクを判定し、全原発の相対的な危険度を公表してもらいたい。
 炉型は当然、指標のひとつだ。福島第1原発と同型の女川、敦賀、島根の各1号機には、廃炉を考えるべきリスクがある。

http://mainichi.jp/opinion/news/20120728k0000m070183000c2.htmlより、
 地盤や地震・津波によるリスクも見逃せない。国会や政府の事故調査で、政府も電力会社も、地震・津波への安全対策を意図的に怠ってきた構図が明らかになっている。公正な目で全原発の地盤のリスクと地震・津波に対する脆弱(ぜいじゃく)性を評価し直さなくてはならない。
 巨大地震を起こすプレート境界の真上に建つ中部電力浜岡原発のリスクは誰が見ても高い。北陸電力志賀原発や日本原子力発電敦賀原発のように敷地内を活断層が走っている可能性の高い原発も、危険度が高いはずだ。東電柏崎刈羽原発や志賀原発のように、過去に想定を超える揺れに見舞われた原発のリスクも考慮に入れるべきだ。
 超党派の国会議員で作る「原発ゼロの会」は、6月に「原発危険度ランキング」を公表している。周辺人口まで含めた独自の指標に基づいて判定しており、これも参考になる。
 危険度に応じた廃炉を考えれば、原発新増設を前提としない限り「15%」の選択はありえないのではないか、との疑問も浮かぶ。政府はそうした背景もきちんと示してほしい。
 関西電力は今週、漫然と高浜原発の再稼働を言い出した。原発危険度の総合評価は、こうした「安全神話」への逆戻りを許さないための手立てでもある。

http://www.asahi.com/paper/editorial.html#Edit2より、
朝日新聞 社説 2012年7月20日(金)付
核燃料の処分―国の責任で新戦略を

 原発に依存しない安心な社会をつくっていく。そのためには、発電全体での原発比率を下げるだけでなく、核燃料サイクルからの明確な撤退方針を示すことが必要だ。
 関係閣僚による「エネルギー・環境会議」は8月末、今後のエネルギー政策の方向性を決める。2030年での原発依存比率は、0%、15%、20~25%の選択肢を検討している。
 その際、使用済み燃料の処分方法も決める。原発を止めても立ちはだかる使用済み燃料の保管・処分問題をどうするか。日本は今、大きな岐路に立つ。
 使用済み燃料をすべて再処理し、プルトニウムをとり出して燃料として使う。この全量再処理・核燃料サイクルが日本の原子力政策の要となってきた。
 エネルギー・環境会議は、原発ゼロなら全量を再処理せず、地下に埋設する直接処分が妥当で、あとの二つの場合は直接処分と再処理の両方があり得るとの見方を示している。だが、中途半端な結論にせず、再処理路線から直接処分の方向へ、明確にかじを切るべきだ。
 今後の日本では、原発を増やすことは考えにくい。ウラン燃料の使用量が減るのに、わざわざ再処理して割高のプルトニウムを使うのは合理的でない。
 日本が、経済的に見合わないのに、核兵器の材料ともなるプルトニウムの大規模利用をめざせば、それをまねて再処理に動く国が続出しかねない。そうなれば世界の核不拡散体制にも悪影響を与える。
 だからこそ、使用済み燃料を再処理せず、数十年の間、中間貯蔵したあと直接処分するのが、得策と考える。
 ただ、この直接処分路線を選ぶと、「価値ある資源」だった使用済み燃料は一転して「価値のないごみ」になる。その結果、民間企業がビジネスとして使用済み燃料を扱う方式はいずれ、壁にぶつかるだろう。
 そこで、国が前面にたって中長期的な戦略をたてることが不可欠だ。
 使用済み燃料の中間貯蔵施設の建設、最終処分の研究開発、最終処分地探しなどを、事業の国有化も含めて、国が責任を持って進めていくことだ。欧米諸国も、使用済み燃料の扱いを民間企業にあずけず、国が前面に出て取り組んでいる。
 核燃料サイクル施設がある青森県での代替の振興策や、再処理ビジネスをしてきた日本原燃の業務転換など、難題は多い。だが、いずれも、脱原発依存への途上で、国しか担いきれない重い任務である。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120702/plc12070203510005-n1.htmより、
産経新聞【主張】核燃サイクル 有用性を示す責務がある
2012.7.2 03:50

 政府のエネルギー・環境会議が夏に策定する日本のエネルギー計画と温暖化対策に関わる選択肢が、3つのシナリオとして発表された。
 東京電力福島第1原子力発電所の事故によって既存の「エネルギー基本計画」が白紙化されたことを受け、抜本的な見直しによる新計画構築の出発点となる3案だ。
 エネ環会議は、国民的な議論を喚起しながら、8月中に「革新的エネルギー・環境戦略」を決定する。それを踏まえて新エネルギー基本計画をまとめ上げるというスケジュールも示された。
 快適な生活や産業活動の維持にはエネルギーが不可欠であること、日本の決断は世界の国々のエネルギー選択に影響を与える国際的な位置づけにあることを、国民に向けた「エネルギー選択の意味」として明記している。
 全体に堅実な内容だ。古川元久国家戦略担当相を議長とし、関係閣僚で構成するエネ環会議の基本的な考え方を評価したい。
 シナリオ付きの選択肢は、2030年の時点で、全電力に占める原子力発電の比率を基準にして「0%」「15%」「20~25%」の3ケースで提示されている。
 原発0%のシナリオでは、原発を使わずに二酸化炭素を削減するため、「広範な規制と経済負担」が避けられなくなることなどが説明されていて、安易な理想論にくぎを刺す形にもなっている。
 この3選択肢の提示において、原子力発電の今後と深く関わる核燃料サイクル政策については、太陽光・風力発電など他電源との割合の組み合わせが固まった後に、「政府が決定する」とした。国民的議論とは一線を画す方針だ。技術論より感情論が上回りかねない問題では妥当な判断であろう。
 核燃料サイクル政策は使用済み燃料の再処理問題を含む課題だ。再処理工場や高速増殖炉、最終処分場の在り方、さらには立地自治体との関係もある。
 また、日本は非核保有国で唯一の再処理が認められている国だ。原子力発電の安全技術で世界に貢献しながら、核燃料サイクルの有用性を立証していく責務を負っている。いずれも忘れてはならないことである。
 これから2カ月、国民からの意見のくみ上げが行われる。成熟した議論が大切だ。その舵(かじ)を取るエネ環会議に国の将来がかかる。

http://mainichi.jp/opinion/news/20120626k0000m070127000c.htmlより、
社説:使用済み核燃料 直接処分に道筋つけよ
毎日新聞 2012年06月26日 02時32分

 日本はこれまで原発から出る使用済み核燃料を全量再処理し、再び原子炉で燃やす「核燃料サイクル」を国策としてきた。半世紀にわたりこだわり続けてきた硬直化した政策で、現実に即して見直す努力がなされてこなかった。
 福島第1原発の事故を経験した今、思い切った政策変更が必要だ。
 政府の原子力委員会は先週、将来の原子力比率に応じた核燃料サイクルの選択肢をまとめた。30年に原発ゼロの場合は「全量直接処分」、15%の場合は「直接処分と再処理の併用」、20〜25%の場合は「併用」もしくは「全量再処理」が適切で、原発ゼロの場合は高速増殖原型炉「もんじゅ」も中止としている。
 私たちはこれまで、コストや技術、安全面から、再処理をやめ、核燃料サイクル政策に終止符を打つべきだと指摘してきた。今回の選択肢は政策変更に道を開いたが、再処理にこだわり続けることは疑問だ。
 日本原燃が青森県六ケ所村に建設する再処理工場の処理能力は全国の原発から出る使用済み核燃料に追いつかない。そもそも「全量再処理」は非現実的だった。政府が「脱原発依存」の方針を掲げている以上、「併用」にも疑問がある。コストはもちろん、生じるプルトニウムを燃やして消費できる見通しがないまま、再処理を続けることは核不拡散の点でも問題が大きい。
 原子力委の報告で注目すべきは、むしろ、どの選択肢を選ぶにせよ取り組みが必要な課題かもしれない。

http://mainichi.jp/opinion/news/20120626k0000m070127000c2.htmlより、
 直接処分のための技術開発や制度の検討は、従来の政策の中で置き去りにされてきたものであり、早急に道筋をつけるべきだ。使用済み核燃料の乾式貯蔵も真剣に検討しなくてはならない。プール貯蔵のリスクを軽減するためだけではなく、直接処分を進めるための「中間貯蔵」を考える上でも重要となる。
 直接処分への政策変更が日本原燃や地元に与える影響を懸念する声があるが、これを解決していくのは政治の責任だろう。日本原燃が廃炉など別の役割を担うことはできないか。受益者も使用済み核燃料保管の責任の一端を担うことはできないか、検討を進めてほしい。
 高レベル放射性廃棄物の最終処分も、どの選択肢を選ぶにしても重要課題で、国が本気で取り組む必要がある。あてのないままに原発を動かし続けることは、子孫にツケを回すことに他ならない。
 核燃料サイクルの選択肢を検討していた原子力委の小委員会が、利害関係者が参加した非公開の会議を開いていた問題については、検証作業が進められている。その結果次第では今回の報告自体を見直す必要があることは言うまでもない。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120618/k10015918401000.htmlより、
再処理工場3年半ぶり試運転 青森
6月18日 20時41分

東京電力福島第一原子力発電所の事故をきっかけに、国の核燃料サイクル政策の見直しが進むなかで、政策の柱となっている青森県にある使用済み核燃料の再処理工場が、3年半ぶりに試運転を再開しました。
青森県六ヶ所村にある再処理工場は、原発の使用済み核燃料を再処理して燃料に使うプルトニウムを取り出す施設で、最終段階を迎えている試運転が相次ぐトラブルのため、平成20年12月から中断しています。
試運転は当初ことし1月ごろに再開する予定でしたが、高濃度の放射性物質の廃液を廃棄物にする工程で、ガラスを溶かして流したところ、管などが詰まるトラブルが発生し、延期されていました。
事業者の日本原燃は、管の中からレンガなどの異物を取り除いたうえ、先月から準備を進め、18日、模擬の廃液とガラスを混ぜる工程で作業を始めて、試運転を再開しました。
試運転の再開はおよそ3年半ぶりで、日本原燃は試運転を終了させたあと、ことし10月から本格稼働を予定していますが、トラブルによる遅れで予定どおりの稼働は極めて困難になっています。
国の核燃料サイクル政策は、先月、見直しの選択肢がまとまり、夏までに政策が決まる見通しですが、政策の柱となっている再処理工場が議論の途中で再開することに批判も出そうです。

http://www.asahi.com/paper/editorial.html#Edit2より、
朝日新聞 社説 2012年7月31日(火)付
国民年金未納―一歩踏み込んだ対策を

 自営業者やパート労働者らが加入する国民年金で、保険料の未納がまた増えた。昨年度の納付率は58.6%で、4年続けて過去最低を更新した。
 サラリーマンやその配偶者らを含む公的年金の加入者全体では95%が納めている。しかし、国民年金では加入者約1900万人のうち、今年3月まで2年間、保険料を払っていない人が320万人もいる。
 未納問題が年金への不信や不公平感を高め、それが未納につながる悪循環を、早く断ち切らねばならない。政府は踏み込んだ対策をとる必要がある。
 まずは「保険料を払えるのに払わない人」への対策だ。
 悪質な未納者からは強制徴収できる仕組みがある。ただ、日本年金機構が最終的に財産を差し押さえた例は、昨年度で5千件余り。前年度から増えてはいるが、1万2千件近かった06年度と比べれば半数以下だ。
 年金記録問題への対応などに追われ、強制徴収が手薄になったという。
 年金機構から厚生労働省、財務省を通じて国税庁に滞納処分を委任できる仕組みも、国民年金では使われたことがない。
 国税庁には税金の滞納処分を通じてノウハウが豊富にある。「国税庁が乗り出した」というだけで、一定の効果が期待できよう。政府もやっと積極的に活用する方針を打ち出した。
 年金機構と国税庁を核に、徴収業務の連絡と調整を担う組織を立ち上げる構想もある。縦割り意識を捨て、連携を深めてもらいたい。
 保険料を「払えない人」への対策も欠かせない。
 障害者や生活保護の受給者のうち一定の人は、保険料が自動的に免除される。所得の少ない人も、申請すれば全額または一部が免除される。
 年金機構は市町村などから得た所得情報に基づき、免除の対象者に文書を送って申請を促している。年に百数十万件に及ぶものの、応じない人が多い。申請して全額免除になった人は3月末で230万人いるが、1年間で9万人増えただけだ。
 未納が続くと将来、年金を受け取れなくなる恐れが高まる。無年金や低年金の人が増えないようにするには、申請を待たずに免除手続きができるようにすべきだろう。
 年金も保険である以上、「本人が申し込む」という申請主義が原則ではある。ただ、その見直しがたびたび議論されてきたのは、未納問題が一向に改善しないためだ。厚労省は一歩踏み出すときではないか。

http://mainichi.jp/select/news/20120710k0000m010068000c.htmlより、
国民年金加入者:4人に1人「年収0」 所得調査
毎日新聞 2012年07月09日 21時36分

 国民年金に加入する第1号被保険者(1号、1938万人)の38.0%は「年収50万円以下」で、4人に1人(24.6%)は「収入なし」であることが、厚生労働省が9日発表した公的年金加入者の所得に関する実態調査で分かった。国民年金は元々自営業者の制度だが、現在は無職の人や非正規雇用労働者が全体の6割を占めていることが影響したとみられる。
 年金加入者の年収調査は初めて。1号の人の平均は159万円で、民間サラリーマンらの厚生年金、公務員らの共済年金の加入者である第2号被保険者(2号)の平均426万円とは大幅な差があった。年金加入者全体の平均は297万円。ただし22.3%は50万円以下で、収入なしも14.7%だった。専業主婦ら第3号被保険者の平均は55万円。
 年収調査は10年11月〜11年2月、15歳以上の7万2244人の09年分を集計した。08年の調査によると、職業別の国民年金加入者は自営業者が15.9%なのに対し、無職は30.6%で1位となっている。【中島和哉】

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012070901002011.htmlより、
国民年金加入者4人に1人無収入 厚労省調査
2012年7月9日 19時42分

 厚生労働省は9日、自営業者や非正規労働者が入る国民年金加入者の4人に1人が無収入だったとの調査結果を発表した。無収入も含め年収100万円以下は約半数に上る。保険料納付率は4年連続で過去最低を更新しており、低所得のために保険料(現在月額1万4980円)が支払えない実態がうかがえる。
 厚労省が実施した「公的年金加入者の所得に関する実態調査」で分かった。2009年の国民年金加入者の平均年収は159万円で、「収入なし」は24・6%。収入なしを含め50万円以下は38・0%、50万~100万円以下は16・7%で、100万円以下は54・7%に上った。(共同)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120709/k10013456861000.htmlより、
国民年金 半数超年収100万円下回る
7月9日 18時59分

厚生労働省が公的年金の加入者の年収を調査したところ、国民年金の加入者の半数以上が年収100万円を下回っていることが分かりました。
厚生労働省は、おととし11月末現在で、公的年金に加入している全国の15歳以上の人のうちおよそ7万2000人を対象に、前の年の平成21年の年収を調査しました。
それによりますと、自営業者などの国民年金の加入者の平均年収は159万円、厚生年金や共済年金に加入するサラリーマンや公務員などは426万円、保険料をみずから払う必要がないサラリーマンや公務員の妻などは55万円で、全体の平均は297万円でした。
このうち、国民年金の加入者をみますと、年収がない人と年収50万円以下が合わせて38%と最も多く、50万円以上100万円以下も17%いて、全体の55%が年収100万円を下回っていることが分かりました。
また、国民年金の加入者の職業をみますと、無職の人が28%、パートやアルバイトなど臨時や不定期で働く人が23%となっています。
厚生労働省は「国民年金の加入者に所得の低い人が増えているのは推測していたが、今回の調査で、具体的な実態が初めて裏付けられた。将来、低い額の年金しか受け取れない人が増えるとみられ、調査結果を今後の年金制度についての議論に生かしてほしい」と話しています。

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201207/2012070500567より、
国民年金納付率、58.6%=6年連続で前年下回る-厚労省

 厚生労働省は5日、2011年度の国民年金保険料納付率が前年度比0.7ポイント減の58.6%と過去最低になったと発表した。納付率が前年度を下回るのは6年連続。同省は納付率の高い50代後半の割合が減ったことや、専業主婦の年金切り替え漏れ問題などが納付率低下の要因とみている。(2012/07/05-18:35)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120705/k10013367351000.htmlより、
国民年金 納付率が過去最低に
7月5日 18時13分

自営業者などが加入する国民年金の保険料の、昨年度の納付率は58.6%で、前の年度を0.7ポイント下回り、過去最低となりました。
これは厚生労働省が5日、記者会見をして明らかにしました。
それによりますと、国民年金の保険料の平成23年度の納付率は、前の年度を0.7ポイント下回り、58.6%でした。
国民年金の保険料の年度内の納付率は、6年連続して前の年度を下回り、平成22年度に初めて6割を割り込み、平成20年度以降、4年連続で過去最低を更新しています。
これについて厚生労働省は、加入者のうち比較的所得が低いパートなど非正規労働者の割合が増加していることや、年金制度への不信感などが背景にあるのではないかとしています。
厚生労働省は、保険料の納付率の低下が続くと、将来、年金額が低くなったり、年金を受け取れない人が増え、結果として社会保障費がかさんでしまうおそれがあるとして、保険料を納付できるのに長期間滞納している人などへの強制徴収を強化するとともに、所得が低くて保険料を支払えない人には免除手続きがあることを周知するなどの対策を講じていきたいとしています。

http://www.asahi.com/paper/editorial.html#Edit1より、
朝日新聞 社説 2012年7月31日(火)付
北方領土―利益見すえて交渉せよ

 領土問題をめぐる立場の隔たりは大きいが、解決は互いに豊かな利益をもたらす。そのことをロシア側に納得させ、打開への道を見いだしたい。
 日ロ外相会談がロシアの保養地ソチであり、北方領土問題で首脳間をふくめて協議を続けることで合意した。
 5月の大統領復帰前から日本との関係改善に意欲を見せてきたプーチン氏も玄葉光一郎外相と会談し、「互いに受け入れ可能な領土問題の解決をめざす」との持論をあらためて語った。
 だが、今月初めのメドベージェフ首相の国後島訪問について、ラブロフ外相は「日本の抗議は受け入れられない」とし、政府要人の北方領土訪問を続ける考えを示した。「第2次世界大戦の結果、ロシア領になった」という強硬な主張も変わっていない。
 空港や産業施設を整備するなど、北方領土の実効支配を強める政策もロシア側は着々と進めている。日ロ関係の改善でプーチン氏がねらうのも領土問題の解決ではなく、ロシア極東やシベリアの開発に必要な資金や技術を引き入れることだ――。そうした警戒が日本側に絶えないのも、当然といえよう。
 一方で、注視すべき動きもある。ロシアは4年前に中国との国境交渉を決着させた。昨年はノルウェーとの係争海域を画定し、今月半ばにはウクライナと海峡の国境問題も解決した。
 いずれもロシアは、相手国との関係や資源開発での協力など経済的な実利を重視し、領土や権益の面で譲歩もしている。
 北方領土問題には、第2次世界大戦終結に際しての旧連合国の思惑や、冷戦の影響が複雑にからみ、解決をさらに困難にしている。
 それでも、利益があれば領土面で一定の譲歩にも応じるプーチン氏の外交の性格を、注意深くみていく必要がある。その真意も、結局は交渉を通じてつかんでいくほかない。
 中国の経済的・軍事的な強大化が象徴するように、アジア太平洋をめぐる国際情勢は急速に変化している。南シナ海での領土や海洋権益をめぐる争いや北朝鮮の核開発は、ロシアが求めるこの地域との経済関係の強化にも重大な障害となる。
 航行の安全もふくめ、さまざまな分野で日ロが共同歩調をとれば、互いに大きな利益を引き出せる。9月に極東ウラジオストクで予定される次の日ロ首脳会談は、そのことを協議する最初の重要な機会である。
 本格交渉のスタートとすべく、万全の準備で臨むべきだ。

http://mainichi.jp/opinion/news/20120731k0000m070094000c.htmlより、
社説:日本の政治 いつまで内向きなのか
毎日新聞 2012年07月31日 02時30分

 秋田犬とシベリア猫のプレゼント交換のほかは残念ながら目に見える成果はなかった、と言っては言い過ぎだろうか。黒海沿岸の保養地ソチを先週末訪れた玄葉光一郎外相はロシアのラブロフ外相、プーチン大統領とそれぞれ会談した。外相会談では北方領土交渉の継続を申し合わせたが、浮き彫りになったのは双方の立場の深い溝だった。
 その象徴が「法と正義」という言葉を巡る解釈である。
 これは93年に日露首脳が署名し、領土交渉の基盤となっている東京宣言に盛り込まれたキーワードだ。日本側は「両国間で合意のうえ作成された諸文書」などを踏まえ「法と正義」を根拠に北方四島の返還を求めているが、ラブロフ外相は「第二次大戦の結果が国連憲章の中で定められている。ロシア国民にとってそれこそが法と正義の原則の表れだ」という理屈で反論した。
 また、メドベージェフ首相が今月初めに国後島を訪問したことに遺憾の意を伝えた玄葉外相に対して、ラブロフ外相は要人の北方四島訪問を続ける考えを示すなど、主張はまったくの平行線だった。
 ロシアの言い分は、戦争の結果としての領土の最終処理は平和条約で行うものだ、とする日本側の立場と相いれない。要人の北方領土訪問を続けて日本側を挑発するような姿勢も、今回の外相会談で確認した「相互信頼と静かな環境」の下での交渉という合意に矛盾する。言葉と行動に大きな隔たりがあるのが、日露関係の現実なのである。

http://mainichi.jp/opinion/news/20120731k0000m070094000c2.htmlより、
 ロシア側の強硬姿勢をなじるのは簡単だ。だが、日本の近年の政治混迷が、ロシアに付け入られるスキを見せてきたことも事実だろう。首相が毎年のように代わり、一貫した外交方針を持てない政権を相手に、先方が真剣な外交交渉に応じると考えるのは甘すぎないか。
 要は、政争に明け暮れているうちに国家の統一した意思と戦略が見えなくなっているのだ。
 今に始まったことではないとはいえ、重要な国際会議を日本の首脳が欠席したり、日程を短縮したりするケースが目立つ。最近も、20年夏季五輪の東京招致を閣議了解していながら、アピールの機会だった野田佳彦首相のロンドン五輪開会式出席は、国会最優先を理由にあっさり見送られた。これは一つのエピソードにすぎないが、政権全体、政党、国会のすべてに、世界とかかわろうという意識が希薄な証左でもある。
 日露関係だけではない。揺れる日米関係や困難さを増す日中、日韓関係も、絶え間ない内向きの権力闘争からは、前向きに切り開く力も知恵も生まれてはこない。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120730/plc12073003140003-n1.htmより、
産経新聞【主張】玄葉外相訪露 「無策」ではつけ込まれる
2012.7.30 03:14 (1/2ページ)

 玄葉光一郎外相はロシアでラブロフ外相、プーチン大統領と会談したが、北方領土問題で具体的進展はなかった。
 メドベージェフ首相の国後島再訪強行への抗議も、ラブロフ外相に一蹴され、今後も要人訪問を「控えることはない」とはねつけられた。何のための訪露か、分からない結果となった。極めて遺憾だ。
 国後島再訪を思いとどまらせる対抗策を見いだせなかったことが問題なのだ。野田佳彦政権はプーチン氏の大統領復帰により領土問題が進展するという幻想を排した上で、対露戦略の根本的練り直しと外交カードの再構築に全力を投じるべきだ。
 国後再訪は、6月にメキシコで行われた野田首相とプーチン大統領の初の首脳会談のわずか半月後だった。このことも踏まえ、「外相訪露を見合わせるべきだ」という意見は野党からもあった。
 にもかかわらず、野田政権は2010年のメドベージェフ氏の国後初訪問時のような駐露大使の呼び戻しもしなかった。無力さをさらけ出しただけではないか。
 さらに見逃せないのは、ラブロフ氏が会談後の会見で、第二次世界大戦時の自国の犠牲や国連憲章などを引き合いにロシア流の「法と正義」を唱え、北方領土支配の正当化を図ったことだ。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120730/plc12073003140003-n2.htmより、
2012.7.30 03:14 (2/2ページ)

 だが、ソ連が有効な日ソ中立条約を破って対日参戦し、日本のポツダム宣言受諾後に北方四島を不法占拠したことは揺るぎない事実だ。歴史をねじ曲げた詭弁(きべん)に日本側は断固抗議すべきだった。
 北方領土問題の「法と正義の原則」は、1993年に当時の細川護煕首相とエリツィン大統領が署名した「東京宣言」にある。「歴史的・法的事実に立脚」し、「諸文書及び法と正義の原則」を基礎に北方四島の帰属問題を解決するとうたった。プーチン政権はこの原則を誠実に実行すべきだ。
 日露外相は首脳、外相、次官級の3レベルで領土問題を継続的に協議していくことで一致した。だが、これもロシアに真摯(しんし)な姿勢が欠け、日本に具体的戦略がなければ進展は望めない。
 プーチン氏は9月に極東ウラジオストクで開くアジア太平洋経済協力会議(APEC)で野田首相との再会談に期待を示したが、会談イコール成果と考えがちな日本外交を正す意味でも、首相出席見合わせを真剣に検討すべきだ。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120708/plc12070803250004-n1.htmより、
産経新聞【主張】「再活性化」問題 首相はAPEC見送りを
2012.7.8 03:24 (1/2ページ)

 6月中旬の日露首脳会談で、両首脳が一致したとされる北方領土交渉の「再活性化」という言葉について、藤村修官房長官が「使われてはいなかった」と訂正した。
 長官は「実態と食い違っていることは全くない」と強調したが、会談直後にロシアのメドベージェフ首相が2度目の国後島の訪問を強行したことをみれば、会談成果の意図的な誇張と非難されても弁明はできまい。
 首脳会談などの外交交渉に一定の秘密は必要だが、使われなかった言葉を「使った」と発表することは、日本外交への信頼を失墜させる深刻な問題だ。過去の政府発表にも疑義を抱かせる。ロシア側が領土交渉に前向きとの「幻想」を振りまき、国益も損なった。
 民主党政権の外交姿勢にも問題が多い。政府は、メドベージェフ氏による北方領土再訪の観測が出た6月下旬以来、「日本の立場と相いれない」などとする懸念をロシア側には再三、伝えてきたとしている。しかし、現実には翻意させることはできなかった。見通しの甘さと無力をさらけ出した。
 再訪後も、メドベージェフ氏は「ロシア固有の領土であり、一寸たりとも譲りはしない」「日本の反応などどうでもよい」などと挑発的発言を繰り返している。プーチン大統領の意向も背景にあるとみるべきだ。
 終戦時の混乱に乗じて、ソ連が北方領土を「不法占拠」したのは歴史的事実だ。ところが民主党政権は、この「不法占拠」という言葉をあえて封印しているように見える。これでは、北方四島の返還など、到底かなわない。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120708/plc12070803250004-n2.htmより、
2012.7.8 03:24 (2/2ページ)

 ロシアの度重なる暴挙には断固たる対応が必要だ。2010年11月に、当時は大統領だったメドベージェフ氏が初めて国後島に足を踏み入れた際は、駐露大使を呼び戻した。なぜ、こうした措置を取ろうとしないのか。
 9月にはウラジオストクでアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議が開かれ、野田佳彦首相が出席する予定だ。これに先立って、玄葉光一郎外相が訪露することで調整が進んでいる。
 自民党の石破茂前政調会長は、いずれについても再検討するよう求めた。政府はこうした助言を踏まえ、対抗措置として首相のAPEC首脳会議への参加と外相訪露を見送るべきだ。座視すれば将来に大きな禍根を残す。

http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2012070500476より、
日ロ「リセット」に冷や水=北方領土返還を拒絶-ロシア首相

 【モスクワ時事】ロシアのメドベージェフ首相は5日、北方領土・国後島訪問を含む4日間の極東連邦管区視察を終え、カムチャツカ半島からモスクワに帰る。北方四島は「ロシア領」と公言しただけでなく、日本の反発には「全く関心がない」と発言。先月の野田佳彦首相とプーチン大統領の初会談による日ロの「リセット」ムードに早くも冷や水を浴びせた。
 「一寸たりとも渡さない」。3日午後に訪れた国後島・古釜布(ユジノクリリスク)で、メドベージェフ氏はロシア正教会の建設現場作業員から四島の将来を問われ、記者団の面前で日本の返還要求を明確に拒絶した。
 外交はプーチン大統領の専権事項で、首相は内政や経済分野の責任者にすぎない。今回の極東訪問の主目的は、9月にウラジオストクで開催されるアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の準備状況の視察。閣僚多数を連れて各地を回り、プーチン氏とのポスト交換で首相に「降格」後の権威低下を食い止める狙いもあったと指摘される。
 2010年11月に続く2回目の国後島訪問の意思決定にプーチン氏が関与したかは不明だ。プーチン氏は3月の大統領選直前、「日本との領土問題に終止符を打ち、双方に受け入れ可能な形で解決したい」と表明。歯舞、色丹2島の引き渡しを明記した1956年の日ソ共同宣言にも言及している。だが、ロシアでは四島は第2次大戦後に「不可分の領土」になったというのが揺るがぬ公式見解。国内で反プーチン政権デモも続く中、領土問題での譲歩は困難とみられている。
 ただ、「冷戦後最悪」とされる関係冷却化を招いたメドベージェフ氏の前回の国後島訪問に比べると、今回は両国とも非難のトーンは抑制的。日ロ両国が最近、「静かな環境」で議論を進めると常に確認していることが背景にある。まずは月末にも開催される日ロ外相会談で、双方が軌道修正を図れるかが焦点だ。(2012/07/05-14:27)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012070502000117.htmlより、
東京新聞【社説】ロ首相国後訪問 信頼構築に逆行する
2012年7月5日

 ロシアのメドベージェフ首相が北方領土・国後島を訪問した。実効支配を誇示する強硬姿勢は日本国民の対ロ感情を悪化させかねない。軌道に乗りつつあった関係改善の機運に逆行する。
 メドベージェフ氏は択捉島への訪問計画が悪天候で不可能となると、急きょ国後島に向かう熱意を示し、上陸すると「土地は一片たりとも(日本に)渡さない。国の分裂につながる」などと挑発的発言を繰り返した。
 日ロは先月行われた野田佳彦首相とプーチン大統領の首脳会談で停滞している北方領土交渉を「静かな環境」で「再活性化」することで合意した。メドベージェフ氏の言動は信義則違反である。
 メドベージェフ氏は二〇一〇年十一月、歴代の国家元首として初めて国後島を訪問し、日ロ関係は戦後最悪の状態に落ち込んだ。しかし東日本大震災でのロシアの敏速な対日支援で雪解けムードが高まり、天然ガス輸入などのエネルギー協力も進展している。
 不毛な非難の応酬で、関係が再び険悪化する事態は避けたいが、国家主権に関わる領土問題では毅然(きぜん)とした姿勢を示すことが重要だ。外務省がアファナシエフ大使を呼んで抗議したのは当然だ。
 国後訪問は日本の対ロ不信感を増幅させた。ロシア側はこの事実を認識すべきだ。こうした状況で九月にウラジオストクで行われるアジア太平洋経済協力会議(APEC)などで日本から全面協力を期待することができるだろうか。
 国後訪問にはメドベージェフ氏が国内で存在感を示す思惑も見え隠れするが、係争地域への訪問は、最高権力者であるプーチン氏の了解なくして不可能である。
 そのプーチン氏は、盤石の指導力を誇った政権二期目でも歯舞、色丹の二島引き渡しで最終決着を図るとの立場を固持し、「東京宣言」に明記された四島の帰属交渉に入る姿勢を示したことはない。都市中間層の離反で政権基盤に陰りが見えるプーチン氏個人に過大な期待を抱くべきではない。
 プーチン政権は巨額の政府予算を投入し、北方領土開発を進める「ロシア化」政策を推進している。メドベージェフ氏のように実効支配を固定化する強硬姿勢を示しつつ、プーチン氏らが柔軟な言動をちらつかせ経済協力などを引き出す。硬軟両様の揺さぶり戦術だ。日本側は「クレムリン流交渉術」を冷静に見極め、長期戦も覚悟し、忍耐強く交渉を続けていくべきだ。

http://mainichi.jp/opinion/news/20120705k0000m070120000c.htmlより、
社説:露首相国後訪問 2島決着狙う戦略か
毎日新聞 2012年07月05日 02時30分

 ロシアのメドベージェフ首相が3日、北方領土の国後島を訪問した。大統領だった10年11月に旧ソ連・ロシアの国家元首として初めて訪れて以来、2回目の訪問である。
 5月にプーチン大統領の下で首相となったメドベージェフ氏は国家元首ではない。エリツィン政権時代の93年にも当時のチェルノムイルジン首相が択捉島を訪問した。だがメドベージェフ氏は前大統領であり、大統領時代の国後島訪問が「冷戦終結後最悪」と言われるまでに日露関係を悪化させた。その後、両国は関係修復に動き、6月の首脳会談で領土交渉の「再活性化」で合意したばかりだ。日本外務省が駐日ロシア大使を呼んで抗議したのは当然である。
 プーチン氏は大統領就任前、「引き分け」という言葉を使って領土問題の決着に意欲を見せた。日本を含むアジア太平洋諸国との関係強化を優先課題に挙げてもいる。その中で期待を裏切るメドベージェフ首相の訪問が強行された真意を測りかねるというのが日本国民の思いだろう。

http://mainichi.jp/opinion/news/20120705k0000m070120000c2.htmlより、
 だが今回の訪問は決して首相のスタンドプレーではなく、プーチン大統領のシグナルも込められているとみるべきだ。ロシアは北方四島について「第二次世界大戦の結果、ロシアの領土になった」との立場だ。今回も「国内視察」の一環と主張している。プーチン氏は「平和条約締結後に歯舞群島、色丹島を日本に引き渡す」とした56年日ソ共同宣言の有効性を認めているが、これら2島への日本の「主権」については明言を避けている。残る国後島、択捉島については引き渡しに応じる姿勢さえ見せていない。これまでの発言から「2島は日本に引き渡す用意があるが、主権は引き続きロシアにある」というのがプーチン流「引き分け」の狙う決着とも読み取れる。
 ただ北方四島は日本固有の領土だという日本の立場はロシア側も承知しており、ラブロフ外相も今月末に外相会談を行い「協議する用意がある」と確認している。訪問に抗議して交渉の窓を閉ざすべきではない。

http://mainichi.jp/opinion/news/20120705k0000m070120000c3.htmlより、
 プーチン氏のアジア重視は、大国としての地位を固めると同時に、アジアの活力を取り込みロシア極東を発展させる国家戦略に根ざす。9月にウラジオストクで開くアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議をその起爆剤としたい考えだ。新設の極東発展相ら3閣僚も同伴したメドベージェフ氏の北方領土訪問には「極東重視」という国内向けメッセージの側面もある。だが座視していては今後も閣僚らの北方四島訪問は続き、ロシアの実効支配はますます強まる。日本が流れを変えるには首相のリーダーシップによる明確な対露戦略の構築が求められる。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120704/plc12070403500007-n1.htmより、
産経新聞【主張】露首相国後訪問 ようこそ日本領土に再び
2012.7.4 03:11 (1/2ページ)

 ロシアのメドベージェフ首相が国後島入りした。2010年11月に続く2度目の北方領土訪問である。
 首相は択捉島を訪れるとの情報もあった。悪天候のため急遽(きゅうきょ)、国後に変更されたもようだが、今回は閣僚も引き連れている。日本固有の領土である北方四島の不法占拠を固定化する暴挙であり、断じて許すことはできない。
 前回、メドベージェフ氏は大統領だったが、「双頭体制」を組むプーチン首相(当時)の意向に忠実に従っていたとの見方が大勢だ。大統領に復帰したプーチン氏が6年の任期を見据え、自らの決断で首相を派遣して日本側に揺さぶりをかけたといえる。
 2日には、近年で最大規模となるロシア海軍のミサイル駆逐艦など26隻の艦隊が宗谷海峡を通過したことが確認された。サハリン近海では演習も行った。首相の北方領土訪問に合わせたのか。
 プーチン氏は6月中旬、野田佳彦首相とメキシコで行った就任後初の首脳会談で、領土問題の議論を再び活性化することで一致した。わずか半月後の首相の国後訪問は、ロシアの姿勢が口先だけと受け取られよう。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120704/plc12070403500007-n2.htmより、
2012.7.4 03:11 (2/2ページ)

 役割を分担して硬軟両様のメッセージを発し、日本側の足並みの乱れを誘うプーチン氏ならではの双頭体制の手法が明らかになったともいえる。
 プーチン氏は、信頼に基礎を置いた日露関係を構築する意欲など、まったくないのか。野田政権には、対露外交のあり方の再考を強く求めたい。
 日本外務省は、9月にロシアが初のホストを務める極東ウラジオストクでのアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の成功に向け、自国開催時のノウハウを提供するなど前向きな姿勢を示してきた。こうした協力も堂々と踏みにじられた以上、日本としては従来の姿勢を凍結すべきだ。
 前回のメドベージェフ氏の国後島訪問時のように駐露大使を日本に呼び戻したり、APEC首脳会議には岡田克也副総理を派遣したりするなど、抗議の意思を明確に示す行動が必要だ。
 臆面もなく恫喝(どうかつ)という手段を使うロシアに、憤りとともに次の言葉を贈りたい。
 ようこそ、日本固有の領土に再び。領土返還への国民の決意を改めて固めさせてくれた。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012073002000231.htmlより、
明治天皇の百年式年祭 天皇陛下が「皇霊殿の儀」
東京新聞 2012年7月30日 夕刊
(写真)伏見桃山陵で行われた、明治天皇の命日祭「式年祭」の「山陵に奉幣の儀」=30日午前、京都市伏見区で

 明治天皇が亡くなって百年の命日にあたる三十日、皇居の皇霊殿と明治天皇陵である伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)(京都市伏見区)で「明治天皇百年式年祭の儀」が行われた。
 宮内庁は今回、伏見桃山陵で営まれた命日祭「式年祭」の「山陵に奉幣(ほうへい)の儀」について共同通信に取材と撮影を許可。天皇陵での祭祀(さいし)の実態はよく知られていないが、儀式の詳細が明らかになった。
 歴代天皇の霊をまつる皇霊殿での「皇霊殿の儀」は非公開。宮内庁によると、天皇陛下が古式にのっとった束帯姿で、明治天皇をしのび、国民の幸せと国家の繁栄を祈る御告文(おつげぶみ)を読まれた。
 伏見桃山陵には天皇陛下の使い「勅使」が派遣された。
 歴代天皇のみ霊を祭る皇居・皇霊殿での儀式開始と同じ午前九時、同庁式部職楽部の楽師による笛、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)の奏楽が始まり、白い装束姿の掌典(しょうてん)が祝詞を奏上。同庁や皇室ゆかりの寺社関係者ら約六十人が参列し、墳丘前で一人ずつ拝礼した。
 宮内庁によると、式年祭が制度化されたのは一八七〇(明治三)年の「歴代皇霊式年祭の制」。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/120730/imp12073011540001-n1.htmより、
明治神宮で「明治天皇百年祭」
2012.7.30 11:53

 明治天皇が崩御してから100年の節目を迎えた30日、明治天皇を祭神とする明治神宮(東京都渋谷区)で、生涯をしのぶ「明治天皇百年祭」が開催され、神社関係者ら数百人が参列した。
 午前9時から約1時間半にわたって行われた祭典式では祝詞の奏上に続き、生涯で約10万首といわれる明治天皇の御製(和歌)の中でも代表的なものとされる、「あさみどり澄みわたりたる大空の廣(ひろ)きをおのが心ともがな」に作曲・振り付けをし神職が舞う「明治神宮大和舞」が行われた。
 明治神宮によると、大和舞は神宮で行われる祭典の中で、唯一神職自らが奉仕する舞という。続いて数百人の参列者が君が代を斉唱し、参列者の代表が玉ぐしを捧げて拝礼した。
 一方、天皇、皇后両陛下と皇族方は同日、皇居・宮中三殿の「皇霊殿」で明治天皇百年式年祭の儀に臨まれた。儀式は非公開で行われ、宮内庁によると、天皇陛下は古式にのっとった束帯姿で、国民の幸せと国家の繁栄を祈る御告文(おつげぶみ)を読まれた。皇后さま、皇太子さまをはじめとする皇族方が続いて拝礼された。同様の行事は、明治天皇の伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)(京都市伏見区)でも行われた。
 両陛下と皇太子さまは百年祭に先立つ今月18日に明治神宮をご参拝。その後、皇族方も参拝や記念式典出席のために明治神宮を訪問されている。
 明治神宮は「東京でも明治天皇をお祭りしたい」という国民の声が元となり、大正9年に創建された。百年祭に合わせ、明治神宮ではそのご生涯や業績を振り返る記念行事も実施した。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120730/plc12073003140002-n1.htmより、
産経新聞【主張】明治天皇100年 「強い時代」から学びたい
2012.7.30 03:13 (1/2ページ)

 今日30日は明治天皇が崩御されてちょうど100年にあたる。当然のことながら「明治」という時代が終わってからも100年となる。明治天皇の業績とともに、明治時代の意味についても考える機会としたい。
 明治天皇の即位は、慶応3(1867)年だった。その年に「王政復古の大号令」が出されている。つまり天皇は、維新に始まった明治の国造りの歴史そのものを生きられたといっていい。
 その国造りの理念は一貫して、当時の欧米列強の植民地主義に屈せず、独立を守る強い国とすることであった。そのために「富国強兵」策をとり、「教育勅語」などによって国民に挙国一致や愛国心を求めたのである。
 これが実を結んだのが、明治37(1904)年に始まった日露戦争の勝利だった。
 満州(現中国東北部)に軍を居座らせ、隣の朝鮮半島をもうかがおうとするロシアに対し、危機感を募らせた日本は、これに強く異議を申し立てた。ロシアがこれに応じないため、ついに開戦に踏み切り、苦しい戦いを経て勝利に結びつけた。
 英国と同盟を結び、米国に講和の仲介を依頼した外交的な成果でもあった。だが何よりも、不退転の決意で戦いに臨んだ政府や軍、それに国民の団結心によるところが大きかったのである。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120730/plc12073003140002-n2.htmより、
2012.7.30 03:13 (2/2ページ)

 その「明治」が終わって100年後の今、日本が置かれている状況はあまり変わらない。ロシアの代わりに中国が東シナ海や南シナ海に覇権を伸ばそうとし、沖縄の尖閣諸島近辺の領海をしばしば侵している。ロシアも先の大戦末期、違法に奪った北方領土を返す意思をまったく見せていない。
 これに対する日本政府の対応はもどかしく見える。野田佳彦首相は領土・領海で外国による不法行為があった場合、自衛隊も活用する考えを示した。
 だがその一方で、東京都による尖閣購入を批判した丹羽宇一郎駐中国大使の更迭もせずにいる。
 中国やロシアに対しては、憲法改正で軍を持つことを明確にし、日米同盟関係をさらに深化させて抑止力を強めることも必要だ。
 だが最も肝心なのは、政治家も一般国民も、「自らの国は自らが守るのだ」という強い決意を持つことだ。「強い明治」の歴史からそのことを学ぶべきである。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/120728/imp12072808090002-n1.htmより、
明治天皇崩御から100年 功績伝える「附図」公刊
2012.7.28 08:09 (1/2ページ)

 幕末から明治にかけての激動の時代、日本のリーダーとして近代化に尽力した明治天皇が崩御してから、30日で100年の節目を迎える。明治天皇を祭神とする明治神宮(東京都渋谷区)は同日、功績を後世に伝える歴史資料「明治天皇紀」の「附図(ふず)」を公刊する。大正3(1914)年に宮内省(当時)が編修を開始した「明治天皇紀」の公刊事業が1世紀近くを経て完結する。
 明治天皇は慶応3(1867)年に14歳で即位。明治憲法制定や教育勅語(ちょくご)の発布、産業の振興などを通じ、相次ぐ国難の中で国づくりに精励した。
 宮内庁や明治神宮によると、明治天皇は園遊会の元となった観菊会や、毎年1月に行われる歌会始での一般国民の選歌などを通じ、国民の生活を気にかけたという。こうした姿勢は、全国各地への訪問や、生涯約10万首に近い御製(和歌)からも読み取れる。
 日清・日露戦争の際には兵士の苦労を思い、真冬にも暖房を入れず、真夏にも冬の軍服を着て、思いを共にしていたという。また、戦死者の写真の収集と名簿の作成を命じ、すべてに目を通したという。
 国民を思うこうした姿勢はその後の皇室に引き継がれ、東日本大震災の際に、天皇陛下が国民に向けてビデオを通じてお言葉を述べられたことに象徴される、「国民とともにある皇室」の原型ともなった。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/120728/imp12072808090002-n2.htmより、
2012.7.28 08:09 (2/2ページ)

 維新後の新しい時代を率いた明治天皇の姿は当時の国民の心をつかみ、明治神宮は国主導ではなく「東京でも明治天皇をお祭りしたい」という国民の声が元となり創建された。鎮座当日の表参道には50万人が参拝に訪れたという。
 明治天皇紀は、明治天皇のこうした功績を文章で述べた「本紀」と、水彩画に事跡を描いた「附図」で編成。昭和8年に昭和天皇に奉呈された。本紀は計13巻が出版されたが、附図は存在自体があまり知られぬまま、長年宮内庁に保管されていたという。
 洋画家の五姓田芳柳(ごせだほうりゅう、二世)が描いた附図の水彩画は、「御降誕」(誕生)から、崩御後に祭られた「伏見桃山陵」までの81枚。慶応3年の大政奉還を前に、徳川慶喜が諸藩の重臣を二条城に集めて意見を求める様子や、明治22(1889)年2月11日の大日本帝国憲法の発布式など、明治時代の主な出来事を臨場感とともに伝えている。今回、それぞれを新たに撮影し、最新の製版・印刷技術を駆使して公刊する(附図は吉川弘文館刊、税込8万4千円)。
 明治神宮では「明治天皇は、転換する時代の中で、国難を乗り越えようと国民とともに歩まれた。明治天皇をひもとくことで、現代の日本のありようや、今後の日本を考えるヒントになると思う」と話している。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/120728/imp12072808080001-n1.htmより、
明治天皇百年祭、30日から開催
2012.7.28 08:07

 明治神宮は30日、「明治天皇百年祭」を開催する。明治神宮では、明治天皇をしのび、その生涯や業績を振り返る記念行事などが予定されている。27日には百年祭を前に、秋篠宮ご夫妻と長女の眞子さまが明治神宮を参拝された。
 30日午前9時から行われる祭典式では、明治天皇の御製「あさみどり澄みわたりたる大空の廣(ひろ)きをおのが心ともがな」に作曲・振り付けをし、神職が舞う「明治神宮大和舞」が行われる。天皇、皇后両陛下と皇族方は同日、皇居・皇霊殿で「明治天皇百年式年祭の儀」に臨まれる。
 28、29日には通常午後6時20分の閉門を延長。参道がライトアップされ、同9時半まで夜間参拝ができる。このほか、映画「明治天皇と日露大戦争」の上映やパネル展、東北地方の郷土芸能の奉納などの催しがある。パネル展や郷土芸能奉納は30日も行われる。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/120718/imp12071812390001-n1.htmより、
両陛下が明治神宮をご参拝 
2012.7.18 12:36
(写真)明治天皇百年祭に合わせ、明治神宮を参拝された天皇陛下=18日午前、東京都渋谷区

 天皇、皇后両陛下と皇太子さまは18日、明治天皇の崩御から100年に当たる30日に行われる明治天皇百年祭を前に、東京都渋谷区の明治神宮を参拝された。
 陛下はモーニング姿で神職の先導を受け、本殿に拝礼された。続いて、皇后さまと皇太子さまがそれぞれ拝礼された。明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を祭っている。

http://www.asahi.com/national/update/0718/TKY201207180234.htmlより、
2012年7月18日11時44分
両陛下、皇太子さまが明治神宮参拝

 天皇、皇后両陛下と皇太子さまは18日午前、東京・代々木の明治神宮に参拝した。両陛下の参拝は2010年11月以来。明治天皇没後100年にあたる30日には明治神宮で「明治天皇百年祭」、皇居では天皇家の行事として「明治天皇百年式年祭の儀」がある。

http://www.asahi.com/paper/editorial.htmlより、
朝日新聞 社説 2012年7月30日(月)付
国会を包囲する人々―民主主義を鍛え直そう

 夕暮れの国会議事堂を、無数の灯(ともしび)が取り囲んだ。
 きのう、市民グループの呼びかけであった「国会大包囲」。脱原発を求める人々が、キャンドルやペンライトを手に「再稼働反対」を連呼した。
 ここ数カ月、毎週金曜の夕方には、首相官邸と国会の前でも何万という人々が抗議の声をあげている。
 1960年の安保闘争から半世紀。これほどの大群衆が、政治に「ノー」を突きつけたことはなかった。
 「もの言わぬ国民」による異議申し立て。3・11と福島原発事故がもたらした驚くべき変化である。

■原発再稼働で拡大
 官邸前の抗議行動は、3月末に300人ほどで始まった。それが、6月に政府が大飯原発の再稼働を決めた前後から、みるみる膨らんだ。
 「大包囲」に来た高知県四万十市の自営業の女性(60)は、再稼働を表明した野田首相の記者会見に憤る。「国民の安心のために決断したという言葉が許せない。正直に金もうけのためといえばいいのに」
 再稼働を急ぐ政府や電力会社は「本当のこと」を語っていない――。話を聞いた参加者にほぼ共通する思いだ。
 まず、「安全だ」という説明が信じられない。
 当然だろう。事故原因も判然とせず、大飯では活断層の存在も疑われている。首相が「事故を防止できる体制は整っている」と力んでも、真に受ける人がどれほどいるのか。
 「電気が足りなくなる」という説明にも疑問の目を向ける。
 足りない、足りないと言いながら、昨冬もこの夏も余裕があるではないか。再稼働の本当の理由は、電力会社の経営を守るためではないのか。
 参加者の中には、原発ゼロを実現するにはある程度時間がかかると考える人もいる。
 もし首相が「脱原発」の立場を明確にし、危険度の高い原発から順次廃炉にする行程を示していたら、ここまで怒りが燃え広がることはなかったのではないか。

■根強い体制不信
 ただ、問題は野田政権のふるまいだけにとどまらない。抗議の根っこにあるのは、間接民主主義のあり方に対する強い不信感である。
 兵庫県姫路市の女性(77)は「民主主義は民の声を聴く政治のはず。声が届かないのはファッショだ」と語った。
 こんな声は抗議の場のあちこちで聴かれる。
 有権者が、選挙で選んだ自分たちの代表(議員)を通じて政策を実現する。その間接民主主義の回路が機能せず、自分たちの声が政治に届かない。
 そんないらだちが、人々を直接民主主義的な行動に駆り立てているのではないか。
 そして、これを決定づけたのが原発事故だった。
 これは天災ではなく、電力会社や政府による人災だ。メルトダウンの事実も、放射性物質の飛散情報もすぐに公表しなかった。そんな政府の情報をもとに報道するメディアも信用できない――。
 政治不信にとどまらず、新聞やテレビまで「体制側」とみなして批判の目を向ける。それほど不信の根は深い。

■補完しあう関係築け
 直接民主主義の流れは、今後も強まるだろう。
 安保闘争のような大規模な政治行動は、高度経済成長とともに70年代以降、影を潜めた。
 いまは右肩下がりの時代。手にしていたはずの豊かさも、安全までも、ポロポロとこぼれ落ちる。さまざまなテーマで、政治の責任を追及する声がやむことはあるまい。
 そんなとき、官邸の壁を隔て、「体制」と「民衆」が相互不信に凝り固まって対峙(たいじ)していては何も生まれない。
 直接民主主義は、選挙と選挙の間の民意を映す方法としては有効だ。しかし、その声を政策に落とし込むのはあくまでも政党や政治家の役割である。
 国民との間の詰まったパイプを修繕し、新しい回路をつくることで相互補完の関係を築く。
 一連の抗議行動を呼びかけた市民グループのリーダーの一人は「大規模な抗議行動で、数を可視化することで議員が動き出した」と語る。
 抗議の人波が膨れあがるのにあわせて、与野党の議員が行動に加わるようになった。地方議員らが「原発の即時全廃」を掲げて「緑の党」を立ち上げた。
 中には選挙目当ての便乗組もいるだろうが、人々の声が政治を動かしつつあるのは確かだ。
 抗議行動の主催者らは、官邸側に面会を申し入れているという。この際、老壮青の参加者も招き入れて、首相みずから話し合ってはどうか。
 それを手始めに、不信に動かされる「負の民主主義」を、信頼と対話に基づく「正の民主主義」に鍛え直していくのだ。

http://www.asahi.com/paper/editorial.html#Edit1より、
朝日新聞 社説 2012年7月27日(金)付
関電社長発言―今また「再稼働」とは

 どうやら思考回路は、「3・11」以前のままのようだ。
 関西電力の八木誠社長が、高浜原発3、4号機(福井県)について、「優先的に再稼働する方向で国と調整したい」と述べた。大飯原発3、4号機(同県)がフル稼働に入ったのを受けて、早くも次の原発の稼働に意欲を示したわけだ。
 事業者の願望を語っただけと見過ごすわけにはいかない。
 原発の安全規制は国の原子力安全・保安院を離れ、独立性の高い原子力規制委員会が9月にも発足する。そのことを、どう考えているのだろうか。
 枝野経済産業相が「不快な発言」とし、「規制組織の成立を今は見守るべきだ」とくぎをさしたのは当然だ。
 規制する側とされる側の逆転が起き、規制当局は電力事業者の虜(とりこ)となっていた――。国会事故調査委員会は、両者の関係を最終報告でこう表現した。
 重要なことは今後も、実質的に自分たちで決めていくと関電が考えているとしたら、思い違いも甚だしい。
 足元では、大飯原発の再稼働にすら疑問符がついている。
 敷地内を走る断層が活断層である可能性が指摘され、関電は近く調査を始める。次の原発を考える前に、第三者を入れた徹底した調査が不可欠である。
 さらなる原発の再稼働は、電力需給の点からも疑問だ。
 梅雨明け以降、関西ではおおむね最高気温が31~35度と、平年並みかやや高い日が続く。しかし供給力にしめる使用率は80%台。今のところ、原発ゼロでも乗り切れた水準だ。
 八木社長は「需給ではなく、わが国のエネルギー安全保障を考えて」と語っている。
 本音は「自社の安全保障を考えて」だろう。関電は4~6月期の連結経常損益が、1千億円程度の赤字になる見通しだ。火力発電の燃料コストが主な要因となっている。
 業績悪化に歯止めをかけるために、より多くの原発を動かしたい。そんな経営判断があるに違いない。
 しかし、首相官邸前のデモに見られるように、脱原発を求める声は高まる一方だ。多くの人々が新たな社会を模索し、節電に必死に取り組んでいる。
 昔のように原発に頼った経営はもはや成り立たない。経営を取り巻く環境が一変したことを前提に、原発以外の電源確保にあらゆる手を打ち、消費者の理解を得るのが、企業経営者の務めではないか。
 3・11以前には、もう戻れないのである。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120726/plc12072603240002-n1.htmより、
産経新聞【主張】大飯4号稼働 電力危機は去っていない
2012.7.26 03:36 (1/2ページ)

 関西電力の大飯原発4号機が、3号機に続いてフル稼働に入った。
 梅雨も明け、エアコンなどの電力需要が急増する中でどうにか間に合った。安全性を最優先に、細心の注意を払って運転に努めてほしい。
 当面の電力需給は改善したが、依然として関西圏は深刻な電力不足状態にある。野田佳彦政権は危機を打開するためにも、他の原発の再稼働に向けた手続きを早急に進めなければならない。
 今回のフル稼働によって、政府が関電向け電力融通のために中部、北陸、中国の3電力に求めていた3~4%の節電目標は撤廃した。一方で、関電管内で一部の企業を除き10%の節電目標を据え置いたのは当然だ。突発的な大停電の恐れは去っておらず、警戒は緩められない。
 というのも、関西圏では供給と需要が均衡する水準に戻したものの、発電設備の急な故障などに備えて必要最低限とされる3%の供給余力すら確保できていない。国民や企業に負担を強いる節電頼みの電力需給は、可能な限り早期に解消しなければならない。
 電力不足が及ぼす日本経済への影響も深刻だ。今年上半期の貿易赤字は、過去最大の2兆9158億円に達した。円高などで輸出は小幅増にとどまった半面、火力発電のための液化天然ガス(LNG)や原油の輸入が大幅に増えたからだ。年3兆円を超える国富が流出する構図になっている。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120726/plc12072603240002-n2.htmより、
2012.7.26 03:36 (2/2ページ)

 こうした割高な燃料費は、最終的には利用者が支払う電気料金としてはね返る。電力不足や料金高騰への不安から、工場を海外に移転させる産業空洞化に対する懸念も強まっている。このままでは国力の低下は必至だ。
 それを防ぐには、大飯4号機以外の原発の再稼働が欠かせない。だが、原発の新たな安全基準をつくる原子力規制委員会の人事案は国会提示が遅れている。国会で審査する前に報道されたため、一部の議員が拒否する構えをみせているのは筋違いだ。
 人事案はあくまでも人物本位で検討すべきだ。報道規制につながりかねない事前報道の有無を審査の条件のように持ち出す姿勢は極めて問題である。
 原発の再稼働により、安価で安定的な電力供給体制を早期に確立する。これが野田政権に課せられた責務である。

http://mainichi.jp/opinion/news/20120719k0000m070154000c.htmlより、
社説:民主離党ドミノ 自壊の危機を直視せよ
毎日新聞 2012年07月19日 02時31分

 民主党議員の離党が止まらない。小沢一郎氏らの集団離党による党分裂でも事態は収束せず、女性参院議員3氏がそろって離党届を提出するなどドミノが続いている。
 衆参両院とも選挙が次第に近づき、若手議員が急速に見切りをつけている。原発再稼働など消費増税以外の政策への対応が亀裂を広げており、このままでは党は自壊しかねない。野田佳彦首相は危機的状況を直視すべきだ。
 「小沢新党」誕生以上に執行部にとってはある意味、手痛い離党劇ではないか。
 離党に踏み切った参院議員3氏は国民新党を離党した亀井亜紀子氏とともに新会派結成を表明した。あと参院議員3人が離党すれば民主は第1会派を自民に明け渡し、野田内閣の参院対策は厳しさを増す。
 それ以上に深刻なのは消費増税以外の分野で内部の不満が強まっている点だ。離党議員の一人は記者会見で関西電力大飯原発再稼働を決めた首相の対応を「責任という言葉があまりにも軽い」と批判した。
 小沢氏が代表時代に民主党が躍進した07年参院選で3氏は当選したが、今後は「原発ゼロ社会の実現」などを掲げ小沢氏と別の新党結成を目指すという。衆院でも離党組による新会派結成の動きがある。小沢氏らによる行動について、私たちは権力闘争が主眼ではないかと指摘した。だが、今回の動きはそれに連動したものと単純に片付けられまい。

http://mainichi.jp/opinion/news/20120719k0000m070154000c2.htmlより、
 野田内閣の政権運営、特に菅前内閣の「脱原発依存」路線の軌道修正が混乱を加速している。首相は党内に強い慎重論を抱えたまま、なし崩し的に大飯原発再稼働に踏み切った。今後のエネルギー政策も、党内論議をもっと尽くす必要がある。
 原発政策が国民の不信を強めている点に首相はあまりに無自覚ではないか。これとは別に米軍の垂直離着陸輸送機オスプレイの配備問題への硬直した対応にも、与党内から批判が出ている。消費増税で3党合意を実現したからといって、よもや慢心してしまったわけではあるまい。
 多くの「離党予備軍」をなお抱え、輿石東幹事長は「政権が崩壊する認識を持っているのか」と危機感をあらわにしている。一体改革法案は参院審議が本格化したが、鳩山由紀夫元首相ら増税慎重派の動き次第では成立前に与野党の対立が再燃する事態すら起きかねない。
 政権与党の使命をよそに若手が次々離党する様は確かに無責任だ。だが、いくら締め付けても党に魅力がなくては自壊は止まらない。民主党の政策は自民党とどこが違うのか、首相はとりわけ「脱原発依存」路線の再構築を急ぐべきだ。

http://www.asahi.com/paper/editorial.html#Edit1より、
朝日新聞 社説 2012年7月18日(水)付
大飯4号機―再稼働は本当に必要か

 きのう関東甲信や東海、近畿、中四国で梅雨が明け、各地で最高気温が35度を超えた。夏本番、猛暑の到来である。
 電力事情が最も厳しい関西電力管内では、需要がピークの午後4時台で約2500万キロワットと供給力の89%だった。余力は約300万キロワット。原発約3基分に相当する。
 この夏、関電管内で需要が2500万キロワットを超えたのはきのうが初めてだ。昨年は同じ17日段階で5回あった。
 7月以降のピーク時の使用率も、おおむね供給の80~90%にとどまった。
 ここ半月ほどをみれば節電効果は着実にあらわれている。企業だけでなく家庭でも、人々が電気の使い方に気を配っている結果といえるだろう。
 こうしたなか、関西電力は18日、大飯原発4号機を再起動する。フル稼働になるのは早くて今月25日だという。
 すでにフル稼働している3号機とあわせ、計236万キロワットが原発から送られる。
 10~20%の余裕があるのに、当たり前のように再稼働を進めることには抵抗感がある。
 需給が最もひっぱくするのは、梅雨明けから4号機がフル稼働するまでの間だといわれている。だが、関電の予想では24日までの使用率は82~89%、その後も27日まで最大で82%だという。現状では計画停電なしですむ水準だ。
 一方、電力使用量がピークになるのは8月に入ってからだ。火力発電所がトラブルを起こすリスクも考慮する必要がある。
 だとしても、関電は節電意識が浸透しつつある現実に目を向け、需給予想を不断に見直すべきだ。そのうえで本当に4号機再稼働が必要か、最新情報をもとに考えるべきではないか。
 16日、東京・代々木公園では脱原発を訴える「さようなら原発10万人集会」が開かれ、全国から約17万人(主催者発表)が集まった。
 政府が大飯原発の再稼働を決めた6月以降、脱原発を求める声は全国に広がり、毎週金曜に首相官邸周辺である抗議行動の参加者も急速に増えている。
 この抗議行動の盛り上がりと軌を一にして、人々の節電意識も高まっている。それが猛暑下の電力の余裕につながっているのだろう。
 この夏の関西の需給状況は、政府による他の原発の再稼働判断にも影響を及ぼす。野田首相は「原発を止めたままでは日本社会は立ちゆかない」と言った。本当にそうなのか、政府は立ち止まって考えるべきだ。

http://www.asahi.com/paper/editorial.html#Edit1より、
朝日新聞 社説 2012年7月16日(月)付
原発と自治体―地元の定義を見直せ

 関西電力・大飯原発3号機が再び発電をはじめた。
 福島での原発事故の教訓は、いったん放射能が大量に放出されれば県境など関係なく汚染が広がりうるということだ。
 大飯については旧来の定義に沿って福井県とおおい町が「地元」とされ、その同意をもって政府が再稼働を決めた。教訓が生かされたとは言えない。
 安全対策や事故時の減災対策を国や電力会社とともに担っていく「地元」とは、何をさすのか。住民の安全を優先する視点から再定義する必要がある。
 まず急ぐべきは、事故時の防災計画の整備だ。
 福島の事故を受け、政府は原発から半径8~10キロ圏内としていた防災対策の重点区域を拡大し、30キロ圏内を緊急時防護措置準備区域(UPZ)とした。
 新たに対象となった地域では防災対策に追われている。
 大飯原発から最短で約20キロの滋賀県高島市は、南方向への幹線の国道161号ががけ崩れで分断されれば孤立しかねない。東に面した琵琶湖に逃げられるよう、急きょ漁船で人や物を運ぶ協定を漁協と結んだ。
 京都府も原発30キロ圏内の8市町に避難計画の策定を促した。その中のひとつ、舞鶴市は人口の7割が大飯原発から30キロ圏内に住む。広域避難場所や放射線量の情報を得るモニタリングなど、国の指針を待たずに暫定計画をとりまとめている。
 防災指針を策定するのは、新たに発足する原子力規制委員会だ。政府は全閣僚がメンバーとなる「原子力防災会議」も創設し、指針にもとづき、平時の防災計画をたて、自治体との調整や訓練もする。
 どのように「地元」と向き合うか、規制委員会の存在意義がさっそく問われる。
 原発の安全性に立地自治体以外の声を反映する仕組みも不可欠だ。大飯の再稼働にあたり、政府は30キロ圏内に入る滋賀県と京都府の意向を尊重する姿勢を示したが、最終的に「理解を求める」対象にとどめた。
 福島の事故後、京都府と滋賀県は、関西電力に立地自治体並みの原子力安全協定の締結を求めている。関電が福井県と結んでいる協定では、立ち入り調査や事故で停止して再稼働する際の事前協議が含まれる。しかし事前協議の対象が拡大することに、関電側の警戒感は強い。
 原子力規制委員会のもとで、安全について協議する自治体をどう定めるか。再稼働手続きを進める場合、少なくとも30キロ圏内の都道府県の意向を立地道県と等しく考慮すべきである。