【日米同盟と原発】第1回「幻の原爆製造」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201208/CK2012081602000252.htmlより、
東京新聞【日米同盟と原発】原爆開発の端緒 仁科報告書のコピー入手
2012年8月16日
(写真)仁科主任研究員が陸軍に提出した報告書のコピー。「連鎖反応ハ一旦起レバ極メテ短時間ニ進ミ莫大ナルエネルギーヲ放出スルガ故ニ強力ナル爆弾トシテ用ヒラルル可能性アリ」と書かれてある
戦時中に旧日本陸軍が原爆開発に取り組むきっかけとなった報告書のコピーを本紙は入手した。原文を作成したのは当時、原子核物理の第一人者だった理化学研究所の仁科芳雄主任研究員(1890~1951年)。原爆開発について「強力なる爆弾として用いられる可能性あり」などとし、ウランの必要量や破壊力の計算など具体的な製造方法にも言及していた。
報告書の存在は知られていたが、それを裏付ける資料が見つかったのは初めて。
コピーは「仁科芳雄往復書簡集」の編集に携わった学習院大の江沢洋名誉教授(理論物理学)が保管していた。理研は41(昭和16)年に、陸軍航空技術研究所から原爆開発の可能性に関する研究の委託を受け、仁科主任研究員はその責任者を務めていた。
報告書は43年3月、陸軍に2年間の研究成果として提出された。
全部で7ページで、結論に相当する判決欄に「原子核分裂によるエネルギー利用の可能性は多分にあり」と明記。続く所見欄で「連鎖反応はいったん起これば極めて短時間に進み、莫大(ばくだい)なるエネルギーを放出する」と記述し、原子力が爆弾に転用できる可能性に言及した。
31キログラムの水に濃縮ウラン11キログラムを混ぜた場合、「普通の火薬1万トンのエネルギーに相当する」との計算も書いてあった。
当時の陸軍大佐が残した手記によると、報告を受けた東条英機首相は「この戦争の死命を制することになるかもしれない。航空本部が中心となって促進を図れ」と命令。これを受け、43年9月、原爆開発は陸軍直轄の極秘研究となった。
仁科主任研究員が引き続き開発責任者となり、研究は「仁科」の姓を取って「ニ号研究」の暗号名で呼ばれた。研究は終戦2カ月前の45年6月まで続けられたが、ウラン濃縮の失敗や必要な天然ウランを確保できず、挫折した。
原爆開発をめぐっては、核分裂反応に伴うエネルギーの発見を契機に、第2次世界大戦が始まった39年ごろから米国やドイツで研究が進められていた。
◆核開発の重要文書
山崎正勝・東京工業大名誉教授(科学史)の話 陸軍は報告書を受けて軍直轄の研究をスタートさせており、日本の戦時核開発の歴史の中でもっとも重要な文書の一つだ。爆発の威力を、米軍が広島に投下した原爆と同じ規模と予測していたことは、注目に値する。ただ当時はウラン原料の入手が困難で、技術的にも規模の点でも、米国が原爆を製造した「マンハッタン計画」には、はるかに及ばなかった。
◆科学水準維持狙う
「日本の原爆」などの著書があるノンフィクション作家保阪正康さんの話 「ニ号研究」は、原爆製造計画といえるほどの内容ではなかった。仁科さんもそう認識しており、「原爆はできる」と報告した一方で、裏では「今の戦争中にはできない」とも言っていた。仁科さんの報告は、日本の科学水準を守るために、戦時中も研究を続ける意思を示すことで優秀な科学者と費用を確保するのが狙いだったのではないか。
<仁科芳雄> 1918(大正7)年、東京帝大卒業後、発足したばかりの財団法人理化学研究所(東京都文京区)に入所。欧州で最先端の原子核物理や量子論を学び、帰国後の31年、主任研究員になった。「ニ号研究」でも責任者となり、理研の門下生ら20人ほどが参加。戦後は、理研を改組して48年に発足した株式会社科学研究所社長に就任。日本学術会議副会長も務めた。科学研は58年に特殊法人(現・独立行政法人)理化学研究所となり、拠点を埼玉県和光市に移転。現在の理事長はノーベル化学賞を受賞した野依良治・名古屋大特別教授が務めている。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201208/CK2012081602000253.htmlより、
【日米同盟と原発】第1回「幻の原爆製造」 (1)どうにか、できそうだ
2012年8月16日
運命の出会い
戦時下の日本で、極秘裏に進められていた原爆開発計画「ニ号研究」。戦局の一発逆転を狙って軍が主導し、当時、原子核物理の第一人者だった理化学研究所の科学者、仁科芳雄氏(1890~1951)が開発責任者を務めた。計画は結局、とん挫したが、仁科氏の下で学んだ若い門下生らの研究は戦後、「平和利用」と名を変えた戦後の原子力開発の礎となった。狭い国土に今や50基がひしめく原発大国・日本。そのルーツを「ニ号研究」から探った。(文中の敬称略、肩書・年齢は当時)
1940(昭和15)年夏の蒸し暑い朝。東京・新宿から立川に向かう国鉄中央線の車中。立川の陸軍航空技術研究所に出勤途中の陸軍中将、安田武雄(51)は、旧知の科学者と偶然乗り合わせた。
科学者の名は、仁科芳雄(49)。東京帝大電気工学科を首席で卒業後、1918年から理化学研究所で研究員として働いていた。英国、ドイツ、デンマークなど欧州の研究所にも留学し、最新のエックス線や原子核物理を学んでいた。日本の原子核研究の第一人者だった。
仁科は安田の顔を見るや、あいさつもそこそこに切り出した。「例の話ですけれど…」。2人が以前から話題にしていた原爆。当時は「ウラニウム爆弾」と呼んでいた。
安田が戦後、雑誌「原子力工業」に寄せた手記によると、仁科はこの時、初めて原爆製造の実験研究に着手する用意があることを伝えた。安田は「遠い未来の夢だと考えていたが、心おのずと弾むのを禁じ得なかった」と喜んだ。仁科の「いささか勢い込んだ様子」に、期待を膨らませた。どうにか、できそうだ-。
仁科と安田が出くわしたころ、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を締結する寸前だった。ヒトラー率いる独軍は前年の39年9月、ポーランドに侵攻。三国同盟は欧州戦線の火種が日本に飛び火することを意味していた。日本軍は泥沼が続く日中戦争に加え、米英仏などの欧米列強との戦に備える必要があった。
安田は、裏付けを急ぐ。仁科と別れた後、東京帝大で2年間物理を学んだ陸軍航空本部少佐の鈴木辰三郎(28)に、別ルートから原爆製造の可否を確かめるよう命じた。
鈴木は、理研の若手研究者、嵯峨根遼吉(34)に相談する。嵯峨根は「日本物理学の草分け」とされる長岡半太郎(1865~1950)を実父に持ち、米国で人工放射能を研究した俊英。嵯峨根の話をもとに、鈴木はその年の10月、安田に「原子爆弾は出現する可能性がある」と報告する。
それから半年後の41年4月、安田は理研所長の大河内正敏(62)を訪ね「原爆製造の研究をお願いしたい」と申し出る。
仁科と安田の運命の出会いから1年もたたずにスタートした日本の原爆開発。その8カ月後、日本軍が真珠湾を奇襲攻撃し、日米が相まみえるのを当時の2人は知る由もなかった。
仁科芳雄(にしな・よしお)岡山県新庄村(現・里庄町)の資産家の四男として生まれた。理化学研究所では、最年少の40歳で主任研究員に抜てきされ、原子核を研究した。戦後は日本学術会議の副会長を務め、国際会議で原子力の国際管理を提唱した。門下生は戦後の原子力開発の中心を担い、湯川秀樹と朝永振一郎の両氏はノーベル物理学賞を受賞した。1955年に設立された仁科記念財団は、原子物理学に功績を残した学者に「仁科記念賞」を授与している。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201208/CK2012081602000254.htmlより、
第1回「幻の原爆製造」 (2)戦争の死命を制する
2012年8月16日
東条からの指示
陸軍航空本部が後押しする形で進められた原爆開発。1941(昭和16)年10月、発足したばかりの東条英機(56)内閣は次年度の政府予算案に理化学研究所への委託研究費として8万円(現在の4億円相当)を計上し、財政面でも支援した。
理研は日本初の研究機関として17年に設立。欧米で最先端の化学や物理などの基礎科学を学んだ新進気鋭の若手科学者がそろっていた。仁科は原爆開発に、そうした若手の部下を起用した。
東京帝大でウラン化合物を研究した木越邦彦(22)もその1人。20人ほどいたメンバーのうち数少ない生存者で、現在93歳の木越は当時の研究の様子をこう振り返る。
「仁科先生から『原爆ができると思ってやっているのか』と聞かれて『さあ…』と答えたら『そんな気持ちでやっているのか』と怒られた。やると決めたらまっしぐら、猪突(ちょとつ)猛進型だった」
それでも木越は、懐疑的だった。「先生が本気で原爆を作ろうとしていたのかは今でも分からない。『研究室に入れば、徴兵されずに済むぞ』と言われたことがある」と証言。「僕は、核分裂のエネルギーが軍艦や飛行機の動力源になるのかに関心があった。爆弾製造は夢物語で、具体的には考えられなかった」と打ち明ける。
果たして仁科の本心はどうだったのか。
研究に参加した木越の同僚、武谷三男(30)の著書「原子力と科学者」によると、日本軍が真珠湾を攻撃した2日後の41年12月10日に開かれた理研の会議で、仁科は戦争目的としての原爆に触れず、こう語っている。
「戦争が終わって比べた時、日本の科学がアメリカに劣ったのでは、甚(はなは)だみっともない。日本国の威信のために純粋研究を進めなければならない」
ところが、日本の戦局が不利になると、仁科の発言は微妙に変化する。ミッドウェー海戦で日本軍が大敗した数カ月後の翌42年10月、仁科は新聞への寄稿文でこう書いた。
「今日の時局においては軍備・産業に直接関係のある応用研究に重点を置くべきである」
それから5カ月後の43年3月、仁科は、ほぼ2年余りに及ぶ研究成果として「原子核分裂によるエネルギー利用の可能性は多分にある」とする報告書をまとめ、陸軍航空本部に提出した。
学習院大の江沢洋名誉教授(理論物理学)を通じて、本紙が入手した報告書のコピーによると、原爆製造について「連鎖反応が起これば極めて短時間に莫大(ばくだい)なエネルギーを放出する。強力な爆弾として用いられる可能性がある」などと記されていた。
陸軍を通じ、仁科の報告書を受け取った首相の東条は航空本部総務課長の大佐、川嶋虎之輔(45)を呼んだ。
防衛省防衛研究所の図書館に所蔵されている川嶋の手記「原子力の開発について」には、東条が指示した内容が書かれてあった。
「特に米国の研究が進んでいるとの情報もある。この戦争の死命を制することになるかもしれない。航空本部が中心となって促進を図れ」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201208/CK2012081602000255.htmlより、
第1回「幻の原爆製造」 (3)ウランを入手せよ
2012年8月16日
決死のUボート
理化学研究所の仁科芳雄らを最後まで悩ませたのが天然ウランの確保だった。必要としたウランは2トン。占領下の朝鮮半島や南方のマレー半島からの調達を試みたほか、遠い欧州にも目を向けた。
陸軍は、ドイツ占領下のチェコスロバキアで「ピッチブレンド」というウラン鉱石が採れるとの情報を入手していた。1943(昭和18)年7月、陸軍航空本部の大佐、川嶋虎之輔が駐ドイツ大使の大島浩(57)に送った極秘電報を、米軍が傍受している。米公文書館に残るその電報コピーには次のようなやりとりがあった。
【7月7日 東京→ベルリン】「日本にピッチブレンドを輸出できるか、早急に調査せよ」
【9月1日 ベルリン→東京】「ピッチブレンドを入手する交渉を続けるので、研究目的の重要性を示す文書を送ってほしい」
【11月15日 東京→ベルリン】「1トンの酸化ウランを入手せよ」
大島はナチス幹部と交渉したが、なかなか許可が下りない。当時、ドイツも原爆開発を進めており、日本への警戒感が強かったためとみられている。
ようやく認められたのは極秘電報から1年以上もたってから。45年3月24日、酸化ウランを積んだ独潜水艦Uボート「U234」が独北部のキール港から日本へ向かうことが決まった。
護衛として、欧州に駐在する2人の日本人技術将校が搭乗した。ドイツで潜水艦の設計を学んでいた友永英夫(36)と、イタリアで飛行機の研究に携わっていた庄司元三(41)の両中佐だった。
欧州戦線は、連合国軍がドイツの首都ベルリンに迫っていた。バルト海から大西洋の海域も支配され、日本にたどり着ける保証はなかった。
友永と庄司は、敵に拿捕(だほ)された時は自ら命を絶つ決死の覚悟だった。家族にあてた遺書をしたため、睡眠薬ルミナールの瓶を持って艦に乗り込んだ。
U234を題材にしたノンフィクション「深海からの声」(新評論)によると、当時、乗組員の間でベルリン出身の女優、マレーネ・ディートリヒが歌う「リリー・マルレーン」がはやっていた。乗組員らは「大洋の底に沈んでも 一番近い岸まで 歩いていこう 君のところに」と歌詞を替え、気持ちを奮い立たせた。
キール港をたってから1カ月余り後の5月1日。U234の無線通信室に「ヒトラー総統死去」の連絡があった。ヒトラーは戦局を悲観し、その前日にピストル自殺した。7日にはドイツが連合国に降伏し、日本とドイツの同盟関係が破棄された、との情報も入った。
動揺する艦内で、友永は艦長のヨハン・フェラーに「生きたまま敵側に引き渡されるのは許されない。このまま日本へ行ってください」と、航海続行を申し出たが、かなわなかった。艦は連合国軍の停船命令を受け入れ、ドイツ人乗組員は全員投降を決めた。
友永と庄司は、持っていたルミナールをあおった。2人はフェラーにあて「運命には逆らえません。静かに死なせてください。遺体は海に葬ってください」と、ドイツ語の遺書を残して自決した。
5月14日の夜。艦は静かに洋上に浮かび、エンジンを止めた。2人の遺体は重しとともに漆黒の海に降ろされた。10分間の黙とうがささげられた。
U234の積み荷は、米軍が直ちに押収した。戦後、米国が公開した公文書によると、積載した酸化ウランは560キログラムで、仁科らが望んだ2トンにははるかに及ばなかった。しかし、それこそ2人の将校を犠牲にしてまで陸軍が守ろうとしたものだった。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201208/CK2012081602000256.htmlより、
第1回「幻の原爆製造」 (4)行きつまった感あり
2012年8月16日
濃縮実験に失敗
戦局が一段と厳しさを増した1943(昭和18)年9月、陸軍は理化学研究所の仁科芳雄らの研究を軍直轄とし、原爆開発に向けた歩を速めた。研究は「ニ号研究」の暗号名で呼ばれた。「ニ」は仁科の姓に由来する。
当時、仁科の次男、浩二郎は小学生。現在は名古屋大工学部名誉教授(原子力工学)で、80歳の浩二郎は、父が旧知の記者に「日本という船が沈みそうになっている。自分もその船に乗っている以上、手で水をかき出す努力をしなければならない」と話していた、と証言する。
しかし「原爆製造は可能」とした仁科らの研究は、あくまで理論上の話。問題はどう形にするかだったが、戦時中の物資不足が障害となった。
例えば、爆薬の濃縮ウラン。熱拡散分離法を採用したが、天然ウランをいったん別の化合物にしてからでないと、高濃度のウランが生成できない。しかも、分離塔と呼ばれる実験装置は高価なニッケルが手に入らないため銅で代用しなければならず、不純物が混じることもしばしば。
当時、濃縮実験を担当した理研の研究者、山崎文男(36)が失敗続きの様子を日記に書きとめている。「ますます絶望的」「テストサンプルを測定したが、てんで弱く問題にならぬ」…。45年1月29日付では、ついに「『ニ』報告、行きつまった感あり」とつづってあった。
日記を保管している現在72歳の長男、和男によると、山崎は終戦直後まで書き続け、後年、神奈川県鎌倉市の自宅で何度も読み返していた。重要な箇所にはメモ書きを加えたり、赤ラインを引いたりしてあったが、ニ号研究のところだけは、まったく加筆せず、当時のまま。
和男は「研究がうまくいかなかったことが、よほど悔しかったのでしょう。父は、振り返ることさえ嫌だったと思う」と話す。
45年に入ると、米軍機B29の東京空襲は激しさを増した。4月14日未明には、文京区本駒込の理研にも爆弾が落とされ、熱拡散分離塔のある49号棟が全焼。実験を続けることすらほぼ不可能になった。
山崎の日記によると、45年5月15日、仁科は理研の会議室に山崎ら部下の研究者を集め「ニ号研究の大体中止を決議した」。これを受け、陸軍技術少佐の山本洋一(40)は6月28日付の報告書でこう書いた。
「理研仁科研究室における熱拡散法による研究は数回の実験の結果、不可能なること判明し、原子核エネルギーの利用の研究は中止することとなれり」
当時、陸軍とは別に、海軍も京都帝大と協力して原爆開発を進めていた。「F研究」の暗号名で呼ばれていたが、やはりウラン濃縮がネックとなり、日の目を見ることはなかった。
ニ号研究の中止を決めた陸軍の報告書にはこんな一文もある。「敵国(米国)もウランのエネルギー利用は当分なしえざるものと判明した」
仁科ら日本の科学者はそれが、見込み違いであったことを1カ月余り後に知ることになる。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201208/CK2012081602000257.htmlより、
第1回「幻の原爆製造」 (5)少年らに「マッチ箱一つ」
2012年8月16日
福島で勤労動員
酸化ウランを積んだドイツの潜水艦Uボート「U234」が日本へ向け出航した1945(昭和20)年3月。同じような悲劇は日本でもあった。福島県石川町の私立石川中学校の生徒が校庭に集められた。壇上の陸軍将校が「君たちに動員命令が出た。お国のために働いてもらう」と檄(げき)を飛ばした。
石川町は希少な鉱物産地として知られ、今も山間部には、ペグマタイト(巨晶花こう岩)の白い岩肌があちこちで見られる。陸軍はペグマタイトに含まれるわずかな天然ウランに目をつけ、国内でのウラン確保にわずかな望みをつないだ。
石川中は、高校野球の古豪、学法石川高の前身。4月になると、3年生になる男子生徒150人がウラン採掘に駆り出された。いずれも14、15歳の少年たちだった。
その1人で、現在は81歳の有賀●(きわむ)は、当時の作業ぶりを鮮明に覚えている。
「麦飯やイモの弁当を持って毎日、10キロ離れた採石場まで歩いた。ひたすら土を削り、2人で運んだ。休みは雨の日だけだった」
岩を覆う土をツルハシで削り、縄を編んだモッコに棒を通して2人1組で運び出す。鉄のノミやたがねで岩に穴をあけ、ダイナマイトで爆破する。散らばった破片から、指のツメほどの黒い鉱石を探し出す。そんな毎日が続いた。
有賀が中心となって93年にまとめた文集「風雪の青春」は、勤労動員に駆り出された少年たちの苦難をつづっている。
「早朝から夕方まで、手に豆、肩にあざ、毎日スコップとモッコで、よく働いた」
「靴の代わりに草鞋(わらじ)を履いた。とがった石で足をけがして、血を流しながら作業した」
陸軍は、ペグマタイトの岩石から、天然ウランを含む鉱石サマルスカイトを3トン掘り出し、計500キロの酸化ウランを得る皮算用だった。気の遠くなるような無謀な計画だが、有賀によると、勲章を着けた軍人がこうハッパを掛けたという。
「君たちの掘っている石がマッチ箱一つくらいあれば、ニューヨークなどいっぺんに吹き飛んでしまうんだ。がんばってほしい」
マッチ箱一つの“火薬”で形勢逆転-。軍事教育を受け、教育勅語をそらんじる少年たちは、そんな言葉に発奮した。時折、軍人が配るキャラメルを楽しみに、懸命に働いた。
採掘を初めてから2カ月余り後の6月13日。陸軍の委託を受けていた石川山工業所が「石川山で採掘したサマルスカイトが750キログラムに達した」と報告した。しかし、このころ、理化学研究所の仁科芳雄が進めていた「ニ号研究」は既に中止を決めていた。ウランを調達したところで、使う見込みはない。が、少年らは、その事を知らされなかった。
目的を失った勤労動員は8月15日の終戦まで続いた。有賀はその日も石川山の採石場に向かったが、途中で引き返した。「天皇陛下の重大放送があるらしい。家で聞こう」。川の畔(ほとり)で一緒になった同級生と話した。
「両親、祖母と一緒に、ラジオに向かって正座して聞いた。放送が終わると、父が『戦争が終わった』と言った。もう働かなくていい、死ななくてよかった、と喜びがわいた」と振り返る。
原爆製造のためウラン発掘に駆り出された少年たち。福島を舞台にした「核の悲劇」は昨年3月、東京電力福島第1原発事故で再び繰り返された。原発から60キロ離れた故郷、石川町に今も住む有賀は「『絶対勝つ』と言い続けた戦前の軍国主義と、『原発は安全』と唱えてきた原子力政策はダブって見える。私は2度、国に裏切られた思いだ」と話す。
(注)●は「究」の「九」の部分が「丸」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201208/CK2012081602000258.htmlより、
第1回「幻の原爆製造」 (6)腹を切る時が来た
2012年8月16日
広島に原爆投下
日本の原爆製造計画「ニ号研究」がとん挫したころ、米国の「マンハッタン計画」は最終局面を迎えていた。1945(昭和20)年7月16日、ニューメキシコ州の砂漠で世界初の核実験「トリニティ」に成功した。
開発責任者で、後に「原爆の父」と呼ばれる科学者のロバート・オッペンハイマーは戦後、大空に広がるきのこ雲を見た時の気持ちを、米NBCテレビでこう振り返った。
「世界は今までと同じ世界ではなくなった。われは世界の破壊者なり」
日本の敗戦が濃厚になった45年8月6日朝。米軍のB29「エノラ・ゲイ」が広島にウラン原爆「リトルボーイ」を投下し、市街地が焼き尽くされた。世界で初めて原子力が戦争目的に使われた。
一夜明けた7日、陸軍将校が理化学研究所の仁科芳雄の研究室を訪ね「アメリカが広島に原子爆弾を落としたと報告があった。調査団を派遣したいから、参加してほしい」と要請した。
仁科は、その日午後に埼玉・所沢飛行場から軍の用意した飛行機で広島へ向かった。ところが、機体が故障し、富士山付近で引き返した。
自分たちがたどり着けなかった原爆で、日本が大打撃を受けた。仁科の当時の心境は今も定かではない。が、その一端を知る手がかりとして、7日夜に理研の部下、玉木英彦(35)あてにしたためた手紙が残っている。そこにはこうある。
「吾々(われわれ)『ニ』号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来たと思ふ。…米英の研究者は理研の研究者に対して大勝利を得たのである」
仁科は翌8日、広島へ向けて再び飛び立った。原爆の破壊力が、いかなるものかをこの目で確かめるために。日本の敗戦が近づいていた。
◇
この特集は社会部原発取材班の寺本政司、北島忠輔、谷悠己、鈴木龍司が担当しました。
米軍による広島、長崎への原爆投下で、被爆国となった日本。「核の恐怖」を身をもって知った、その日本がなぜ戦後、原子力推進を国策として掲げ、世界有数の原発大国となったのか。シリーズ「日米同盟と原発」は太平洋戦争をはさんで、敵国から同盟国へと転じた米国との日米関係を手がかりに、その根源的な謎に迫る特集です。今後、随時掲載していきます。