【日米同盟と原発】第2回「封印された核の恐怖」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201209/CK2012092502100003.htmlより、
東京新聞【日米同盟と原発】「被ばくの公表避けよ」 広島原爆で旧軍部指示
2012年9月25日
1945(昭和20)年8月6日の原爆投下直後、広島で被ばく状況などを調べた大本営調査団の旧日本陸軍幹部が「人間に対する被害の公表は絶対に避けること」と指示していた。調査団がまとめた報告書の草案に記述が見つかった。
草案は調査団の現場責任者で、原爆投下から2日後に広島入りした陸軍中佐、新妻清一氏(故人)が手書きした。新妻氏が長く自宅で保存し、本人が生前の94年に広島平和記念資料館(広島市)に寄贈した。
草案によると、爆弾はその威力やフィルムが放射線で感光していたことなどを根拠に「原子爆弾ナリト認ム」と結論。被ばく者の症状などから「ベータ線ノ作用アル疑アリ」と、拡散した放射能による被ばくの危険性を指摘しながら、公表見送りを求める一文が加えられていた。
大本営は、この草案を基に45年8月10日、「原爆である」と結論づける報告書をまとめたが、原爆であることは戦争が終わるまで伏せられた。
広島市立大広島平和研究所の高橋博子講師は「非公表の指示は軍部の意向だと思うが、まさか文書で残っていたとは。国民の戦意喪失や広島への救援活動の停滞を恐れたのだろう。原爆投下直後の大本営の情報統制を裏付ける資料」と話している。
調査団には戦時中、原爆開発を担った理化学研究所の仁科芳雄主任研究員(故人)も参加していた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201209/CK2012092502100004.htmlより、
【日米同盟と原発】第2回「封印された核の恐怖」 (1)死の街ヒロシマ
2012年9月25日
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月、広島、長崎に相次いで投下された米軍の原爆。人類が初めて経験した「核の恐怖」はその破壊力はもちろん、何十年にもわたって人々を苦しめる深刻な放射能汚染だった。ところが、日本は戦意喪失を恐れ、また米国も国際的な非難を避けようと、大量被ばくの実態を公にしようとしなかった。原子力の隠蔽(いんぺい)体質は「平和利用」と名を変えた60余年後の東京電力福島第1原発事故でも繰り返される。終戦から米軍占領期までの戦後日本が広島、長崎の悲劇とどう向き合い、その後の原発開発へ歩みを進めたのかを検証する。(文中の敬称略、肩書・年齢は当時)
原爆認めぬ軍部
(写真)1945年10月、原爆の爆風で建物が吹き飛び、がれきに変わった広島市中心部。撮影地点は爆心地から120メートル=広島平和記念資料館提供
広島の原爆投下から2日後の1945(昭和20)年8月8日。戦時中、陸軍の要請で原爆開発「ニ号研究」を指揮した理化学研究所の仁科芳雄(54)は東京・羽田から軍用機で、広島に飛んだ。陸軍中佐、新妻清一(35)ら軍の技術将校も同行した。
米大統領トルーマンは投下直後、米国民に向けた声明で、世界初の原爆使用を宣言。仁科らは出発前、旧知の記者を通じて、その内容を知らされた。日本の科学技術では到底無理だった原爆開発に、米国は本当に成功したのか。仁科らの任務は現地で、それを確かめることだった。
広島の上空に差しかかったのは8日夕。低空で2、3周旋回した。窓の下に西日に照った街が広がった。市中心部は焼け果て、2キロ先の家屋まで爆風で壁がえぐられていた。
ニ号研究で仮定した原爆の威力とほぼ一致するすさまじさだった。広島入りする前、ある程度の覚悟を決めていた仁科ですら、その惨状に息をのんだ。戦後の46年に発行された雑誌「世界」への寄稿文で、仁科は当時の模様をこう振り返っている。「死の街の様相を呈していた」
仁科は8日のうちに、鈴木貫太郎内閣の書記官長、迫水久常(43)に電話で報告した。「残念ながら原子爆弾に間違いありません」
だが、第一人者の仁科が原爆と認めたにもかかわらず、当時の内閣や軍部はその事実を握りつぶした。放射能による被ばくを隠すためだった。投下後も何十年にもわたり人間を苦しめる原爆。そんな「大量殺りく兵器」で攻撃を受けたことが分かれば、国民はおびえ、戦意を失うのではないか、と恐れた。
そう思っていたやさきの9日、今度は長崎に原爆が落とされた。
仁科とともに広島入りした陸軍中佐、新妻ら軍部は翌10日、ひそかに報告書をまとめている。広島の被害状況などから「原子爆弾ナリト認ム」と明記した上で「放射能力ガ強キ場合ハ人体ニ悪影響ヲ与フルコトモ考ヘラレル。注意ガ必要」と、放射能の危険性をはっきり指摘していた。
草案は新妻が書いた。広島平和記念資料館に保存されている草案には「人間ニタイスル被害ノ発表ハ絶対ニ避ケルコト」との一文が加えられていた。報告書の存在は戦争が終わるまで公になることはなかった。
大本営は8月15日の終戦まで、広島、長崎の爆撃を「新型爆弾」によるものと言い、原爆を隠し続けた。検閲下の新聞紙上で、長崎に続く今後の対処法として、やけどや爆風への注意を呼び掛けたが、放射能には触れずじまいだった。
こうした軍部の対応を科学者、仁科はどう見ていたのか。
仁科の次男で、現在は80歳の名古屋大工学部名誉教授(原子力工学)の浩二郎は当時、中学生。玉音放送が流れた15日、広島、長崎の調査を終えて理研に戻った仁科が「『軍人は何度言っても、原爆だと認めようとしなかった。閉口した』と話していた」と証言する。
(写真)仁科が原爆直後の現地調査を記録した大学ノート。投下からきのこ雲が上がるまでの様子を記した図が描かれている
仁科は8日間の現地調査の間、被ばく危険性が高い爆心地付近にあえて足を運び、鉄の破片や小石を拾い集めた。放射能汚染を調べるサンプルだった。
被ばくの症状や田んぼの土壌汚染、変死した川魚など科学者の視点で現場を見つめ、大学ノート2冊に手書きした。ノートは原爆直後を知る貴重な資料として、今も仁科記念財団(東京都文京区)に眠っている。
日本の原爆開発を担った仁科が調査に没頭したのは果たして知的好奇心か、罪滅ぼしか-。生前、誰にも話していないが、次男、浩二郎は「父は死を覚悟していたはず。科学者の責任がそうさせたのだろう」と推測する。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201209/CK2012092502100005.htmlより、
第2回「封印された核の恐怖」 (2)悲劇は「日本の宣伝」
2012年9月25日
米、報道を規制
「核の恐怖」を隠そうとしたのは、原爆を投じた米国も同じだった。
広島の原爆投下からちょうど1カ月たった1945(昭和20)年9月6日。東京・帝国ホテルの一室で、米軍将校らが海外の報道陣を対象に、広島の状況に関する非公式の説明会を開いた。戦争が終わり、日本は連合国軍総司令部(GHQ)の支配下に入っていた。
説明会で、主に発言したのは米原爆開発「マンハッタン計画」の副責任者、米軍准将トマス・ファレル(53)だった。ファレルは「原爆で死ぬべき者は全員死んだ。現時点で放射能に苦しむ者は皆無だ」と述べ、放射能の影響が長期に及ぶことはない、と強調した。
広島の現地ルポを報じたオーストラリアの記者が原爆投下から数週間後に市内の川で魚の群れが死んだという目撃談をぶつけると、ファレルはこう反論した。「君は日本の宣伝の犠牲になったのかね」
戦争が終わると、日本は一転して広島、長崎の原爆を公式に認め始めた。
終戦翌日の45年8月16日付の新聞は「爆発後、相当の期間、かなり強力なベータ線及びガンマ線などの放射線が存在する。…ある程度以上強い場合には人体に影響を与えることも考えられる」という仁科芳雄の談話を掲載した。広島で被ばくした劇団女優が頭髪をなくし、ついに死を迎えたという記事も。日本国内で米国の「非人道性」を糾弾する論調が高まっていた。
ファレルは、帝国ホテルの説明会から6日後の9月12日に開いた記者会見でも「現時点で危険な量の残留放射能は測定できない。放射能で傷害を負った人は爆発時の照射の影響を受けただけだ」と、繰り返した。
米国にとって、予期せぬ結末だったからではない。それどころか、米国は原爆投下前から放射能の影響を分析していた。それを裏付ける文書が米公文書館に残っている。
「戦争兵器としての放射能」と題された43年7月27日付の公文書。戦時中、機密扱いだったこの文書には、マンハッタン計画の一環として、主要科学者たちが放射能の毒性を検討している様子が書かれている。
科学者らは「大量に使われるほど大きな傷害を与える」「(攻撃を受けたら)全軍を避難させ、すぐ爆心地の放射線量を測る必要がある」など、まるで自ら言い聞かせるかのように放射能の恐ろしさを語っている。
報道などを通じ、明らかになりつつあった広島、長崎の悲劇。GHQは45年9月19日、「プレスコード(新聞規制)」を敷き、原爆報道を厳しく制限した。米国内でも一部の科学者らが核の残虐性に批判の声を上げており、国際的な非難に広がることを恐れた米国は情報統制を一段と強めた。
ファレルの上司で、マンハッタン計画責任者の米軍准将レスリー・グローブス(49)が46年6月19日にパターソン陸軍長官に送った公文書にはこう書かれてある。
「(米国の)医師団による分析が完了するまで、放射能については公式声明を出さないでほしい。強調した表現は、扇情的な報道につながる」
GHQのプレスコードは、占領期の終わるサンフランシスコ講和条約発効の52年4月まで続いた。その間、広島と長崎の被ばく者たちの苦しみは、世間の目から遠ざけられた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201209/CK2012092502100006.htmlより、
第2回「封印された核の恐怖」 (3)20万人以上の「実験」
2012年9月25日
死の灰、黒い雨
1945(昭和20)年9月、日本は復興への道を歩み始めた。焼け跡に闇市が出始め、バラック小屋が並んだ。東京では国民学校が再開。歌手並木路子(23)の「リンゴの唄」がはやり、みんなが口ずさんだ。だが、原爆で街じゅうが焼き尽くされた広島と長崎だけは別だった。
現在95歳の肥田舜太郎は当時、広島市駐在の軍医。原爆投下時、市郊外で往診中だった。爆心地から北に7キロ離れた山あいの村を拠点に被ばく者の治療にあたった。
押し寄せた人波は皮膚を垂らし、口から黒い血をこぼしていた。「ただ死んでいくのを見ていただけ。正直、何もできなかった」と、当時を振り返る。
当初はやけどで息絶える人が多かった。投下の4日目から様子が変わる。目尻や鼻から血を流し、頭をなでると毛が抜けた。「どうなってるんだ」。途方に暮れた肥田がさらに驚いたのは、その1カ月後。同じ症状でも「わしは原爆にあっとらん」と訴える患者が続いた。
大本営が国民の戦意喪失につながるから、と原爆の事実を隠したのが原因だった。放射能の危険性をまったく知らされず、投下後、身内の安否確認や救助のため市内に入った人たちが「死の灰」を浴び、体内に取り込んだ。
投下2日後に広島市に戻った現在83歳の高橋昌子もその1人。当時16歳の女子高校生だった。
祖母の看病で岡山県にいた高橋は、姉を捜しに爆心地近くの実家に帰ると、台所で姉は真っ白な骨になっていた。指をやけどしながら骨を拾い集めた。「はあー」ともらしたため息の後、放射性物質を含んだ粉じんなどを吸い込み、内部被ばくした。
1カ月後に異変が生じた。高熱、じんましん、下血…。治まっては再発する原因不明の症状が30年近くも続いた。健康診断で訪れた病院で問診を受け「あなたは被ばく者です」と告げられた時、50歳を過ぎていた。
「体の不調は体質だと言い聞かせてきた。何も知らされずに生きてきたのが悔しくて、涙が止まらなかった」
高橋のように原爆投下後、爆心地付近を訪れた「入市被ばく者」は広島、長崎で10万人以上ともいわれる。爆心地から10キロ以上も離れた場所で放射性物質を含んだ「黒い雨」を浴びて被ばくした人も。
広島原爆から7年後の52年、高橋の元をジープに乗った2人組の米国人が訪れている。復員した男性との間に長男をもうけたばかりだった。
通訳の日本人は「ABCCの調査です」と告げただけ。ABCCは全米科学アカデミーが46年、日本に設立した原爆傷害調査委員会の通称だった。
言われるままに、布団に横たわると、米国人は太い注射器で母子の血を抜き取った。手土産代わりにせっけんを枕元に置くと、採血を大事そうに抱えて立ち去った。その後、今に至るまで何の連絡もない。
ABCCは広島や長崎で被ばくした人たちの健康状態や胎児への遺伝的な影響を調べていた。学術研究が目的とされたが、実際は米国の核兵器研究のデータ集めの側面が強かった。資金提供を申し出たのは、原子力のエネルギー利用などを目指す米政府の原子力委員会だった。
(写真)1950年11月に開かれた米原子力委員会の議事録。ウォーレン生物医学部長は「長崎と広島の20万人以上を含む実験結果がある」と発言した
当時、ABCCの日本人スタッフだった現在81歳の山内幹子は「米国人の上司から正確な調査が最優先だと教え込まれた。核爆弾の殺傷能力を研究するのが目的でした」と打ち明ける。
ワシントンの米公文書館に50年11月に開かれた米原子力委の議事録がある。生物医学部長シールズ・ウォーレンは「われわれは、広島と長崎から20万人以上の実験結果を得ることができた」と発言している。
ABCCの調査結果は、日本の被ばく医療に役立つことはなかった。軍医として原爆治療にあたった肥田は戦後、民間医師の立場で被ばく患者の救済に取り組んできた。「米国が治療やデータ公表に前向きだったら、被ばく者医療の質は格段に向上していたはずだ」と言い切る。
肥田は、いつ発症するかわからない内部被ばくこそ核がもたらす大きな罪と考える。深刻な放射能汚染を引き起こした昨年3月の福島第1原発事故もそう。「ただちに健康被害はありません」と繰り返す政府高官の姿を見て「危険性を隠そうという論理は原爆も原発も同じ」と憤る。
福島事故後、90歳を超える肥田は全国150カ所以上を回り、低線量被ばくの危険性を訴えている。「広島、長崎の悲劇を福島で決して繰り返してはならない。それが医師としての私の務め」と話している。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201209/CK2012092502100007.htmlより、
第2回「封印された核の恐怖」 (4)近づく冷戦の足音
2012年9月25日
理研襲うGHQ
米国は広島、長崎の原爆被害をひた隠す一方、戦前の原爆開発「ニ号研究」に代表される日本の原子力技術を厳しく取り締まる。
終戦から2カ月半後の1945(昭和20)年10月30日。米軍統合参謀本部は、東京の連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官マッカーサー(65)に「日本での原子力エネルギーのすべての研究活動は許されない」と打電した。「ニ号研究」の拠点だった仁科芳雄(54)率いる理化学研究所が真っ先に狙われた。
3週間後、GHQの兵士らが突然、東京・本駒込の理研を襲った。当時、世界最高水準を誇った原子核分裂の実験装置「サイクロトロン」2台をその場で壊し、東京湾に捨てた。
ニ号研究に参加した現在93歳の学習院大名誉教授の木越邦彦は、その様子を研究室の窓越しで見た。当時26歳だった。「『ああ、戦争に負けたんだ』と実感した」と振り返る。
GHQは京大、阪大のそれぞれ1台を含め国内にあった計4台のサイクロトロンをすべて破壊した。
阪大にはニ号研究の分室があった。当時、阪大の学生で、現在89歳の名古屋大名誉教授福井崇時は、GHQが来る前に、研究仲間らとウラン濃縮の熱拡散分離器をこっそり壊し、近くの川に捨てた。「原爆研究に関わっていたことが知られたら、米軍に殺されると思ったから」と証言する。
理研の仁科は戦後、サイクロトロンを平和利用し、生物、医学、化学の基礎研究に役立てるつもりだった。国立国会図書館のGHQ極秘文書の中には、仁科がそれを残すようマッカーサーに送った嘆願書が保管されている。それでも許さなかった米国の意図はどこにあったのか。
当時、理研の研究者だった元東北大教授木村一治は90年に発行した自叙伝「核と共に50年」で、サイクロトロンの破壊を「米ソ冷戦のもたらす結果なのだ」と指摘している。原爆投下直後、広島、長崎を現地調査した際、GHQから妨害を受けたといい「原爆の効果がソ連側に知れることを極端に警戒し始めていた」と記している。
サイクロトロンの破壊から1年後の46年10月3日。米南部ジョージア州の地方紙「アトランタ・コンスティトゥーション」のトップ記事が米軍関係者を驚かせた。
ソウルに滞在していた米国人記者が報じた記事は「日本が終戦3日前の45年8月12日に朝鮮半島の都市、興南の沖合で核実験に成功していた。その数時間後、南進したソ連軍が日本人科学者6人を拘束。彼らはモスクワで原爆開発に携わっている」などの内容だった。
記事はまったくの誤報だった。米陸軍長官パターソンは直ちに「事実ではない」との声明を出し、新聞社側も翌日「ただの茶飲み話だった」との訂正記事を掲載した。米軍は表向きは平静さを装ったが、ひそかに記事の裏付け調査を行っている。
国立国会図書館のGHQ極秘文書に、GHQの科学顧問ハリー・ケリー(38)が興南に駐在していた日本窒素肥料(現チッソ)の技術者をインタビューした記録が残っている。
ケリー「工場に物理学者はいたか」
技術者「化学者しかいなかった」
ケリー「当時、大きな爆発はあったか」
技術者「私は見ていない」
米国には「茶飲み話」では片付けられない事情があった。記事が出る8カ月ほど前の46年2月、ソ連共産党書記長スターリンはモスクワで「米国は間もなく原爆を独占できなくなる」と示唆。その1カ月後、前英首相チャーチルが有名な「鉄のカーテン」演説を行い、米ソの緊張関係が高まっていた。
アトランタ紙の誤報からほぼ3年後の49年9月、ソ連は原爆実験に成功し、米国に次ぐ核保有国になったことを世界に宣言する。米ソの2大国が核兵器でにらみ合う「冷戦」が幕を開け、日本もその渦の中にのみ込まれていく。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201209/CK2012092502100008.htmlより、
第2回「封印された核の恐怖」 (5)仁科の死そして巣鴨プリズン
2012年9月25日
A級戦犯の関与
ソ連が原爆保有を宣言してから1カ月後の1949(昭和24)年10月。今度は、毛沢東(55)率いる中国共産党が中華人民共和国を建国した。東アジアでも緊張が高まり、米国の対日占領政策は「反共の砦(とりで)」としての性格を一段と強める。
翌50年6月、米ソがにらみ合う朝鮮半島で戦争が勃発。その2カ月後、日本は自衛隊の前身となる警察予備隊を発足させ、米軍の後方支援を務めた。
その年11月、中国軍が北朝鮮側に参戦すると、米大統領トルーマンは「原爆の使用も考えている」との声明を発表。米ソの核戦争が現実味を帯び、日本が再び核の犠牲になる恐れがあった。
このころ、戦時中に日本の原爆開発を指揮した仁科芳雄は肝臓がんを患い病床に伏していた。前年、日本人初のノーベル賞を受賞した門下生の物理学者、湯川秀樹(43)とともに戦後日本で原子力の平和利用を思い描いていた。仁科の次男で、名古屋大名誉教授の浩二郎は「父は最期まで朝鮮戦争で原爆が使用されるのを心配していた」と話す。「戦争なんて決してやるべきじゃない」と言い残し、51年1月、60歳の生涯を閉じた。戦前の原爆兵器から戦後は一転して原子力の平和利用を目指した仁科は、その夢を果たすことなく、帰らぬ人となった。
仁科の死と入れ替わるように、原子力の表舞台に登場したのが保守派の若手議員、中曽根康弘(32)だった。後に科学技術庁長官(現・文部科学相)、首相を務める中曽根は51年1月、日米講和交渉で来日した米特使ジョン・ダレス(62)に「独立後の日本に原子力研究の自由を認めてほしい」との文書を手渡している。
電力業界でもこの年の5月、国営の「日本発送電」が分割・民営化され、九電力体制が整う。この清算金で2年後の53年、原発を推進する日本原子力産業会議(現・日本原子力産業協会)の前身、電力経済研究所を設立。戦後日本で、原子力の再開に向けた下地ができつつあった。
経済研究所の初代常務理事を務めたのが橋本清之助。後に原産会議の事務局長を務めるなど政財界のパイプ役となり「原子力産業の育ての親」ともいわれる。戦前は、岡田啓介内閣で内相だった後藤文夫の秘書を務めていた。
その橋本が71年に発行された業界史「日本の原子力15年のあゆみ」の中で、原発にまつわる興味深いエピソードを紹介している。
時は48年のクリスマスイブ。A級戦犯として東京・巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)に収容されていた後藤が後に首相となる岸信介らとともに釈放された。出迎えた橋本に、後藤は「アメリカでは原爆を使って電力に変える研究をしているらしい」と話した。拘置所でむさぼり読んだ英字新聞で得た知識だったが、橋本はこの時初めて原子力エネルギーの存在を知ったという。
52年のサンフランシスコ講和条約発効で日本は念願の独立を果たす。占領期に認められなかった原子力開発が解禁された。米ソ冷戦下、日本の原子力は科学者の手を離れ、政財界の思惑の中で動いていくことになる。
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この特集は社会部原発取材班の寺本政司、北島忠輔、谷悠己、鈴木龍司が担当しました。シリーズ「日米同盟と原発」は随時掲載します。