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日別アーカイブ: 2012年10月14日

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012101402000099.htmlより、
東京新聞【社説】週のはじめに考える 古典に学ぶ「言挙げ」
2012年10月14日

 今年から十一月一日が「古典の日」として法制化され、さまざまな催しが行われます。親しむだけでなく、古典の教訓を現代に生かすことが大切です。
 紫式部日記で源氏物語に関する記述が初めて登場するのが寛弘五(一〇〇八)年十一月一日ということで、源氏物語千年紀委員会が四年前に京都で記念式典を開いた折に、この日を「古典の日」とするよう呼び掛けました。去る八月に成立した法律では「心のよりどころとして古典を広く根づかせ、心豊かな国民生活及び文化的で活力ある社会の実現に寄与する」ことを目的としています。

◆古事記ブームの背景
 倭(やまと)は国のまほろば たたなづく
 青垣山籠(ごも)れる 倭し麗し
 「大和は国の中で最も素晴らしい。重なり合った青垣のような山々に囲まれた大和は美しい」。父親の景行天皇から命じられ伊吹山の神を平定に向かったヤマトタケルが、神の怒りで病気になり、三重で没するときに詠んだ歌です。
 このヤマトタケル伝説の載った「古事記」が静かなブームです。編さんから千三百年で、さまざまな出版や講演会・シンポジウム、さらには四代目市川猿之助の襲名とも重なったスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」興行など、普段は敬遠されがちな日本最古の歴史書が随所で話題になっています。
 ここで取り上げたいのは、古典の中で「言葉」がいかに重要視されたかです。「言挙げ」(自分の意思を明確に声に出していう)とか、「言霊」(言葉の霊力)という表現が万葉集や古事記に登場するように、言葉に霊的な力が宿り、自分が発した言葉には責任を持たなければならないとの考え方が古くからありました。たとえば柿本人麻呂は万葉集に収録されている長歌で「葦原(あしはら)の瑞穂(みずほ)の国は神ながら言挙げせぬ国しかれども言挙げぞわがする…」とうたいました。

◆公約守れない民主党
 その反歌として「磯城島(しきしま)の日本(やまと)の国は言霊のたすくる国ぞま幸(さき)くありこそ」と詠んでいます。
 この歌は遣唐使が無事であるよう祈ってつくられたとされ、「国は神の意のまま動くが、私はあえて言挙げする…」「日本は言葉の魂が人を助ける国だ。無事であってほしい」という意味です。
 叔母のヤマトヒメから草薙(くさなぎ)の剣を授かって不死身とみられたヤマトタケルが伊吹山でなぜ不覚を取ったのか。一つは剣を持たずに素手で立ち向かったこと。もう一つは、山中で出会った白い大イノシシを伊吹山の神と知らずに「使者だろうから、いま殺さなくても帰りに殺せば」と言挙げしたことです。言挙げは、その内容が慢心によるものだと悪い結果をもたらすとされていました。ヤマトタケルの慢心がまさにそうです。
 国語学の山口仲美明大教授は著書「日本語の古典」で「ヤマトタケルの悲劇は『言葉』に始まり、『言葉』に終わる。『言葉』に出すことはそれほど重い意味を持っていた」と指摘しています。
 翻って現代の「言挙げ」はどうでしょう。二〇〇九年の衆院選マニフェストで「官僚主導から政治主導へ」「コンクリートから人へ」と公約して政権を奪取した民主党。だが鳩山由紀夫元首相は米軍普天間飛行場の県外移転、菅直人前首相は「脱原発」政策など、さらに野田佳彦首相はマニフェストになかった消費税率引き上げなど、言挙げの重みを十分自覚しない指導者が三代続いています。この結果、七十人を超す大量離党者を出すなど三年前の民主党への期待は失望へと反転したのです。
 言挙げの内容が正しくとも、タイミングも問題です。中国の胡錦濤国家主席が野田首相に尖閣諸島の「購入反対」を伝えた直後の国有化宣言は、相手の怒りを自ら誘発したも同然でした。
 「授業料と言うにはあまりに高い代償であったが、今回の政権交代の反省の下に、市民に根ざした政策論議と与野党時代を問わない政治家の研さんなしには、官僚主導の現状を変えることは夢のまた夢」。小林良彰慶大教授(政治学)は近著「政権交代」でこう断言し、まずは政治家がもっと研さんを積め、と提言しています。
 最近の世論調査では民主党支持率が低下した分、自民党支持への揺り戻し現象などがみられます。しかし第一党は「無党派」に変わりありません。政党政治への不信が究極までいくと何が起こるか。それは戦前、体験済みです。

◆政治家を育てよう
 無責任政治の横行や政治家の軽量化を嘆くだけでなく、私たちには言行一致で、愛国と同時に世界平和にも貢献する確たる政治家を育てる責任があります。「言挙げ」がいかに重い意味を持つかを自覚してもらうためにも、まずは政治家にもっと古典を読んでもらおうではありませんか。

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http://mainichi.jp/opinion/news/20121014ddm002070130000c.htmlより、
時代の風:原発事故と安全対策=仏経済学者・思想家、ジャック・アタリ
毎日新聞 2012年10月14日 東京朝刊

 ◇規制強化を地球規模で
 東西冷戦が終わって、旧共産圏を自由市場経済に移行させるため1991年、ロンドンに欧州復興開発銀行が設立され、私が初代総裁を務めた時、東欧諸国の原子力発電所をすべて改修させる計画を発表した。チェルノブイリ原発事故から約5年後のことだ。計画はほぼ実施された。
 原子力は危険で、例外的な安全対策が必要なエネルギーだ。福島第1原発の事故は、原子力が扱いにくいものだと改めて教えてくれた。今なお福島第1原発2号機、3号機で実際に何が起きているのか分かる人はいないし、4号機の使用済み核燃料プールにある燃料棒を取り除く前に、再び大地震が起きれば大惨事になる。日本の対策は遅れており、今後も影響が心配だ。
 日本は原子力の不幸な運命を背負っている。地震が多く、歴史的にも原子力を利用するのに最適な国とは言えない。だから、日本政府の「脱原発」方針は理解できるが、それにはコストを考えねばならない。石油輸入や代替エネルギーを見つけるには莫大(ばくだい)な費用がかかる。日本には他の潜在的なエネルギー源も少ない。しかも、世界各国で電力需要は増え続け、ガソリン車に電気自動車が取って代わろうとしている現実もある。
 フランスは1960年代、電力の石油依存から脱するために、大量の原子力エネルギーが必要だと考えた。隣国ドイツは世論の支持を得られず、原子力の比率を低く抑える方向に向かったが、フランスは世論の説得に成功した。科学合理主義的な国であるという文化的な理由に加え、70〜80年代に非常に大きな議論が行われたからだ。反原子力の運動が起き、あらゆる場所で原発の役割や機能、安全性、雇用などをめぐる深い論争があった。フランスでは、国民の意思に反して建設された原発は一つもない。現時点でフランスは、他の欧州諸国と逆に、原子力には多くの利点があると評価している。

http://mainichi.jp/opinion/news/20121014ddm002070130000c2.htmlより、
 これに対し、日本の原子力の問題は、すでに知られているように管理が非常に悪く、腐敗し、不透明だったことにある。重大な不注意があっただけでなく、電力会社と監視機関のもたれ合いがあり、政府は職務を怠った。日本では近年、小さな原発事故が相当数起きており、原発の品質が維持できていなかったと推測される。使用済み核燃料再処理工場やプルサーマル原発で使うMОX(プルトニウム・ウラン混合酸化物)燃料工場すら稼働していない。日本の原子力産業は、生産という意味でも点検、管理という意味でも良質とは言い難い。
 フランスの再処理施設はうまく稼働しているが、MОX燃料については安全対策が難しい。輸送の安全が確保されなければ、深刻なテロを引き起こしかねない。1〜2回処理した後、地下に埋めなければならないが、フランスのような原発先進国でも最終処理の方法は持っていない。
 たとえ原発をやめるとしても、原子力に関する専門知識は非常に長い期間、何世紀もの間、維持しなければならないし、発展させ続けなければならない。処理しなければならない廃棄物が残るからだ。ロケットで月に運んだり、経済的な必要から、「ゴミ捨て場」になるリスクを受け入れる国があれば別だが。
 私は15年以上前に、著書で国際原子力機関(IAEA)の能力不足を指摘したが、今も職務を遂行するのに(有効な)手段も資金も専門技術も強制力もないのが実情だ。日本は安全性に関する海外の知見を十分受け入れてこなかったと指摘されている。IAEAは、そうした国に圧力をかける手段を持つべきだった。そうすれば、福島の事故は起こらずに済んだはずだ。
 日本が原発を海辺に無防備のまま建設しているとは知らなかった。私はフランス東部にある国内最古のフッセンハイム原発についてずっと批判している。ライン川沿いにあるからだ。わずかな放射能漏れでも川全体が汚染される可能性があり、その川は欧州経済の主要な源だ。

http://mainichi.jp/opinion/news/20121014ddm002070130000c3.htmlより、
 福島の事故は、原子力そのものの事故ではなく、発電所が非常に悪い場所に設置されたために起きた。原発の建屋が爆発したのであり、損傷をもたらしたのは津波だった。もし原発が他の場所に設置され、過去の津波を考慮して高い防護壁が造られていれば、原発は損傷しなかったと私は考えている。安全対策があまりに低劣で、小さな事故にも脆弱(ぜいじゃく)だったのだ。IAEAは地球規模のすべての原子力問題に対応する国際的な手段と、そのための地球規模の財源を持つことが必要だ。
 福島の事故で私が一番に考えたのは、日本には原子力とは別の危険があるということだ。もし津波が福島ではなく東京湾を襲っていたら、東京が破壊されただろう。それは原子力よりも恐ろしい。私が日本人なら、原発に不安を抱くと同時に、津波が東京の街を襲ったらどうなるかと不安になるだろう。東京にはほとんど何の準備もないのだろうから。【構成・宮川裕章】=毎週日曜日に掲載

http://www.asahi.com/paper/editorial.htmlより、
朝日新聞 社説 2012年10月14日(日)付
静岡原発条例の教訓 民意発信、多様な回路を

 中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)の再稼働の是非を県民に問う条例案が先週、静岡県議会で否決された。
 県民投票実現のため市民団体が集めた署名は16万5千と、必要数の3倍に近い。多くの人々の思いが日の目を見ずに終わるのは、なんとも残念だ。
 浜岡は、福島の原発事故のあと、当時の菅首相が政治判断で停止させた唯一の原発である。
 東海地震の想定震源域にあって、危険性が大きい。近くを東海道新幹線や東名高速が走り、事故が起きれば日本社会全体に甚大な影響がでる。そうした判断からだった。
 その再稼働に、立地県である静岡県民の関心が高いことは署名の多さからもうかがえた。
 ところが、県議会は、市民団体がまとめた原案を全会一致で否決。超党派議員による修正案にも、自民党をはじめ7割以上の議員が反対した。
 投票結果に法的な拘束力はないが、知事や議会はそれを尊重しなければならない。手足を縛られるのを県議らが嫌い、大差の否決になったのだろう。
 同様の署名活動は新潟県でも進んでいる。静岡の挑戦と挫折から教訓をくみとり、次の機会に生かしたい。

■強まる市民の発信力
 静岡県議会で、自民党県議は県民投票の問題点を次のように指摘した。
 国の原子力行政が、静岡県民だけの意思に左右されていいのか。再稼働は賛成か反対かの二者択一にそぐわない――。
 原発政策は、全国の経済活動や国の安全保障とも密接にかかわる。地域の人々が、すべてを考慮して判断をするのは、たしかに容易ではない。
 ○か×かの選択に限界があるのも事実だ。安全対策の進みぐあいや電力需給など条件つきで判断する人は少なくあるまい。
 とはいえ「選挙で選んだ代表に任せろ」という政治のあり方は、もう通用しない。
 署名は、政府が6月に関西電力大飯原発の再稼働を決めたころから急増した。政治不信が広がり、市民が意見を容易に発信できる時代である。政治が「聞きたくない」といっても、人々が黙っているはずはない。
 問われるのは、発信力を強める民意との向き合い方なのだ。
 首長や議員は市民の声に耳を傾ける。そのうえで、二者択一では割り切れない現実への対応をさぐる。どんな判断であれ説明を尽くし、次の選挙で審判を受ける。
 その際、住民投票は民意をくみとる重要な手段となろう。

■いつ、だれに問うか
 静岡では、実際に投票をする際の課題も浮かんだ。
 条例案の原案は、条例の施行から6カ月以内に投票すると定めていた。
 だが、それでは浜岡原発の安全対策が整う前に県民の判断を問うことになる。そこで、修正案では「安全対策が完了し、国が再稼働の検討を開始したと知事が認めるとき」とされた。
 民意は、その時々の状況次第で変わりうる。一方、いったん決まった政策は、長年にわたって人々の生活を縛る。人々が冷静に、的確に判断できる時期を見極める工夫が欠かせない。
 どの範囲で投票するのがふさわしいのかという問題もある。
 原発をめぐり、市町村単位で住民投票をした例はあるが、県単位はない。
 原発事故の被害がおよぶ範囲を考えれば、広域で民意を問うことには意味がある。ただ、原発からの距離など、地域の状況によって住民感情は異なる。
 実際、静岡の条例案採決では、自民は反対を決めながら党議拘束をかけず、民主は自主投票とした。議員の選挙区や支持基盤によって事情が違い、一律に縛るのは難しいからだ。
 市町村単位がいいのか。広域で問う場合も、県境で区切る合理性はあるか。全国民に問う必要はないか。テーマや切迫度で使い分ける方法もあるだろう。
 地方分権の結果、思わぬ問題も生じている。県の条例で市町村に投票事務を義務づけることができなくなったのだ。分権は当然だが、一市町村が拒めば県民投票ができない仕組みでよいのか検討すべきだろう。

■試行錯誤を重ねて
 有権者が選挙で選ぶ代表が、国政や地方自治を担う。その間接民主主義が基本であることは今後も変わらない。
 だが、代表の判断と民意はしばしば乖離(かいり)する。溝を埋めるために、直接民主主義の手法は大いに有効だ。
 日本では特定の政策について民意を問うた経験が乏しい。
 それでも変化の兆しはある。
 政府はこの夏、将来のエネルギー政策を考える「討論型世論調査」を実施した。毎週金曜の首相官邸前での抗議活動も、半年続いている。
 住民投票もふくめ、人々の声を伝える回路はもっと多様であっていい。試行錯誤を重ねながら、様々な手法を磨きたい。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2012101202000127.htmlより、
東京新聞【社説】「浜岡」住民投票 民意の出番つぶされた
2012年10月12日

 静岡県議会は、中部電力浜岡原発再稼働の是非を問う県民投票条例案を否決した。県民は原子力やエネルギーへの理解を深めるチャンス、国民は立地地域の本音に触れる貴重な機会をつぶされた。
 十六万五千を超える人たちが、県民の意思を直接問い、県の原発政策に反映すべきだと考えた。だからこそ、県民投票を求めた。
 自民系最大会派の議員は「国策の原子力行政が地方の住民投票で左右されてよいのか」と訴えた。明らかに間違いだ。
 3・11以降、原子力政策を取り巻く状況は一変し、民意で動かす時代になった。使用済み核燃料の処分一つとっても、成熟した民意がなければ不可能なのだ。
 「二〇三〇年代原発ゼロ」を明言しておきながら、その工程や具体策を決められない国に、立地地域の自治体が、原発の危険や利害に直面する住民が、ものをいうのは必然だ。ましてや、東海地震や南海トラフ地震の脅威と長年隣り合わせに生きてきた静岡県民の民意はなお重い。それを、政争絡みで門前払いとは。県議会は怠慢のそしりを免れない。
 住民投票が行われれば、推進派も反対派も議論を尽くし、原子力や災害に対する知識や考えをさらに深めることになっただろう。その中から、より熟した民意を紡ぎ出し、全国が注目する中で国の政策に反映させることもできただろう。静岡県民も国民も、絶好のチャンスを逸したことになる。
 民意を代表すべき議会が十分に役割を果たしていないのなら、住民投票を有効に使おうとするのは、地方自治の本旨にかなう。
 だが、今回のように個別に県民投票条例をつくろうとする場合、条例の制度設計などでハードルが高いことは否定できない。
 投票の必要性よりも、投票資格や時期など形式的な面で条例案が退けられたとすれば、デモクラシーの本義に背く。
 静岡県では、条例制定の請求に必要な有権者の二・七倍近い署名が集まった。知事も賛成意見を付けて条例案を出した。県民投票条例案が否決されたのであれば、自治体の重大課題について常に住民投票を行えるような常設型の条例をつくるのも一つの考え方だ。
 十六万余の民意が、これで消え去るわけではない。反対、推進の垣根を越えて、多くの住民が原子力やエネルギーを学び、考え、話し合うことができる場を、あらためて用意すべきである。

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012101101001183.htmlより、
浜岡原発の再稼働、県民投票否決 静岡県議会
2012年10月11日 13時33分

 静岡県議会は11日の本会議で、中部電力浜岡原発(同県御前崎市)の再稼働の是非を問う県民投票条例案について、委員会で原案が否決されたことを受け一部議員が提出した修正案を反対多数で否決した。議席の過半数を占める自民党系会派は原案と修正案の双方に反対しており、原案も否決された。東京電力福島第1原発事故後の原発再稼働をめぐる初の住民投票は、立地県で16万人以上の署名を集めながら実現しないことが決まった。
 原発稼働がテーマの住民投票条例案としては大阪市議会、東京都議会に次ぐ否決。しかし、脱原発を求める世論などもあり、浜岡原発の運転再開への道筋は描けない状況だ。(共同)

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121008/lcl12100803150001-n1.htmより、
産経新聞【主張】「浜岡」県民投票 国の基本政策なじまない
2012.10.8 03:14

 中部電力浜岡原子力発電所(静岡県御前崎市)の再稼働の是非をめぐる住民投票の実施をうたう条例案が、県議会総務委員会で否決された。
 今のところ、11日の本会議でも、民主党と公明党の一部県議らが別に上程する構えをみせる修正案とともに否決される公算が大きいとされる。
 が、そもそも、エネルギーなど国家の基本政策が一地方の住民投票に左右されるルールを確立させてはならない。本会議では、適切な判断を示してもらいたい。
 条例案は、再稼働の是非を18歳以上の県民の投票に委ねるという内容で、施行から6カ月以内の投票実施を義務づけている。市民団体が、法定の必要数の2倍を超す県民の署名を集めて、県議会への条例提出を県に直接請求した。
 県はこれを受けて、市民団体作成の条例案には法制上の不備が多く「名簿の確保が間に合わない」といった理由から、条例実施は困難だとする意見を県議会に書面で出している。成否を決める議会側も同様の意見が大勢だという。
 問題は、議論がこうした条例の実施上の障害に終始し、県民投票のテーマとして原発再稼働が妥当かどうかの視点に乏しかったことだ。川勝平太知事が「16万人もの署名は重い」などと発言しているのも、その一例だろう。
 忘れてならないのは、浜岡原発は静岡県民だけの電源ではないという点だ。結果次第で中部電力管内はもちろん、近隣の電力調達、ひいては広域の民間企業活動や国民生活に影響が及びかねない。
 投票結果に法的拘束力はなくとも、示された「民意」は国や自治体、電力会社の判断を縛っていく可能性が十分にあるからだ。原発再稼働のような問題は本来、住民投票にはなじまない。
 「静岡」が前例となって、原発立地自治体に同様の動きが広がることも心配だ。浜岡原発を菅直人前首相が根拠なく止めたこともあって大飯を除く全原発が停止し、電力不足に陥っている。エネルギー安全保障の重要性こそを考えなくてはなるまい。
 事は原発の問題に終わらない。国家の根幹を成す他の政策が安易に住民投票に委ねられるようになれば、国策の円滑な遂行や代表民主制まで脅かされてしまう。
 住民投票などの直接民主制はあくまで代表民主制を補完するものだ、と改めて銘記したい。

http://www.asahi.com/paper/editorial.html#Edit2より、
朝日新聞 社説 2012年9月21日(金)付
静岡原発条例―県民投票で再稼働問え

 浜岡原発再稼働の是非を問う県民投票を実現する条例案が、静岡県議会に提案された。
 市民団体が必要数の3倍近い16万余の署名を集め、川勝平太知事に条例制定を求めた。知事は県議会で「意思を表明し、県政に直接反映させたいという思いの表れであり、重く受け止める」と賛意を表明した。
 知事の判断を支持する。県議会は、再稼働をめぐる初の県民投票を実現させるべきだ。
 原子力のゆくえを地域の人々の意思で左右することには、反対意見も根強い。実際、東京都と大阪市で再稼働をめぐる投票の請求があったが、いずれも議会で否決された。
 原発が止まれば電気代が上がる。経済や雇用、安全保障など幅広い分野に影響が及ぶ。地域の人々がそこまで見越して判断ができるのか? 一時のムードに流されないか?
 住民投票にそうした限界がつきまとうという指摘は、必ずしも的外れとはいえまい。
 それでも意義は大きい。静岡県議会で、署名を集めた市民団体の5人の代表は、次のように説いた。
 「専門家や政治家に任せろといっても、彼らが危険性を軽視して事故になった。原発は先々の世代の生命や生活をも左右する。いま権力を握る人には背負いきれない重い問題だ」
 「事故が起きたら、結果は住民が受け入れざるをえない。真剣に考え、責任も引き受けることが、事故を経験した私たちの使命だ」
 選挙で代表を選ぶ間接民主主義を否定するわけではない。だが、代表に任せたらうまくいくとは限らない。生活に深くかかわるテーマで直接、民意を問うことは、その限界を補うことになる。投票する市民が当事者として悩み、判断することじたいに意味がある。
 条例案は投票結果の尊重を求めているが、法的な拘束力はない。川勝知事は「安全性が最優先だ。仮に9割の方が『原発を動かす』と言ったら、私は『いまは動かせない』という判断なので9割の方にご説明する。説明義務が大きくなる」という。
 現実は複雑だ。是か非かの二者択一で示される投票結果のとおりにならないことも起こりうる。それでも民意と向き合い、その末に下した結論について、次の選挙で審判を受ける。
 そんな政治と有権者の緊張関係が生まれてこそ民主主義は機能する。
 もし民意に縛られるのを嫌って聴かないなら、それは間接民主主義の奢(おご)りではないか。