ヒバクシャ広島/長崎:’12秋 1~4
http://mainichi.jp/area/news/20121028ddp001040002000c.htmlより、
ヒバクシャ広島/長崎:’12秋/1 中沢啓治さん 今、ゲンを生きる
毎日新聞 2012年10月28日 西部朝刊
<核兵器の廃絶を documentary report/140>
◇亡き父の言葉「踏まれてもたくましく」
記録報道「ヒバクシャ」は06年10月のスタートから7年目を迎える。「核なき世界」を掲げたバラク・オバマ米大統領が09年にノーベル平和賞を受賞して期待も高まったが、オバマ政権は翌年から臨界前核実験を繰り返した。被爆者は落胆し、そして怒ったが、世界の核廃絶への動きは後退しかねない状態にある。「’12秋」シリーズでは、5人に改めて被爆当時を振り返ってもらいながら、それぞれの胸に去来する被爆67年の秋を語ってもらった。
漫画「はだしのゲン」の作者、中沢啓治さん(73)は、10年秋に肺がんが見つかり手術した。抗がん剤治療を受け酸素吸入器が手放せない。それでも被爆67年の8月6日は早朝からNHKラジオに出演し、午後から広島市内で開かれたゲンの舞台を見た。オペラになっており、漫画を飛び越えゲンが活躍してくれるのがうれしかった。
ところが、8月下旬の検査で肺炎になりかけていると診断される。「山盛りの薬を飲んでいる」。食欲がなくなったと聞いた。
だから9月末に自宅を訪ねるにあたって、病状が気がかりだった。中沢さんは私の前で、黄色い紙の上にサインペンを走らせた。楕円(だえん)を幾重も描く。すぐに帽子と足が付け加えられ、なんと行進する兵隊の姿になった。原爆に命を奪われた父晴海(はるみ)さんに教わった兵隊の絵と「帽子がちょんちょん」という絵描き歌は、67年を経ても色あせずに中沢さんの脳裏に刻まれている。中沢さんが絵を描くのは、09年秋に「漫画家引退」を表明して以来だった。右目は白内障、左目は網膜症のため視力が低下していた。
中沢さんは描いた絵を前にして言った。「おやじに教えてもらった。これが僕の漫画家としての原点だよ」
晴海さんの教えは、「はだしのゲン」の主人公、中岡元が守り通している。心が折れそうになると、原爆で亡くなった父の言葉を思い起こして、ゲンは奮い立つ。「踏まれても踏まれても、たくましい芽を出す麦になれ」
中沢さんは6歳の時、広島の爆心地から1・2キロの小学校前で被爆した。倒壊した自宅の下敷きになった父、姉、弟を一度に失う。当日生まれた妹は4カ月後に亡くなった。小学1年の中沢さんは、生き残った母と2人の兄と一緒に材木を拾ってバラックを建て、懸命に生きた。
http://mainichi.jp/area/news/20121028ddp001040002000c2.htmlより、
中学卒業後、看板業を経て61年に上京したが、長く被爆体験を明かさなかった。66年、最愛の母を亡くした。火葬すると骨は粉々になり、遺灰には白い骨片しか残らなかった。「放射能は骨まで奪うのか」。怒りを募らせ、原爆や戦争を題材にした作品を発表し始める。
06年の秋の夕暮れだった。中沢さんはなじみの居酒屋に入ると、焼酎に煮物を注文して「僕の理想の平和だ」と言ったそうだ。日常の安寧がいかに大事か、中沢さんらしい言葉で表現した。この頃は健康だった。ほどなくして病気と闘うことになるとは、誰も思いもしなかった。
最近、「気力がなくなった」と漏らすこともある。それでも「ゲンを読んでもらうきっかけになる」と、体調が安定すれば自身の体験を語りに出かける。
「おやじから受け継いだ『人生の応援歌』を子供たちに伝えたい」。中沢さんが病気と闘う姿に、私はゲンを重ねる。中沢さんは今、ゲンを生きている。<文・中里顕/写真・小松雄介>=つづく(次回から社会面掲載)
http://mainichi.jp/area/news/20121029ddp041040012000c.htmlより、
ヒバクシャ広島/長崎:’12秋/2 谷口稜曄さん 私の姿、目をそらさないで
毎日新聞 2012年10月29日 西部朝刊
<核兵器の廃絶を documentary report/141>
長崎市の平和公園に建つ平和祈念像の前で、「核実験に抗議する長崎市民の会」代表の谷口稜曄(たにぐちすみてる)さん(83)ら約40人が座り込んだのは、9月23日だった。米国が新型核性能実験を実施したことが明らかになったためで、1974年以来、核実験に抗議する座り込みは392回目になる。
ノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領のもとで米国が核実験を繰り返すことに、谷口さんの怒りはおさまらない。「核兵器のない世界を目指すと宣言した、あの演説は何だったのか。被爆地の思いを踏みにじる核実験をいつまで続けるの」
抗議の座り込みをした2日後、谷口さんは長崎市内で神奈川県の高校の修学旅行生に被爆体験を語った。手には、原爆の熱線で背中一面が真っ赤に焼けただれた少年のカラー写真があった。原爆投下から約半年後、米国戦略爆撃調査団に撮影された自身の姿だ。生徒たちの目はくぎ付けになった。
45年8月9日、長崎に原爆が落とされた時、16歳だった谷口さんは郵便配達中に爆心地から1・8キロで被爆した。「身動き一つできず、腹ばいのまま痛みと苦しみの中で『殺してくれ』と叫んでいました。誰一人、私が生きられると予想する人はいませんでした」
約3年7カ月の入院生活を送り、うち1年9カ月をうつぶせで過ごした。これまで左腕と背中で10回以上、皮膚移植手術を受けたが、熱線で焼かれた背中は今も痛み、夜も1〜2時間置きに目が覚める。今年初めは肺炎や感染症で2カ月間入院するなど体の衰えも感じる。本来は何もせず、寝ていたいが、そのまま動けなくなってしまいそうで怖い。
そんな時、谷口さんは被爆死した郵便配達の同僚15人を思い浮かべる。「生かされたのだから、生きられなかった人の思いまで伝えなければならない」。そう決意して、己を奮い立たせてきた。
10年5月、ニューヨークの国連本部で開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議のNGOセッションで、被爆者代表として演説し、修学旅行生に見せた写真を掲げた。「私はモルモットではない。でも、私の姿を見てしまったあなたたちは、どうか目をそらさないで見てほしい」と訴え、各国政府代表ら約400人から拍手を受けた。だが米国は核実験を繰り返し、日本政府は核爆発を伴わないとして静観している。
http://mainichi.jp/area/news/20121029ddp041040012000c2.htmlより、
谷口さんの胸中は察して余りある。私は今月5日、長崎原爆被災者協議会に会長の谷口さんを訪ねた。すると谷口さんは私の前でシャツを脱いだ。あばら骨はむき出し、その骨の上から心臓が脈打っているのが見て取れた。谷口さんがゆるりと向きを変えると、私は固唾(かたず)をのんだ。背中の皮膚はただれ、一部が茶色に変色していた。被爆から67年を経ても、傷はふさがるどころか細胞の塊ができるなど今も変異を続けている。
谷口さんは無言だったが、常々口にされている言葉を、私は反すうした。「事実を見てほしい。核兵器と人類は共存できない」<文・下原知広/写真・徳野仁子>=つづく
ご意見ご感想をお寄せください。
〒810−8551(住所不要)毎日新聞福岡本部報道部「ヒバクシャ取材班」。
ファクス092・721・6520、メールはfuku-shakaibu@mainichi.co.jp
http://mainichi.jp/area/news/20121030ddp041040025000c.htmlより、
ヒバクシャ広島/長崎:’12秋/3 丸屋博さん 悲憤刻む老詩人の「希望」
毎日新聞 2012年10月30日 西部朝刊
<核兵器の廃絶を documentary report/142>
書斎のパソコンから打ち出された詩には、「ある少女の死」と題名が付いていた。広島で被爆した医師で詩人の丸屋博さん(87)=ペンネーム・御庄博実(みしょうひろみ)=を9月末、広島市郊外の自宅に訪ねた時、「最新作だよ」と一編の詩を手渡された。
題名の「少女」とは、60年安保闘争の国会突入デモで亡くなった東大生の樺美智子さん。当時、東京で医師をしていた丸屋さんは、樺さんの死因究明に携わった。挫滅した膵臓(すいぞう)を間近に見た丸屋さんは、警官隊と衝突した際に警棒のような鈍器で突かれたと確信し、一節を残している。
「『安保ハンタイ』のシュプレヒコールのなかで/少女は殺されたのだ」
7月に米軍岩国基地(山口県岩国市)に「オスプレイ」が一時配備された時、丸屋さんは52年前に引き戻された。戦後、故郷の岩国で結核の療養中、朝鮮戦争に出撃する米軍機に憤り、反戦詩集「岩国組曲」を発表。原爆詩人・峠三吉と親交を深め、広島で興った反戦文学運動に加わった。後に上京し、「歴史の曲がり角」に立ち会ったのが、樺さんの死だった。真相はうやむやのまま、日米安全保障条約が改定された。
「『60年安保』の道行がいまなのだ/あの日/日本はアメリカの軍事属国になったのだ」
77年に病院長として広島に戻った丸屋さんは、約1000人の被爆者を診てきた。援護の枠外に置かれた韓国の被爆者の支援にも尽力した。「ヒロシマを知る者として、書き残さなければならない」。医師として、詩人として、核被害の不条理を告発し続けた。
丸屋さんの社会批評の視点は相変わらず鋭い。だが「体力が落ちてね……。遠出ができなくなった」と、最近こぼすこともある。
大正男としては長身の172センチながら、この夏は発熱や体調不良が続き、体重が46キロにまで落ちた。かねて膀胱(ぼうこう)がんや前立腺がんを患い、09年に原爆症と認定された。原爆が落とされた2日後、広島を歩き回った際に巣くった残留放射能が、67年を経て体内で暴れる。自宅で過ごす日が多くなったが、「人生を振り返りながら、少し身辺を整理してみたい」と日々、毅然(きぜん)と机に向かう。
http://mainichi.jp/area/news/20121030ddp041040025000c2.htmlより、
その使命感は今夏、東日本大震災と福島第1原発事故をテーマにした詩集「哀悼と怒り 桜の国の悲しみ」(西田書店、共著)に結実した。1年前には「事象の大きさに詩として昇華できない」と苦悩していた。しかし、1発の原爆で青春を過ごした街を奪われた喪失感が、原発事故で郷里を追われた人々に重なった。17の詩編に悲憤を刻みつけた。それでも後書きにはこう書いた。
「次代への希望を持ち続けることが、放射能という病原からの復活への最強の『免疫力』なのだ」
歴史の記録者として生きてきた老詩人の視線は、人類のあるべき未来を見すえている。<文・宇城昇/写真・竹内紀臣>=つづく
http://mainichi.jp/area/news/20121031ddp012040022000c.htmlより、
ヒバクシャ広島/長崎:’12秋/4 中野陽子さん 語り継ぐ決意、今胸に
毎日新聞 2012年10月31日 西部朝刊
<核兵器の廃絶を documentary report/143>
「生まれてきたら、ようこちゃんと名付けられる女の子です。お母さんのおなかの中にいた8月9日、何が起きたのか、お話したいと思います」
今年8月9日の原爆の日、長崎市の長崎玉成(ぎょくせい)幼稚園で平和教育の集いが開かれた。園児82人が、一人の妊婦と胎内にいる赤ちゃんの絵を見上げ、女性教諭の話にじっと耳を傾けた。
ようこちゃん−−。原爆投下時に母のおなかにいて、半年後に生まれた胎内被爆者の中野陽子さん(66)=福岡県福津市=のことだ。孫の亜衣華ちゃん(4)が通う幼稚園に「被爆体験」を語ってほしいと頼まれたが、「子供たちにうまく伝えられるのか」とためらい、教諭に託して自らは参加しなかった。
中野さんの父は爆心から1キロもない工場で被爆した。焼け焦げた死体、皮膚が焼けただれた人、助けを求めて叫ぶ人であふれ、生き地獄を見た。爆心から3キロの自宅で被爆した身重の母は、迫り来る炎の中を逃げ、父を捜し歩いた。父は原爆症で生死をさまよい、祖父や伯母一家は爆死して遺骨もない。
語り部をしないのですか−−。私は昨年9月に中野さんと出会ってからずっと尋ねてきた。「被爆者として語れる体験がない」。胎児だった自分を「記憶なき被爆者」と言い、気持ちを変えることはなかった。
中野さんの父も被爆体験を語りたがらなかった。「語ったのは10年ほど前に1度だけ。『最初で最後』と言われた。封印しているのに、私が話していいのだろうか」。なぜ父は語らないのか。それだけつらい体験だったゆえと察するが、97歳になる父に今も聞けないでいる。
そんな中野さんの心を大きく動かしたのが、平和教育の様子を収めたビデオを8月下旬に自宅で見たことだった。原爆の話におびえて泣き出す子。教諭が「戦争は相手の心を考えません。けんかをしても『ごめんね』と言える勇気を持ちましょう」と締めると、園児が「けんかはしません」と次々に言い出す姿も映っていた。
http://mainichi.jp/area/news/20121031ddp012040022000c2.htmlより、
「こんな小さな子供たちがまじめに聞いている」。自分の体験が伝わっていると思えた。中野さんには小学校時代、被爆と非被爆の児童を集めた「原爆学級」に在籍し、米国の調査対象になった経験がある。「原爆児童と呼ばれ、何も分からないまま実験台になった」。父から1度だけ聞いた被爆の惨状と、胎内被爆者としての自らの経験を伝えたい−−。何かが吹っ切れたように語った。
広島、長崎の被爆者のうち、語り部として被爆体験を伝えているのは一部に限られる。あの惨状を思い出したくない、差別されるかもしれないなどの思いで口を閉ざす被爆者は多い。「胎児で被爆し、生まれてこられなかった人もいる。母のおなかにしがみついて生まれてきたからには、話さなければいけない義務がある」。時に核の恐怖におびえながら生きてきた中野さんは、67年の歳月を経て決意した。語り継ぐことの重みと使命感を、私は受け止めている。<文・金秀蓮/写真・徳野仁子>=つづく