【日米同盟と原発】第4回「ビキニの灰」

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201212/CK2012122502000198.htmlより、
東京新聞【日米同盟と原発】第4回「ビキニの灰」 (1)第五福竜丸の衝撃
2012年12月25日

 一九五四(昭和二十九)年三月一日、太平洋のビキニ環礁沖で操業中のマグロ漁船「第五福竜丸」が米水爆実験に巻き込まれた「ビキニ事件」。船は大量の放射能を含む「死の灰」を浴びて二十三人の乗組員全員が被ばく。さらに幅広い海域で汚染された魚が見つかるなど、その被害は庶民の食卓にまで及んだ。世論が激しく反発する中、日米両政府は被ばくの恐怖をひた隠し、事態の沈静化を急ぐ。広島、長崎の原爆からわずか九年、再び核の犠牲になった日本。それでもなお原子力開発へ突き進んだのはなぜか。その背景を探った。(文中・表の敬称略、肩書・年齢は当時)

◆西から昇る太陽
 一九五四(昭和二十九)年三月一日、日本の南東三千五百キロ先の太平洋マーシャル諸島沖。その年の一月下旬、静岡県焼津港を出発したマグロ漁船「第五福竜丸」は、メバチマグロなどを狙って操業を続けていた。
 戦後初の原子力予算二億七千五百万円(現在の三十億円相当)を盛り込んだ政府の修正予算案が衆院本会議で可決される三日前だった。
 東経一六六度、北緯一二度。「地上の楽園」といわれ、美しいサンゴ礁の広がるビキニ環礁は百六十キロ西にあった。二〇一〇年、世界遺産に登録されるビキニ環礁は当時、国連の信託統治下。ところが、実質的な支配力を持つ米国は第二次大戦後の一九四六年以降、周辺住民を移住させ、原爆などの核実験場にしていた。
 第五福竜丸が出港する三カ月ほど前の五三年十月、米海軍はビキニ環礁の周辺海域を危険区域に指定し、日本政府に伝えた。公式発表はないが、近く核実験を行うという事実上の通告だった。第五福竜丸も海上保安庁を通じてこの情報を入手していた。念のため操業地点を警戒区域の境界から三十キロ沖合に離し、万一に備えていた。
 第五福竜丸の乗組員は二十三人。十~三十代の若い男たちばかりだった。生存者の一人で現在八十五歳の見崎進は当時、二十七歳の操舵(そうだ)手。見崎によると、船はその日午前四時から漆黒の海へはえ縄を投げ入れ、漁を始めた。「波は穏やかで、見上げると空いっぱいに星が輝いていた」
 船に異変が起きたのは三時間余り後、大海原に薄日が差し始めたころだった。甲板で朝飯を済ませ、船首へ向かって歩いていた見崎は左手に目もくらむような強烈な光をみる。「昼間のようにパッと明るくなった」
 その十分後。海底がせり上がるように「ゴゴゴゴー」という地鳴りを上げ、それまでなぎだった海面が波打ち始めた。西の空から不気味な入道雲が船に迫り、船内は騒然となった。
 このころ、現在八十歳の池田正穂は甲板下の機関室で機械を点検中だった。当時二十一歳。若い操機手だった。
 池田は「上の方で先輩らが『太陽が昇ったぞ』『バカ野郎、西から上がるか』などと言い争っている声が聞こえた」と証言。「早く逃げろ」という怒声で、慌ててエンジンのスイッチを入れたのを記憶している。
 午前十時ごろ、池田が外気を吸いに甲板へ上がると、まるで銀世界だった。が、気温二六度の太平洋上で、雪なぞ降るわけがない。得体(えたい)の知れない白い粉が甲板に一センチも積もり、歩くと長靴の跡がくっきり残った。
 見崎は閃光後も甲板に残っていた。長袖を着ていたが、露出した頭や首筋、手などに白い粉を直接浴びた。二、三日後、首の後ろが激痛に襲われ、手の甲に水膨れができた。腹痛と下痢が続き、帰港間近には髪の毛も抜けた。「普通じゃねえ」と思った。
 他の乗組員も似たような症状を訴えた。誰もが白い粉のせいと思ったが、怖くて口に出せなかったという。
 強烈な光、地鳴り、白い粉…。すべては米国がこの日、ビキニ環礁で実施した水爆実験が原因だった。
 白い粉は爆発で上空に吹き飛んだサンゴの残骸。大量の放射能を含んだ「死の灰」だった。米国が指定した危険区域をはるかに越えて百六十キロ先の第五福竜丸にまで降り注ぎ、乗組員全員が被ばくした。
 米国は軍事機密を理由に水爆実験を公表しなかったが、最年長の無線長、久保山愛吉(39)は気づいていた。船の異変を無線で知らせれば、傍受した米軍に拿捕(だほ)されると思い沈黙を通した。
 「船がドカンと受けたのを米国に知られたら連行される」。操機手の池田は、久保山が漏らしたひと言を今も覚えている。
 三月十四日、第五福竜丸は焼津港に戻った。その二日後、新聞報道をきっかけにビキニ事件が明らかになり、国民を震撼(しんかん)させる。戦後日本が平和利用の名の下に原子力開発への一歩を踏み出す時期とまさに重なっていた。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201212/CK2012122502000199.htmlより、
第4回「ビキニの灰」 (2)俺たちで終わりに
2012年12月25日

◆久保山の「遺言」
 「邦人漁夫、ビキニで原爆被害?」「降灰の放射能受けて」「危険を知らぬ船員たち」-。中部日本新聞(現・中日新聞)は一九五四(昭和二十九)年三月十六日付の朝刊社会面トップで、第五福竜丸の被ばくを大々的に報じた。
 二日前の十四日、静岡県焼津市へ戻った乗組員二十三人はその日のうちに、市内の協立焼津病院(現・焼津市立総合病院)で診察を受けた。このうち、重傷と診断された機関長の山本忠司(27)と甲板員の増田三次郎(27)の二人は東京大学付属病院へ送られ、残り二十一人も焼津病院に入院した。いずれも「急性放射能症」と診断された。
 航海中、船内の異変を外部に漏らさなかった最年長の無線長、久保山愛吉(39)は焼津病院に入院した二十一人の一人。帰港直後の十四日午前、久保山は妻すず(32)の実弟で現在八十六歳の椿原(ちんばら)松男と会い、真相を打ち明けた。「原爆らしきものを見た。キノコ雲もすごいもんだ」
 椿原は「真っ黒い顔をしていた。みんなで晩飯を食おうと約束していたのに…」と振り返る。
 新聞がビキニ事件を報じた翌十七日、米国はようやくビキニ環礁の水爆実験を認める。厚生省(現・厚生労働省)は、焼津病院に東大医学部の医師ら八人からなる調査団を派遣。米国も放射線の専門医師や研究者ら十四人が現地に入った。
 久保山ら二十一人は焼津病院から約十日後、放射能に侵された骨髄組織の治療を受けるため医療設備の整った東大病院と東京第一病院(現・国立国際医療研究センター)へ移った。移送は在日米軍がチャーターした軍用機だった。
 東京第一病院で、久保山を当時診察した医師、熊取敏之(32)らが五五年に「ビキニ放射能症の臨床並に血液学的観察」をまとめている。
 それによると、久保山の被ばく線量は少なくとも五シーベルト。一般の人が一年間に浴びる許容線量一ミリシーベルトの五千倍で、即死しかねない量だった。
 操舵(そうだ)手で、現在八十五歳の見崎進(27)は久保山と同室で、ベッドが隣だった。「八月下旬になると、症状が悪化した久保山さんは奥さんや母親が見舞いに来ても手で振り払い、部屋で暴れていた。『ああ、死ぬのか』『次は俺の番だ』と思って怖くなった」と振り返る。
 その久保山は九月二十三日、息を引き取った。死因は急性放射能症と肝炎による多臓器不全だった。
 地元・焼津市の郷土史家が九三年に発行した著書「死の灰を越えて」は、生前の妻すずが久保山から聞いた最後の言葉を紹介している。
 「原水爆の被害者は俺たちだけでたくさんだ。俺たちで終わりにしてもらいたい」
 乗組員二十三人のうち、現在までに死亡が確認されたのは久保山を含め十五人。そのうち、ほぼ半分の七人が肝臓がんなどで六十歳の還暦を前に亡くなった。八人いる生存者も今なお被ばくの恐怖や後遺症に苦しんでいる。
 操機手だった現在八十歳の池田正穂は退院後、近所の人たちから「放射能がうつる」などと避けられた。偏見から逃れようと漁師を辞め、京都の染め物会社やトラック運転手など住まいや職を転々とした。ビキニの灰で黒ずんだ手の甲をさすりながら「六十年たっても放射能は得体(えたい)が知れん」と漏らす。
 当時冷凍士で、現在七十八歳の大石又七。昨年三月の福島第一原発事故以降、全国各地を回り、自らの被ばく体験を元に放射能や原発の危険性などについて訴えている。
 大石は「放射能の影響を過小評価している点ではビキニも福島も同じ」。肝臓がんを患った経験から「被ばくの本当の怖さは症状が後から出てくること。福島の人たちも長期にわたって影響が出ることも考えられ、国はしっかり調査を続けるべきだ」と話す。
 放射能の恐ろしさをまざまざと見せつけたビキニ事件。その影響は他の漁業者や庶民の食卓にまで飛び火する。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201212/CK2012122502000200.htmlより、
第4回「ビキニの灰」 (3)食卓から魚が消えた
2012年12月25日

◆被ばく 迫る恐怖
 ビキニ事件が新聞報道で伝えられた翌日の一九五四(昭和二十九)年三月十七日、東京の築地市場では競り値が暴落した。「東京都中央卸売市場史」によると、十七日朝の取引は産地にかかわらずマグロが半値、近海のヒラメや干物の価格まで値を下げた。
 第五福竜丸が水揚げしたメバチマグロやキハダマグロから高濃度の放射能が検出され、他の魚介類全体も敬遠された。
 厚生省(現・厚生労働省)は翌十八日、「入荷する鮮魚は食用として不安がない」との大臣声明を発表。しかし、値崩れは止まらず、築地市場は十九日、競りの中止に追い込まれた。市場がこうむった被害総額は一カ月間で当時の額で一億八千万円(現在の十九億円相当)に達した。
 「原子マグロ」の言葉に代表される風評被害で、全国あちこちの鮮魚店やすし店は休業に追い込まれ、庶民の食卓から刺し身や焼き魚が消えた。
 ビキニ事件の発覚から半月ほどたった五四年四月二日。築地市場で開かれた「買出人水爆対策市場大会」で、東京都内の鮮魚店主ら五百人が怒りの声を上げた。
 米国は第五福竜丸の被ばく後もビキニ環礁で水爆実験を行い、今後も続行する方針だった。会場で「魚屋殺すにゃ三日はいらぬ ビキニ灰降りゃお陀仏(だぶつ)だ」と書いたビラを配り、政府や米大使館に原水爆禁止を求める署名活動を始めた。
 集会を呼び掛けたのは東京・杉並区の鮮魚店「魚健」の主人、菅原健一(48)。菅原の六女で、現在七十歳の竹内ひで子は当時小学六年生。「父が『もう日本の海を汚されるのはごめん。おまえたちの誰も核戦争に巻き込みたくない』と口癖のように話していた」と振り返る。
 戦時中、広島、長崎の原爆で世界唯一の被爆国となり、核の恐怖を身をもって体験した日本。しかし、広島、長崎の被害が爆心地を中心とする限られた地域だったのに対し、ビキニ事件がクローズアップしたのは「海→魚介類→人体」の食物連鎖を通じて誰もが被ばくするという放射能汚染の深刻さだった。
 政府が五月から実施した調査船「俊鶻(しゅんこつ)丸」の測定で、汚染範囲が幅広い海域に及んでいたことも拍車をかけた。四方を海に囲まれ、日常的に魚を食べる日本人にとり、核実験による海洋汚染は見過ごせない問題となった。
 菅原らの訴えに真っ先に反応したのは、同じ杉並区に住む女性たちだった。子どもの命を守ろうと、母親や若い女性らが駅前や大通りに机を並べて署名集めに協力した。
 戦後間もない当時、女性らの街頭活動は珍しかった。彼女らがガリ版で作った手書きのビラに、活動の様子がつづられている。
 「足が疲れて交番で休ませていただいていると、お巡りさんも快く署名された」「戸別訪問で『署名で水爆はなくならないでしょう』と話す奥さんを説得したら、家族七人全員が署名してくれた」
 杉並の運動は当時、普及台数一千万台を超えたラジオや前年二月に放送を始めたテレビなどのニュースを通じて全国に広まり、八月には「原水爆禁止署名運動全国協議会」が発足。会には日本人初のノーベル賞を受賞した物理学者、湯川秀樹(47)も参加した。
 第五福竜丸の無線長久保山愛吉の死去からおよそ二週間後の十月五日、署名は被爆地の広島、長崎などを含め全国千二百万人に上った。翌五五年八月に広島で開く第一回原水爆禁止世界大会までには人口の三分の一に相当する約三千万人の署名が集まった。
 米ワシントンの国立公文書館には一連の運動を報じた日本の新聞記事の英訳文が所蔵されている。米陸軍情報部が当時、在日米大使館を通じて収集したものだった。米国は日本の反核運動が反米運動につながることを恐れていた。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201212/CK2012122502000201.htmlより、
第4回「ビキニの灰」 (4)「原因はサンゴの粉じん」
2012年12月25日

◆沈静化急ぐ米国
 ビキニ事件をきっかけに戦後最大規模の市民運動に発展した反核運動。ところが、米国は自らの非を認めず、真相解明を求める日本側に十分な情報提供をしなかった。
 事件発覚から半月ほどたった一九五四(昭和二十九)年三月三十一日。米大統領アイゼンハワー(63)の記者会見に同席した米核政策の責任者、原子力委員会(AEC)の委員長ルイス・ストローズ(58)は「日本の漁船は明らかに(米軍が事前に通告した)危険区域内にいた」と述べ、むしろ第五福竜丸のせいと決めつけた。
 米国とソ連の核競争がエスカレートしていた冷戦下、ストローズらは第五福竜丸の被害より、ソ連に最新鋭の水爆技術が流出する方を心配した。事件直後、ストローズは極秘で乗組員らの身辺調査を米中央情報局(CIA)に依頼していた。
 広島市立大の高橋博子講師を通じ、本紙が入手した五四年四月二十九日付のCIA極秘文書には、ストローズの疑問に対する受け答えが記されていた。
 Q・共産主義の宣伝に利用する計画だったか?
 A・事前計画を示す行動はない。
 Q・帰港前にソ連船と接触したか?
 A・スパイ活動の証拠はない。
 Q・治療をしている医師は政治的に疑わしいか?
 A・日本の外務省も調べているが、報告は受けていない。

 米国は、反共の砦(とりで)、日本で起きた反核のうねりが反米や左翼運動に発展することを懸念した。
 アイゼンハワー大統領図書館に、国家安全保障会議(NSC)の作戦調整委員会が四月二十四日にまとめた「好ましくない日本人の態度を正すための活動リスト」が保管されている。
 そこには「核兵器への誤った考えを根絶するため、冊子や映画で宣伝する」「患者の症状は、放射能ではなくサンゴの粉じんが原因ということにする」-など、ビキニ事件の沈静化に向けた二十項目に及ぶ対日工作が列挙されていた。
 その四カ月後に開かれた八月十二日のNSC議事録によると、この会議で、米国は他国へ原子炉導入を働きかけることを決め、その有力候補として「決定的に資源が不足し、エネルギー消費が多い」日本を挙げていた。
 国連総会で「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」と呼ばれる演説を行った大統領アイゼンハワー。平和利用を目的に国際社会へ米国の核技術を提供するとの趣旨だったが、反核運動を封じ込める対日戦略にも利用していた。
 翌九月、ニュージャージー州で開かれた製鋼労働者組合の大会。出席したAEC委員のトーマス・マレーは「日本に原発を建設することは、悲惨な記憶を一掃させることになる」とあいさつした。
 第五福竜丸の無線長、久保山愛吉が亡くなるわずか二日前。この発言から四カ月後の五五年一月、米国は日本に原発の燃料となる米国産濃縮ウランの提供を打診している。
 反核運動が激しさを増した五四年十月、米国はようやく日本政府に最大二百万ドル(七億二千万円)を支払うことを申し出た。事件の犠牲者に対する補償金ではなく見舞金。責任を棚上げし、世論を鎮めるのが狙いだった。年が明けた五五年一月、駐日米大使ジョン・アリソン(49)が外相重光葵(67)にあてた書簡にはこうある。
 「二百万ドルの金額を受諾するときは、日本国並びにその国民および法人が原子核実験から生じた身体又は財産上のすべての傷害、損失または損害について米国またはその機関、国民もしくは法人に対して有するすべての請求に対する完全な解決として、受諾するものと了解する」
 米核戦略を総括するAECが久保山の死因に関する見解を示したのは事件から一年以上すぎてから。それでもなお米国は自らの非を認めていない。
 AEC生物医学部長ジョン・ビューワーが五五年四月六日付で記した内部メモは、こう記されていた。「久保山は被ばくしたが、死亡時に内部被ばくの損傷はなかった。感染性の肝炎が死因とみられ、肝炎がなければ彼は生きていただろう」

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201212/CK2012122502000202.htmlより、
第4回「ビキニの灰」 (5)「平和利用」の大義
2012年12月25日

◆動きだす産官学
 広島、長崎に続いて三度、核の犠牲になった日本。ところが、その悲劇はかえって、原子力の平和利用を勢いづかせた。
 ビキニ事件が明るみに出た半月後の一九五四(昭和二十九)年四月一日、衆院は「原子兵器の使用禁止」などを求める緊急決議案を全会一致で可決。しかし、決議には「原子力の国際管理とその平和的利用を促進する」などの文言もあった。
 議員を代表して提案理由を説明したのは、須磨弥吉郎(61)。前月に戦後初の原子力予算を議員提案したばかりの中曽根康弘(35)と同じ改進党だった。
 国会会議録によると、須磨は「二度ならず三度までも原子兵器の惨害を受けた日本は最大の発言力を有する」とした上で「この動力を平和産業に振り向けることができるなら、世界が原子生産力による第二産業革命ともいうべき新時代を開拓し、本当の意味の平和を樹立できる」と述べた。
 第五福竜丸の地元、静岡県焼津市もそう。衆院決議の五日前、市議会は、まるで国の動きを先取りするように原子力の平和的利用を盛り込んだ決議案を可決していた。
 一方の科学者。「科学者の国会」と呼ばれる日本学術会議はこの時期、中曽根らの原子力予算を「時期尚早」と、反発していた。
 五四年四月二十三日の総会で発表した声明文は「今日の国際情勢は人類の平和と幸福に貢献するという確信をもってこのエネルギー源の研究を進められるにはほど遠い」としながらも、原子力開発の条件に「公開、民主、自主」を掲げた。
 これは後に平和利用三原則として、現在に至る日本の原子力政策の基本となる。学術会議は、原子力そのものを否定したわけではなかった。
 第五福竜丸の無線長、久保山愛吉の死去から約二カ月後の五四年十一月十五日、東京で開かれた「放射性物質の影響と利用に関する日米会議」。
 米国側からは原子力委員会(AEC)の専門家七人が出席。表向きはビキニ事件で高まった人体や食品の放射能汚染に関する意見交換が目的だったが、日本側にとっては原子力開発に向けた被ばく管理や対策などの情報収集の狙いもあった。
 会議が開かれる一カ月前、通商産業相(現・経済産業相)の愛知揆一(47)と自由党の参院議員宮沢喜一(35)が極秘に訪米。米政府から原発に関する文献や資料などの提供を受けていた。宮沢は後に首相に上りつめる。
 日米会議の資料によると、AECの生物物理課長ワルター・クラウスは、国立衛生試験所や気象研究所の研究者、大学教授ら日本の専門家を前に「数カ月間、放射能に汚染された魚を一匹食べたところで、人体に悪影響はない」と発言した。
 会議から一カ月半後の五四年十二月三十一日。厚生省(現・厚生労働省)はビキニ事件を機に続けていた南方沖で水揚げされたマグロの放射能検査を突然打ち切った。各都道府県に通知した文書には「人体に対する危険を及ぼす恐れがまったくないことが確認された」と記してあった。政府による事実上の事件の幕引きだった。
 その一週間前の十二月二十五日のクリスマス。原子力予算を使った海外調査団が欧米に向け羽田空港を飛び立った。メンバーは通産官僚や大学教授、後に原子炉を手掛ける日立製作所などの重電メーカー幹部ら産官学の十四人だった。
 日本を震撼(しんかん)させたビキニ事件。ところが、原水爆に反対する世論のうねりは皮肉にも原子力の平和利用へ口実を与えることになった。それこそ反核、反米運動を鎮めるため日本へ原子力技術を提供する米国が描くシナリオに沿うものだった。
 日米の思惑が重なり、日本の原子力開発に向けた歯車は大きく動きだす。その中心的役割を担ったのは読売新聞社主で、後に初代の原子力委員長に就任する正力松太郎(69)だった。
     ◇
 この特集は社会部原発取材班の寺本政司、北島忠輔、谷悠己、安福晋一郎が担当しました。シリーズ「日米同盟と原発」第5回は来年1月末に掲載予定です。

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