ナガサキ平和リレー:被爆体験者の「病苦」「事実」

http://mainichi.jp/area/nagasaki/news/20130109ddlk42070450000c.htmlより、
ナガサキ平和リレー:/204 被爆体験者60人、控訴審裁判長へ「病苦」「事実」つづる手紙/長崎
毎日新聞 2013年01月09日 地方版

 「原爆が落とされた時、放射性降下物が降った区域にいて、呼吸し、暮らしていたという事実が一番重要では」。長崎原爆の被爆体験者、木下紀子さん(71)=諫早市=は昨秋、被爆者健康手帳の交付を求めて控訴した福岡高裁の裁判長宛てに、手紙をつづった。昨年6月の長崎地裁判決は、木下さんら原告395人の訴えを全面的に退けた。「この苦しみを分かってほしい」。文面からは、原告の激しい怒りや無念が浮かび上がる。

 木下さんは便箋8枚に思いをぶつけた。4歳の時、爆心の北東約10キロの旧伊木力村(現諫早市)で原爆に遭った。友人と遊んでいると突然、近所の女性が木下さんを守ろうと覆いかぶさってきた。膝を打った痛さで泣いた。爆心近くで被爆した3人のいとこが避難してきた。寝食をともにして遊んでいたが、ある日、父から3人の部屋に入らないように言われた。障子の破れ目からのぞくと、3人とも髪が抜けていた。そして全員が間もなく亡くなった。

 後になって近所の人から「原爆が落ちた後に燃えかすが降ってきた」と聞かされた。実家はミカン農家で、当時は山水を引いて飲んでいた。

 裁判長への手紙は一気に書き上げた。「放射性降下物に汚染された空気を吸い、汚染された水を飲み、汚染された田畑の作物を食べて生きてきたということでは(被爆者と認められるための)『証明』には不十分なのでしょうか」と訴えた。

 同じ諫早市の原告、橋本ユミ子さん(77)は、自分や家族の病苦をつづった。「以前から家族が寄るといつも『私たちのがんは原爆のせいよね』と話しておりました。(1審の)敗訴は残念で悔しくてなりません」

 橋本さんは10歳の時、爆心の北東約9・7キロの旧古賀村(現長崎市)で原爆の光と爆風を受けた。その直後、空に赤く光る太陽を見て、近所の人が「火の玉、火の玉」と叫びながら逃げてきた。サトイモの葉には字が書けるほど灰が降り、それらの作物を食べた。

 35歳の頃に甲状腺肥大になり、70歳で尿管がんの手術を受けた。1人の姉は肺がんで死亡。別の姉と2人の妹は乳がんなどで手術を受けた。臨床検査技師として定年まで病院に勤務した橋本さんは「内部被ばくの問題を取り合ってもらえないのは悔しい」と語る。

 手紙は、弁護団の呼びかけでこれまでに原告約60人が書いた。弁護団は控訴審に提出する方針だ。【樋口岳大】

「ナガサキ平和リレー」は毎月9日に掲載します
〔長崎版〕

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