苛めと体罰は同根だ 小林節氏
http://www.nnn.co.jp/rondan/ryoudan/index.htmlより、
一刀両断 -小林 節-
苛めと体罰は同根だ
日本海新聞 2013/1/15の紙面より
大阪市桜宮高校生の自殺の報に接し、心が痛い。
本人は、あのまま体罰を受け続けることは地獄で、なのに誰も助けてくれず、かといって逃げ道はなく、自死を考えた際にも地獄の恐怖を味わったことだろう。
しかし、このところ、苛めに堪え兼ねて遺書を残して自殺した者が、結果として「復讐(ふくしゅう)」を果たした事例が報道されているが、あの高校生もその事実は承知していたであろう。
この自殺は、生命を懸けた告発である。
体罰に追い詰められた自殺と苛(いじ)めに追い詰められた自殺は、そのメカニズム・本質は同じであり、責任の所在も同じであろう。
まず、人間には力の差があり、人間は不完全で感情に支配され易(やす)い存在であるので、学校という社会の中にも苛めや体罰は必ずある…という前提で考えていなければならない。そして、その本質は特定の個人の人格の否定(人権侵害)である以上、学校という組織の中で別格首位の権限を持つ校長が、初期に果敢に介入して解決していなければならないし、本来、それは出来るはずである。しかし、今回の場合も、それが行われた形跡がない。
もちろん、伝統的に、チーム力を強化するためには「ある程度の」体罰は仕方ない…という考え方は根強い。しかし、今回の事例は、今、明らかになった事実を知れば傷害罪(刑事事件)以外の何ものでもない。そして、日本人の大人なら、誰でも、自らの学校生活を思い返してみれば、似たような事例を思い出せるのではなかろうか。そして、それらはたまたま運が良く事件にならずに済んだのであろう。
こういう事件が発生すると学校は、多くの場合、疑義が生じた際に「加害者」に問うたが事実を否定したので事実は存在しないと思った…という言い訳をする。しかし、余りに稚拙である。
このような言い訳が罷(まか)り通る背景として、教員の中から登用された校長はいわば昨日まで教員たちの同僚で労組の仲間であったという事実がある種の馴れ合いを生んでいるのではなかろうか。
今後は、校長は教員以外から登用することも、ひとつの方策であろう。また、校長にならずに専門職としての教員として定年まで勤める意向の者の他は、一定期間、他の世界を経験させてから教頭、校長に登用するなどの、制度改革も必要ではなかろうか。
(慶大教授・弁護士)