名誉毀損 警視庁敗訴「当時の幹部に求償せよ」

http://www.nikkei.com/article/DGXDZO50715240Y3A110C1EA1000/より、
日経新聞 社説 無罪推定軽んじた警視庁の愚
2013/1/18付

 刑事事件として立証できなくとも、社会の安全や公益のためであれば捜査結果を公表し、犯人を名指ししても構わない。このような警察の考え方について、裁判所が「重大な違法性がある」と、強い警告を発した。
 1995年、当時の警察庁長官が何者かに銃で撃たれた。捜査は難航し、2010年3月に時効が成立。ところが警視庁は記者会見で「オウム真理教の信者グループによる組織的テロだった」と発表し、ホームページにも掲載した。これに対し、同教団から改称した「アレフ」が、名誉を傷つけられたとして提訴していた。
 東京地裁は判決でアレフの訴えを認め、警視庁の対応を「無罪推定の原則に反する」「刑事司法制度の基本原則を根底から揺るがす」と厳しく批判した。
 当然の判断といえよう。法と証拠に基づいて行動すべき捜査機関が、法廷で立証できない事件を法によらず「起訴」し、裁判を経ずに「判決」を下すようなことは許されない。ルールからの逸脱といわざるをえず、警視庁は判決を重く受け止める必要がある。
 この事件では初動捜査につまずき、捜査方針が転変し、検察も不起訴処分にした。迷走の末に頓挫した捜査である。刑事司法の枠組みの中では起訴できなければ成果はゼロであり、捜査機関は結果をただ受け止めるしかない。
 警察は「オウム真理教の教義を広めようとしている」などとして、アレフの動向を警戒している。団体規制法にもとづく観察処分も続いている。そうした団体に裁判に訴えられて負け、賠償と謝罪文の提出を命じられた。このこと自体が、警察にとって有形無形のダメージとなる。
 「捜査結果の公表が事件の風化を防ぎ、社会の安全に役立つ」という意図は分からなくはない。だが社会の安全は、地道な事件の解決や規律正しい警察の職務執行を通して初めて実現されることではないだろうか。捜査結果の公表と、敗訴で失ったものは大きい。

http://www.asahi.com/paper/editorial.html#Edit2より、
朝日新聞 社説 2013年1月17日(木)付
警視庁敗訴―当時の幹部に求償せよ

 恥の上塗りというほかない。
 オウム真理教の流れをくむ宗教団体「アレフ」がおこした裁判で、警視庁が敗訴した。
 国松孝次・警察庁長官銃撃事件の時効が成立した直後の2010年3月、警視庁公安部長が会見し、「オウムが敢行した組織的テロだった」と公表するなどしたことが、アレフの名誉を傷つけたと判断された。
 東京地裁は、所管する東京都に対し、賠償金100万円を教団に支払うことと、知事名の謝罪文を差し出すことを命じた。
 警視庁の完敗である。
 私たちは会見当時の社説で、警察のやり方を批判した。膨大な人手と費用、時間をかけながら犯人を検挙できなかったのに、失敗を棚にあげ、オウムの犯行と断じたのだ。
 こんな理不尽な行動がゆるされるようでは法治国家といえない。公権力が違法行為に進んで手を染めてどうするのか。
 判決理由にも「無罪推定の原則に反する」「わが国の刑事司法制度の基本原則を根底からゆるがす」といった、厳しく、かつ当然の言葉がならぶ。
 裁判で警視庁がくり広げた主張にもあきれてしまう。
 「仮にオウムの名誉を傷つけたとしても、アレフは別の団体なので賠償を求めることはできない」と反論したのだ。
 ではなぜアレフは、「オウム真理教の教義を広め、その実現を目的とする団体」として、法律にもとづく観察処分をいまも受けているのか。
 治安をあずかる機関がこんな支離滅裂なことを言う。信頼を著しくおとしめる行いである。
 一部の警察官の不祥事とはレベルが違う。捜査を主導した公安警察の失態を覆いかくし、組織の体面をただ守るための会見だったのは明らかだ。
 かつて強調した「公表することの公益性」を、法廷で主張できなかったのも、説得力に欠ける言い分であることを自ら認めたからではないか。
 判決を受けいれ、これ以上恥を重ねるのを避けるべきだ。
 賠償金は東京都、つまり都民の税金から支出される。国家賠償法は、被害者がたしかに救済されるよう、責任は自治体が負うと定めているためだ。
 一方で、「公務員に故意や重大な過失があったとき、自治体はその公務員に対して求償できる」との条文もある。
 今回の公表行為は、まさにこの規定にあてはまるだろう。
 当時の警視庁幹部に支払いを求め、しっかりけじめをつける必要がある。都民に尻ぬぐいさせるのはおかしい。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013011702000135.htmlより、
東京新聞【社説】警察の違法発表 司法の無視に痛憤する
2013年1月17日

 警視庁の発表が裁判で「名誉毀損(きそん)にあたる」と判断された。犯人が不明なのに、警察庁長官銃撃事件を「オウム真理教の組織的な犯行」と公表したからだ。司法手続きを無視する行為は言語道断だ。
 警察の役目とは何か。犯罪があれば、捜査し、犯人を検挙する。検察官が起訴すれば、裁判で有罪か無罪が決まる。当たり前の刑事司法の手続きが無視されたとしか言いようがない。判決はそれを痛憤しているように読める。
 一九九五年三月末に起きた、当時の国松孝次警察庁長官が銃撃され、重傷を負った事件だ。警視庁は当初から、オウム真理教に目を付け、捜査を続けてきた。
 二〇〇四年に「実行犯不詳」で、信者ら四人を殺人未遂容疑などで逮捕したものの、東京地検は嫌疑不十分で不起訴処分とした。起訴するに足る証拠がなかったからだ。この段階で、予断を排して捜査をやり直すべきだった。
 だが、公訴時効が成立した一〇年三月末に警視庁幹部が記者会見で「オウム真理教の信者グループが組織的、計画的に敢行したテロ」と発表した。捜査結果の概要も、ホームページに掲載した。
 証拠がないのに、なぜそんな発表をしたのだろうか。教団主流派の「アレフ」は、名誉を傷つけられたとして、東京都などを訴えた。東京地裁は「公表は重大な違法性がある」と認めた。「無罪推定の原則に反するばかりでなく、刑事司法制度の基本原則を根底から揺るがす」とも厳しい批判を加えた。当然の帰結であろう。
 警視庁は司法の原理原則から、大きく逸脱したのだ。それが作為的だったのは当時、「教団のテロ再発防止のため、捜査結果を国民に知らせるのは公益性がある」と説明したことからも明らかだ。
 この裁判の過程でも、公表内容が真実だったかどうかは、警視庁側が主張せず、争点にならなかった。「オウム真理教とアレフは法的に同一でない」という理屈だけで、責任を免れようとした。自らが、後継団体と認定していながら、である。警視庁にとって、必要なのは、むしろ失敗した捜査の検証ではないか。
 司法手続きを飛び越えて、警察が恣意(しい)的かつ独断的な発表をすれば、裁判にかけずとも、“犯罪人”はつくりあげられる。
 警察は法の執行機関である。それゆえ、真実の追求に真摯(しんし)でなければならない。自己弁護の発表が、信頼を失わせたのである。

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