【日米同盟と原発】第5回「毒をもって毒を制す」

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201301/CK2013012302000235.htmlより、【日米同盟と原発】第5回「毒をもって毒を制す」(1)マスコミを取り込め
東京新聞 2013年1月23日

 1955(昭和30)年、戦後日本の原子力開発は大きく動きだす。米国産濃縮ウラン受け入れの閣議決定、日米原子力協定の締結、原子力基本法の制定…。この年、現在に続く原子力政策の原型がほぼ固まり、翌56年、ついに英国から技術導入する日本初の発電用原子炉、東海原発(茨城県東海村)の建設が事実上決まる。ビキニ事件後の反核世論が一転、原発へ傾いた背景として、日本のマスコミを巻き込んだ米国の原子力平和利用キャンペーンと、政界入りした読売新聞社主の正力松太郎(1885~1969年)の存在は見逃せない。「原発の父」と呼ばれる正力、米国、マスコミの動きなどから、原発建設に至る経緯を探った。(敬称略、年齢は当時)

◆すし店での密会
 一九五四(昭和二十九)年三月の「ビキニ事件」から半年以上はたっていた。国鉄新橋駅に近い東京・銀座のすし店で、後に日本テレビ専務となる柴田秀利(37)は、旧知の米国人男性と席を並べていた。
 ビキニ事件の記憶がまだ生々しく、世間の関心は「原爆マグロ」など魚介類の放射能汚染に向けられていた。ところが、二人はそんな風潮を気にせず、トロを肴(さかな)に杯を重ね「わさびなくして、すしなし」「いや、タバスコに勝る辛みなし」などと、冗談を言い合った。
 柴田が日テレ退社後に記した自著「戦後マスコミ回遊記」(八五年発刊)によると、この米国人は知人を通じての知り合い。自らを「ワトソン」と名乗り、柴田が米中央情報局(CIA)職員かと尋ねたところ「違う、僕は米国務省の人間である」と答えていた。
 たわいもない「わさび・タバスコ論争」が一段落した後、ワトソンはビキニ事件後の日本の反核世論に懸念を漏らす。「何か妙案はないか、考えてくれ」と水を向けると、柴田はこう応じた。
 「日本には『毒をもって毒を制す』ということわざがある。原爆反対をつぶすには原子力の平和利用を大々的にうたい上げるしかない」
 回遊記によると、ワトソンはこの助言に感激。「よろしい、それでいこう」と話し、柴田をぎゅっと抱きしめたという。
 米ソ冷戦当時、米アイゼンハワー政権は「反共の砦(とりで)」日本の反核世論が反米運動や左翼運動につながることを警戒。この世論沈静化を対日戦略の要と考えていた。
 CIA説を否定したワトソン。しかし、首都ワシントンの米国立公文書館に保管されているCIAの五四年十二月三十一日付の機密文書には「柴田は自分がやりとりしている相手がCIAだとは知らない」との記述がある。ワトソンがCIAかどうかは不明だが、いずれにせよ柴田の言動は米諜報(ちょうほう)機関からマークされていた。
 当時、新興テレビ局の関係者にすぎなかった柴田。その柴田に米国はなぜ注目したのか。
 柴田は愛知県瀬戸市生まれ。実家は瀬戸物の販売業を営んでいた。少年時代、近所の英国人牧師から英語を学んだ。読売新聞に入り、得意の英語を生かして連合国軍総司令部(GHQ)の取材担当記者を務めた。
 その柴田の名が一躍有名になったのは四六年の読売争議。経営側についた柴田は、左傾化する社内勢力を抑え込む立役者となった。この際、取材で知り合ったGHQや時の首相、吉田茂(68)の力を借りたとされる。
 その七年後の五三年、読売は民放初の日テレを開局する。柴田はこの時も、渡米してテレビ技術を導入するなど中心的な役割を果たした。反共精神と米国に幅広い人脈。柴田は社主の正力松太郎(68)から絶大な信頼を得るようになっていた。
 日テレで柴田の秘書を務めた現在七十歳の飯沼不二子。「正力さんは会社に着くなり『柴田を呼べ』と言うのが口癖でした。他の重役も参加する御前会議が終わると、二人だけで部屋にこもることも多かった」と話す。
 日本の世論形成に影響力を持つ新聞、テレビのオーナー、正力とその懐刀の柴田。ビキニ事件の対応で手をこまねいていた米国が見逃すはずがなかった。当時、米政権中枢に提出した米CIA極秘文書には「大手日刊紙とつながりを持つため正力と柴田を取り込むべきだ」との助言が盛り込まれていた。
 柴田がワトソンに「毒をもって毒を制す」と語った、あのすし店の密会があった翌年の五五年元日。読売新聞は朝刊一面で、世界初の原子力潜水艦「ノーチラス号」を建造したゼネラルダイナミックス(GD)社長ジョン・ホプキンス(61)率いる米原子力平和利用使節団を招聘(しょうへい)する、と報じた。
 GD側との交渉をまとめたのは、やはり柴田。掲載前日の大みそか、柴田が仲介役の米実業家に送った手紙のコピーが残っている。英文タイプで書かれたその手紙には、お礼とともに「共産主義者の反米運動は激化している。何も手を打たなければ中国やソ連の攻勢を許してしまう」と記されていた。
 使節団は民間交流だった。が、後に公開された米公文書で、CIAや米原子力委員会(AEC)など米政権も関与していたことが判明している。
 使節団招聘の記事からほぼ二カ月。五五年二月二十七日投開票の総選挙に、柴田が仕える正力は無所属で富山2区から初出馬する。政界入りを目指し、掲げた公約は「原子力の平和利用」だった。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201301/CK2013012302000234.htmlより、第5回「毒をもって毒を制す」(2)平和利用で「ばら色」
2013年1月23日

◆博覧会に260万人
 読売新聞が招聘(しょうへい)した米原子力平和利用使節団の講演会は一九五五(昭和三十)年五月十三日、東京・日比谷公会堂で開かれた。
 使節団にはノーベル賞を受賞した米物理学者アーネスト・ローレンス(53)も参加。柴田秀利が米ゼネラルダイナミックス(GD)側に「著名な科学者を帯同させてほしい」と伝えたことを米中央情報局(CIA)の情報で知った米政府の配慮だった。
 二千六百人収容の公会堂は超満員で、玄関前には大勢の人だかりができた。講演会を生中継したのは日本テレビ。当時、力道山の試合などプロレス中継で人気を集めていた街頭テレビを急きょ設置する盛況ぶりだった。
 米国が「毒をもって毒を制す」と仕掛けた原子力の平和利用キャンペーン。それに応じたマスコミは読売だけではない。五五年十一月、東京・日比谷公園を皮切りに五七年八月まで全国の主要都市十カ所を巡回する「原子力平和利用博覧会」。国務省が在日米大使館に置く文化交流局(USIS)との共催に名を連ねたのは、各地の地元紙や有力紙だった。
 東京は読売、名古屋は中部日本新聞(現・中日新聞)、大阪、京都は朝日新聞大阪本社、広島は中国新聞、仙台は河北新報など。博覧会が開幕する一カ月前の五五年十月に、日本新聞協会が決めた新聞週間の標語は「新聞は世界平和の原子力」だった。
 東京に続く博覧会の開催地となった名古屋は五六年元日から二十四日間、当時テレビ塔近くにあった愛知県美術館が会場だった。高さ八メートルの実物大の原子炉模型や、新エネルギーを使った列車、飛行機のジオラマなどを展示し、原子力がもたらすばら色の未来を強調する内容だった。
 中日は、五六年元日の朝刊社会面トップで「平和と結ぶ“第三の火”」「賛嘆の声わく開会式」など前日に行われた開会式の模様を大々的に報じた。一般入場が始まると、三日の朝刊は「大にぎわいの原子力博」「正月二日で二万超す参観者」と続報を掲載した。
 博覧会開催に合わせ、一月五日から夕刊で「無限のエネルギー」と題する十五回の連載をスタートしたほか、子供向けの特集記事も掲載した。
 その特集記事には「放射能を照らした食品は二年たっても食べられるから冷蔵庫がいらない」という小学生らしい誤解や、科学研究所(現・理化学研究所)の研究者の「原子力というと原子ばくだんや原子マグロのようなこわいものだと考えられがちですが、こんなあかるい面に利用できることを知ってもらいたいのがこのはくらん会なのです」とのコメントもあった。
 現在八十五歳で、中日OBの川瀬博民は当時、事業局の若手社員として博覧会を担当した。「原爆が投下された日本で、原子力の無限の有効性を理解してもらいたい一心だった」と振り返る。
 広島、長崎の原爆投下に続き、五四年のビキニ事件で三度、核の犠牲になった日本。その悲劇は、奇妙なことだが、原子力の平和利用に対する人々の夢を膨らませ、博覧会に足を向かわせていた。
 五六年五月に開幕した広島では、原爆の被爆者を追悼する平和記念資料館が会場だった。現在六十八歳の佐久間邦彦が訪れたのは小学六年生の時。母親に背負われていた一歳の時に被ばくしたが、遠隔操作で放射性物質を扱うロボット「マジックハンド」を見て「危険な放射能も制御できるんだ、と感動した」と話す。
 以来、「原爆と原発は別物」と思いこむようになった佐久間は三菱重工業広島製作所で技術者となり、原発建設にも携わった。しかし、福島第一原発事故を見て「ようやく間違いに気付いた。あの博覧会で、米国の思惑にまんまとはまってしまった」と悔やむ。
 ほぼ二年にわたり、全国十カ所で開催された博覧会には二百六十万人の来場者が集まった。USIS東京支部は五六年二月二十二日、ワシントンの米国務省に中間報告を送っている。
 東京工業大の山崎正勝名誉教授を通じ本紙が入手したその報告書のコピーは「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)は日本で成功している」とのタイトル。
 「日本人は米国がソ連より原子力の平和利用で先行していると信じるようになった」「核実験を継続する必要がある以上、日本人に平和利用を訴える努力を続けるべきだ」
 博覧会と時期を重ねるように、政界でも原子力の歯車が動きだす。中心人物は五五年二月の総選挙で初当選した正力松太郎だった。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201301/CK2013012302000233.htmlより、
第5回「毒をもって毒を制す」(3)念願の原子力閣僚
2013年1月23日

◆集まる信奉者
 東京・日比谷公園で開かれた原子力平和利用博覧会が大勢の来場者でにぎわった一九五五(昭和三十)年十一月。そこからほぼ一キロ先の永田町では戦後政治をめぐる新たなうねりが生じていた。
 日本民主、自由両党による保守合同で、自由民主党が誕生。その一カ月前には革新勢力の左右両派が日本社会党を結成していた。「五五年体制」と呼ばれるこの政治構造は、米ソ冷戦期を通じて、自民党の長期独裁政権を許し、米国との同盟関係を深めていくことになる。
 自民党結党直後の十一月二十二日に発足した第三次鳩山一郎内閣。正力は念願である原子力担当の大臣ポストを射止めた。
 自著「私の悲願」(六五年発刊)で「鳩山首相が防衛庁(現・防衛省)長官を勧めるので、私は原子力をやると言った。首相はキョトンとして『原子力って、何をするのか』と問い返した」と独特の表現でその喜びを書き記した。
 一回生の陣笠(じんがさ)でありながら、いきなりの大臣抜てき。新聞、テレビのオーナーを務める正力は、警視庁時代に担当した政界工作などで、三木武吉(71)や大野伴睦(65)ら自民党の大物と知り合い、気脈を通じていた。
 正力の議員秘書を務めた現在八十歳の元自民党衆院議員、萩山教厳(きょうごん)は「大臣就任は正力先生に花を持たせるためじゃない。彼なら何とかしてくれると思い、みんなで持ち上げたんです」と証言する。
 実際、大臣就任後、原子力の信奉者らが集まるようになった。萩山によると、後に首相となる若手議員の中曽根康弘(37)は正力を「閣下、閣下」と呼び、当時、東京・銀座にあった読売新聞本社まで足しげく通っていた。当時、社会党政審会スタッフで、現在八十七歳の後藤茂は、中曽根が「正力さんは私の言い分を承認して動いてくれた」とうれしそうに話していた、と振り返る。
 発足したばかりの日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)研究員で、後にセイコー電子工業社長を務めた現在八十七歳の原礼之助によると、正力は産業界の原子力推進団体「日本原子力産業会議」(現・日本原子力産業協会)事務局長の橋本清之助(61)や、物理学者の嵯峨根遼吉(49)らとも近かった。
 橋本は戦前、A級戦犯容疑者だった元内相後藤文夫(71)の秘書で、戦後は「原子力界の黒幕」と呼ばれた人物。嵯峨根は戦時中、陸軍の原爆製造計画「ニ号研究」を主導した科学者仁科芳雄の弟子だった。戦後は米バークレー国立研究所に勤務する一方、中曽根に戦後初の原子力予算を計上するよう助言した「指南役」としても知られる。
 その嵯峨根が当時「運転経験のない国産を造っても誰も買わない。まず外国の原子炉を輸入してコピーを造るべきだ」と語っていたのを、原は直接聞いている。
 日本は五五年五月、米国産濃縮ウランの受け入れを閣議決定。国内では時間をかけても原子炉を自主開発すべきか、それとも即効性のある海外からの技術導入にすべきかで意見が分かれていた。
 原子力をめぐる日本の針路がまさに岐路に立っていた時、担当大臣に就任したのが正力だった。嵯峨根の言葉は、後に正力の政治判断に少なからぬ影響を与える。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201301/CK2013012302000232.htmlより、第5回「毒をもって毒を制す」(4)「PODAMは協力的」
2013年1月23日

◆注視するCIA
 正力松太郎は一九五六(昭和三十一)年一月に発足した原子力委員会で、初代委員長に就任。名実ともに日本の原子力を牛耳るトップとなる。
 部下だった総理府(現・内閣府)原子力局長の佐々木義武(46)が業界誌「日本の原子力」に語ったところによると、正力が「俺は副総理のつもりだから、官邸以外には出ない」と宣言。戦前、海軍の青年将校が首相犬養毅を暗殺した「五・一五事件」の舞台となった官邸奥の部屋に机を構えた。
 当時、海の物とも山の物とも知れない原子力。政治家、正力がなぜそこまで熱を上げるようになったのか。
 自著「私の悲願」には「日本は天然資源に恵まれていないばかりか、肝心のエネルギー源ともいうべき石炭、石油はすでに底をつき電力の値段に至ってはアメリカの数倍も高く(中略)私はこれをいっきょに解決するには、原子力以外にはないことを知り…」とある。
 ところが、五五年十二月十二日の国会会議録によると、正力は衆院科学技術振興対策特別委の大臣答弁で、核燃料を「がいねんりょう」と発言。質問した日本社会党議員から間違いを指摘されるなど、担当大臣の資質が問われる場面もあった。
 当時、若手官僚として仕えた現在八十八歳の伊原義徳。後に科学技術庁(現・文部科学省)事務次官に上り詰めた伊原は正力から、こんな話を聞かされた。
 「おれはプロ野球をビジネスとして確立し、テレビ事業も軌道に乗せた。次は原子力の平和利用に道筋をつけることだ。もたもたしていられない」
 伊原は「国民のためにエネルギーをというより、決めたことを早く形にする事業家としての思いが彼を突き動かしていた」と話す。
 議員秘書だった萩山教厳(きょうごん)も「本人に原子力の知識は全然、ない」。「正力先生は名誉というか、『自分が切り開いた』という証しを残したかったんじゃないか。のめり込んだ先生の行動力を、原子力を導入したい人たちが利用しただけだ」と振り返る。
 正力の懐刀、柴田秀利の妻で、現在八十三歳の泰子によると、柴田が当時を振り返りながら「じいさん、総理になりたがっていたんだよなあ」と漏らしていた、と証言する。
 名誉欲か、それとも政治的野心か、今となってはほとんど知るすべはない。が、マスコミ界から政界入りし、原子力の平和利用で旗振り役を務める正力は、米国にとって頼もしい存在だった。日本の反核世論封じ込めを狙う米国の対日戦略に沿うものだったからだ。
 首都ワシントンの米国立公文書館に保管されている国務省や米中央情報局(CIA)の膨大な極秘文書。正力は「PODAM(ポダム)」という暗号名で呼ばれていた。どういう意味かは不明だが、ちなみに元朝日新聞主筆で、自民党副総裁を務めた緒方竹虎(67)の暗号名は「POCAPON(ポカポン)」だった。
 正力が衆院議員初当選からほぼ半年後の五五年八月十一日付のCIA文書には「PODAMは協力的だ。親密になることで、彼が持つ新聞やテレビを利用できる」。その一カ月後の九月十二日には「PODAMとの関係ができてきたので、メディアを使った反共工作を提案できる」と記されていた。
 原子力の担当大臣就任からほぼ二週間後の十二月九日にCIAがまとめた報告書。そこには、正力を映画「市民ケーン」のモデルになった米新聞王、ウィリアム・R・ハーストのような男と分析した上で、こう書かれてあった。
 「PODAMの存在感が大きくなっている。彼の関心はテレビから原子力へと拡大し、今では首相になると言っている」
 ところが、CIAの言う「総理を狙う男」は予想を上回るペースで原子力にのめり込み、豪腕ぶりを一段と発揮する。米国の描くシナリオが微妙に狂い始めていた。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201301/CK2013012302000231.htmlより、
第5回「毒をもって毒を制す」(5)木っ端役人は黙っとれ
2013年1月23日

◆英国産で決着
 一九五六(昭和三十一)年一月五日。正力は地元・富山に向かう車中で記者団に、米国からの原子炉輸入を念頭に「五年以内に原子力発電を実現する」と発言し、世間を驚かせた。
 原子力委員長を務める正力の意向は、その前日に開かれた原子力委の初会合でも示されていた。が、「時期尚早」との慎重意見が出て、さらに協議すると決めたばかりだった。それを一晩でひっくり返す発言は、他の委員にとって“寝耳に水”。とりわけ原子炉の自主開発を主張していた科学者たちは一斉に抗議の声を上げた。
 委員の一人で、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹(48)は「そんな話は聞いていない。自主開発の精神を冒涜(ぼうとく)する」と反発。湯川はその一年余り後の五七年三月、病気を理由に原子力委を去る。正力への不信感も遠因とされている。
 そのワンマンぶりを警戒するのは米国も同じだった。このころのCIA文書は「(米国に原子炉提供を求める)彼の申し出を受けることは、必然的に日本に原子爆弾を保有させることになる」。米国の思惑を超える正力のスピードに、別の意図が隠されているのではないか、と疑った。
 正力の「五年以内」発言からほぼ一週間後の五六年一月十三日。鳩山一郎内閣は日本初の研究用原子炉を米国から輸入することを閣議決定した。茨城県東海村の日本原子力研究所(現・日本原子力研究開発機構)に建設され、翌年の五七年九月に完成する。
 ただ、研究用原子炉の提供は二カ月前に締結した日米原子力協定に基づき事前に約束していたもの。出力もわずか五十キロワットしかなかった。正力が望んだ大出力で電気を生み出す発電用原子炉の提供について、米国は慎重姿勢を崩さなかった。
 米国の姿勢に業を煮やした正力は同じ西側陣営の英国からの輸入を検討する。英国は五六年五月、国産初の発電用原子炉、コールダーホール原発の運転に成功し、国を挙げて海外への売り込みを図っていた。
 ただ、コールダーホールは高いコストがネック。正力に仕えた若手官僚グループは「日本と英国では事情が違う。採算はとれません」と忠告した。その一人、伊原義徳によると、正力はこの時「木っ端役人は黙っとれ」と怒鳴ったという。
 米国は、正力の“米国離れ”に慌てた。在日米大使館が五六年七月五日付で米国務省に送った文書には「行動派の正力は、研究の努力をするという辛抱ができない。計画を急ぐ余り、高コストの英国炉を導入するという過ちを犯そうとしている」と書いてあった。
 さらに当時、日ソ国交回復交渉を進めていた鳩山政権の下で、日本がソ連から原発を導入するのではないかという疑心暗鬼も。五六年九月十二日付のCIA文書には諜報(ちょうほう)員とワシントンにある本部とのやりとりが残されている。
 諜報員「ソ連が日本に原子力技術の支援を申し出る危険性をどう考えているか。もしそうなったら、どう反応すればいいか」
 本部「ソ連が日本に支援を打診する可能性はかなり高い。日本は決断する前に米政府と話し合うべきだ」
 結局、原子力委は五六年十月、英国へ調査団を派遣する。団長は委員長代理で元経団連会長の石川一郎(70)。「まず外国の原子炉を輸入してコピーを造るべきだ」と主張していた、あの物理学者、嵯峨根遼吉(50)も同行していた。
 その一カ月後、調査団の報告を受けた委員長の正力は「コールダーホール原発は輸入に適している」と表明する。自主開発か、海外技術の導入かで揺れた原子力開発はようやく決着。日本初の原発建設が事実上決まった。
 「五年以内に原子力発電を実現する」と豪語してからわずか一年足らず。正力ならではの力業だった。
 英国から技術導入する東海村の東海原発はそれから十年後の六六年に稼働、原子力の灯(あか)りをともす。その道筋をつけた正力は三年後の六九年、八十四歳の生涯を閉じた。議員秘書だった萩山は「晩年は原子力熱がすっかり冷めていた。のめり込むとそれ一色になるが、一区切りつくと他のことに目がいく人だったから」と話す。
 日本の政界は鳩山退任後、短命の石橋湛山(72)をはさんで、五七年二月に岸信介(60)が首相に就任する。今の首相安倍晋三の祖父。親米で、再軍備論者だった岸の登場は原発建設に踏み出した日本で、もう一つの「核」、すなわち核兵器配備の議論を浮上させるきっかけとなる。

 <正力松太郎(しょうりき・まつたろう)> 富山県大門町(現・射水市)に土建業者の次男として生まれる。東京帝大を卒業後、旧内務省の警察官僚となり、警視庁の神楽坂署長や警務部長を歴任。米騒動の鎮圧や政界工作に努めたが、皇太子時代の昭和天皇が狙撃された虎ノ門事件の引責で退職した。
 1924(大正13)年、元内務相の後藤新平から融資を受け読売新聞社を買収。プロ野球、読売巨人軍の前身「大日本東京野球倶楽部(くらぶ)」を設立した。戦時中は貴族院議員も務めたが、大政翼賛会入りしていたため、終戦直後にA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に入所。47(昭和22)年に釈放され、経営に復帰し、53年に民間初の日本テレビ放送網を開局した。
 55年2月の総選挙で初当選し、69年に亡くなるまで連続5回当選。この間、鳩山、岸の両内閣で原子力担当国務相や科学技術庁(現・文部科学省)長官を務めた。
      ◇
 この特集は社会部原発取材班の寺本政司、北島忠輔、谷悠己、レイアウトは整理部の渡辺武が担当しました。シリーズ「日米同盟と原発」第6回は2月下旬に掲載予定です。

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