記者の目:阪神大震災発生から18年 内橋寿明氏
http://mainichi.jp/opinion/news/20130206k0000m070111000c.htmlより、
記者の目:阪神大震災発生から18年=内橋寿明
毎日新聞 2013年02月06日 00時19分
◇被災者の今の姿 東北の力に
6434人が犠牲になった阪神大震災。発生から丸18年を前に、取材で約50人の遺族に会った。震災後の18年、就職や結婚など新たな道を歩み出した人がいれば、リストラや離婚を経験した人もいた。共通していたのは、東日本大震災の被災地に思いを寄せる姿だった。「つらい時は頑張らなくていい」。この言葉が、多くの遺族から預かった伝言だ。18年を生き抜いて取り戻した多くの笑顔が、東北の被災者にとって一筋の光となり得るとの思いを強くした。
◇「頑張らなくていい」と伝えたい
私は今回、東北の被災者に少しでも将来像を描いてもらいたいと考え、阪神大震災直後の毎日新聞に掲載された被災者の今の姿を紹介する連載企画「18年後のわたし」(東京、大阪本社版など)に同僚と取り組んだ。写真や記事のコピーを手に、当時の被災者を訪ね歩いた。紙面に掲載できなかったが、印象に残った2家族を紹介したい。
発生翌日の95年1月18日朝刊。「駅周辺 焼け野原」の見出しで神戸市長田区の惨状を報じる大阪本社版社会面に、同市灘区で倒壊したアパートの近くに立ち尽くす女性(当時35歳)と、布団にくるまって寒さをしのぐ三男(同3歳)の写真が載っていた。下敷きになった長男(同11歳)と次男(同7歳)の死を確認した後の17日夕方に撮られたものだった。
人づてに聞いた同市北区の移住先を訪ねると、女性の夫が玄関先で取材に応じてくれた。地震が起きた午前5時46分、出勤途中の最寄り駅からあわてて引き返し、生き埋めになっていた2人を助け出した。毛布にくるまれて路上に寝かされた長男と次男の遺体にすがり、妻は2人の名前を呼び続けた。
「2人の分も生きようと思ってきた」。夫はその後の生活をこう表現した。三男は小、中学校で柔道に打ち込み、21歳になった今はアルバイトに精を出していた。パート勤務の妻とともに、「みんな元気でやってますよ」と笑顔を見せてくれた。
生命の力強さを感じさせられた出会いもあった。95年1月26日の朝刊社会面で掲載された、生まれたばかりの男の子を抱く女性(当時29歳)。多くの犠牲者が出た同市灘区で誕生した命に焦点を当てたこの記事で、女性は「命を大切にする強い子に育って」と願い、「ユウキと名づけたい」と語っていた。
http://mainichi.jp/opinion/news/20130206k0000m070111000c2.htmlより、
兵庫県三田市の自宅を訪ねると、記事を懐かしそうに眺めながら、生々しい記憶を語ってくれた。切迫早産の可能性があり、検査日だった17日はどうしても病院へ行かなければならなかった。負傷者の手当てに駆け回る主治医を廊下で待っていると、次々に遺体が運ばれてきた。安置する場所がなく、顔と上半身に毛布をかけただけの遺体が廊下に並べられて足の踏み場もなくなった。男の子の遺体にすがりながら、名前を繰り返し叫ぶ母親の声を耳にしていたら陣痛が始まった。
野戦病院さながらの環境でこの世に生を受けた男の子は「湧希(ゆうき)」と名付けられていた。「希望が湧いてくるように」と願ったという。現在、高校3年生で受験勉強に忙しく、取材には応じてもらえなかったが、名前に込められた思いと元気な様子に胸が熱くなった。
◇痛み分かち合い「心の復興」を
震災18年の追悼行事を翌日に控えた1月16日夜。神戸市中央区の公園「東遊園地」で、二つの大震災の被災者らの交流会があった。阪神大震災の被災者が語る18年の歩みに耳を傾け、「力をもらった」と背筋を伸ばす東北の被災者の姿があった。
神戸市長田区で被災し、妻子を亡くした松田浩さん(52)は、津波で25歳だった長男を亡くした岩手県陸前高田市の浅沼ミキ子さん(49)に「焦らないで。つらい時は立ち止まって」と訴えていた。松田さんは震災のショックから仕事を辞めて仮設住宅に引きこもった経験がある。妻子の名を刻んだ慰霊のモニュメントに手を合わせることができたのは、震災から16年後だった。
東遊園地では東日本大震災が起きた午後2時46分にも、「3・11」の形に並べた竹灯籠(どうろう)のろうそくに灯をともし、黙とうをささげた。頭を上げた浅沼さんは、ともに黙とうした阪神大震災の被災者に向けて、涙ながらに語った。「これからも一緒に歩みたいし、見守ってほしい」
同じ体験をした者だからこそ分かることがある。強く生きる阪神の被災者を「希望の灯(あか)り」に、いつか、浅沼さんたちが心の「復興」をとげてほしい。痛みを分かち合おうと、阪神の被災者はいつも気にかけている。(神戸支局)