ナガサキ平和リレー:被爆体験者「認められぬ歯がゆさ」

http://mainichi.jp/area/nagasaki/news/20130209ddlk42070539000c.htmlより、
ナガサキ平和リレー:/205 被爆体験者訴訟「認められぬ歯がゆさ」/長崎
毎日新聞 2013年02月09日 地方版

 「被爆者と認められず、歯がゆい」。1月21日、長崎原爆の被爆体験者164人が被爆者健康手帳の交付を求めた第2陣訴訟の弁論があった長崎地裁前。原告団長の山内武さん(69)=諫早市=が支援者らに訴えた。原告の妻つぎえさん(69)とともに「空に放射性物質を遮るカーテンがあるわけじゃない。私たちは被爆者だ」と主張する。
 山内さんは2歳3カ月の時、爆心から10・2キロ北東の旧伊木力村(現諫早市)の海で遊んでいて原爆を受けた。稲光の後、爆音が響き、海から上がって小屋の中で布団をかぶせられたのを覚えている。近所の年長者から「灰が降った」などと聞いたが、国の指定地域外だったために手帳は交付されていない。
 山内さんは18歳の時、大洋漁業に就職し、捕鯨船の機関員となった。南氷洋などで何度もオーロラを見た。「人からはうらやましがられるけど、オーロラが一番嫌いだった。原爆の時の異様な感じを思い出す」
 国は02年、被爆体験者の精神疾患などに限定した医療費支援を開始。山内さんは05年の更新時、原爆の精神的影響を調べる検査で県の保健師から「あなたは当時2歳だから、覚えていないでしょう」と言われた。「原爆は知ってる」と強く反論し、ようやく認められた。一方、爆心の北東10・4キロの旧大草村(現諫早市)で原爆に遭った妻つぎえさんは、当時1歳9カ月。更新時に保健師から「記憶がない」と断定され、支援が打ち切られた。
 つぎえさんが叔母たちから聞いた話では、原爆の時は、庭先で遊んでいた。爆風で家のガラス戸が割れ、洗濯物が真っ黒になるほどの灰が降った。長崎市内で被爆した父はボロボロの姿で帰ってきた。つぎえさんは体が弱く、小学3年の時の体重が、現代の平均より10キロ軽い17キロほどしかなかった。
 つぎえさんは今も、サイレンを聞いたり、黒い物を見たりすると恐怖を感じる。戦時中、空襲警報が鳴ると自分で父の黒い帯を捜し、その帯で祖母の背中にくくりつけてもらって防空壕(ごう)に避難していた。その体験がよみがえるのだと思う。改めて被爆体験者としての医療支援を申請すると、精神科医に「パニック障害」と診断された。

http://mainichi.jp/area/nagasaki/news/20130209ddlk42070539000c2.htmlより、
 山内さんたちは、11年9月、第2陣として提訴。昨年6月、長崎地裁は先行していた第1陣原告395人の訴えを全面的に退けた。その後、第2陣は、原爆投下直後の米軍調査などから広範囲で放射性降下物の影響があったとする意見書を地裁に提出した。
 「裁判官は、しっかり読んで勉強してもらいたい」。山内さんはそう言って、5階建ての地裁を見上げた。【樋口岳大】

「ナガサキ平和リレー」は毎月9日に掲載します
〔長崎版〕

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