ヒバクシャ広島/長崎:’13冬 1~5

http://mainichi.jp/area/news/20130218ddp001040003000c.htmlより、
ヒバクシャ広島/長崎:’13冬/1 永尾大勝さん 福島で見た長崎の悪夢 この恐怖、全く同じ
毎日新聞 2013年02月18日 西部朝刊

 <核兵器の廃絶を documentary report/145>
 国際社会の警告とヒバクシャに背を向けて、北朝鮮が3回目の核実験を強行した。核拡散の脅威に包まれた中で、3月11日に東日本大震災から2年を迎える。東京電力福島第1原発事故後、福島の人々は見えない放射能におびえながら暮らしている。記録報道「ヒバクシャ’13冬」は原発事故で一時避難を余儀なくされた福島県在住の被爆者の声に耳を傾けることから始めたい。
 福島第1原発の北24キロにある福島県南相馬市原町区に、長崎で被爆した男性がいる。原発事故が起きるまで周囲に被爆者だと明かすことなくひっそりと暮らしてきたという。私は1月中旬、男性の自宅を初めて訪ねた。
 「40年近く住んでいるのに、働けなかったから友達もいない。原爆のことは思い出すだけでつらくて、家族にもほとんど話さなかったんです」。居間のこたつで体を起こし、永尾大勝(だいかつ)さん(79)は静かに語り始めた。1年の半分はベッドで過ごすという。
 11歳の夏だった。爆心地から4・5キロの自宅でパンツ1枚になり「のらくろ」の漫画を読んでいた。異変を感じ外に出た時、青い光が走り、体が吹き飛ばされた。家族は一命をとりとめたが、近所の人たちの行方が分からない。父と一緒に残留放射能に満ちたがれきの街を歩き、遺体を見つけては荼毘(だび)に付した。
 戦後上京し妻マサ子さん(72)と出会う。東京は高度成長を迎え、ビルや車が増えていった。タクシー運転手として働き、子にも恵まれた頃から、下痢や手足のしびれが強くなる。「俺は負けない。家族を守る」。休んだ分を取り戻そうと必死にハンドルを握った。
 「仕事もあるし、空気もいい」と知人に誘われ、75年に南相馬へ移り住んだ。だが就職面接を受けても、長崎でのことを詳しく聞かれては不採用にされた。歩くのもままならなくなり、マサ子さんがスナックを始め、自身は炊事や洗濯を担った。家計が苦しく、成績の良かった長女を大学に行かせてやれなかった悔いは今も残る。
 2人の子が巣立ち、還暦を過ぎてから小さな中古住宅を手に入れた。ようやく静かな時が訪れたところに、東日本大震災が起きた。

http://mainichi.jp/area/news/20130218ddp001040003000c2.htmlより、
 原発事故の深刻化で政府に屋内退避を求められ、夫婦は窓を閉め切った部屋で身を寄せ合った。マサ子さんは地震で転倒して太ももを骨折していたが、町から人が消え、電話も通じない。「原発のある町に連れてきた俺のせいだ」。痛みをこらえきれず泣く妻を前に、頭を下げることしかできなかった。1週間近くたって食料が底を突きかけたころ、近所の人に助けられ、県外に避難した。
 再び放射能におびえる暮らしが始まった。少年だった夏の光景がまた夢に現れる。やけどをした学徒兵が「水をください」と足にしがみついてきた。水筒の水を飲ませると、息を引き取った。
 半年後、東電の補償説明会に行った。被爆者手帳を携え「精神的に参っている。心から謝ってほしい」と訴えたが、「原発事故と原爆は別です」。通り一遍の答えが許せなかった。「目に見えないものへの恐怖に、なぜ二度も苦しめられなければならないのか」
 事故から間もなく2年。避難した子供たちが徐々に町へ戻り、線量計を持って暮らしている。「自分がこのまま黙っていてはいけない」という。
 そんな折の2月12日、北朝鮮が3回目の核実験を強行した。私は改めて話を聞いた。「放射能の恐ろしさは体験していない人には分かってもらえないものなのか」。少しいら立っているようだった。
 取材の度に、永尾さんは訴えかけるように言う。「私の話、あなたには伝わっていますか? あの日パンツ一丁で『のらくろ』を読んでいて……」<文・竹内良和/写真・宮間俊樹>=つづく(次回から社会面掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20130219ddn041040012000c.htmlより、
ヒバクシャ広島/長崎:’13冬/2 広瀬方人さん 福島に届ける「忘れないよ」
毎日新聞 2013年02月19日 大阪朝刊

 <核兵器の廃絶を documentary report/146>
 長崎市で11日、市民団体「福島と長崎をむすぶ会」が誕生した。長崎平和推進協会継承部会の副部会長、広瀬方人(まさひと)さん(82)は呼びかけ人として、発会式に集まった市民約90人にこう語りかけた。「長崎から福島に何ができるか。知恵を出し合っていきたい」
 振り返れば、広瀬さんと福島の女子高校生との出会いが「むすぶ会」につながった。福島第1原発事故から約7カ月後の11年10月、広瀬さんは、修学旅行で長崎を訪れた福島市の女子高校生に、自らの被爆体験を語った。
 広瀬さんは15歳の時、爆心地から4・8キロの学徒動員先の事務室で被爆。爆風で割れたガラス片が両腕に突き刺さった。爆心近くにいた19歳の従兄は骨すら見つかっていない。その息子を捜し歩いた伯母は高熱や脱毛などに苦しみ、息子の名を呼びながら息絶えた。
 広瀬さんが被爆体験を話した約2カ月後、高校生95人から感想文が届いた。「健康な子供を産めない体になっているかもしれない」。75人が原発事故による放射線障害の問題に触れていた。「どうすれば不安を抱えている福島の人たちに寄り添っていくことができるのか」。広瀬さんは仲間の被爆者らに呼びかけて14通の返事を福島市の高校に送った。
 だが昨年7月、同校を訪問すると、「手紙はありがたいが、見せると生徒に不安を与えるので見せられない」と言われた。落胆は隠せなかったが、学校はグラウンドの除染などに取り組んでおり、「複雑な状況が理解できた」。
 「福島」と言っても、広瀬さんは「ひとくくりにできない」と話す。原発事故による放射線被害への考え方は、住む場所や立場などによって大きく異なっていた。子供を連れて県外へ避難した人、それを批判する声。被ばくについて「安全だ」と言った学者がいれば、その学者を告訴した人もいる−−。
 今も福島の高校生や母親ら10人余りとメールや手紙の交流を続ける広瀬さんは、「寄り添い方」を巡って仲間の被爆者たちと何度も議論した。その結果、「長崎は福島を忘れない。このメッセージを発信し続けることだ」と思い至った。広瀬さんはこう話す。「原爆を受けた後、情報は閉ざされ、放射線障害のことも分からなかった。あの時『あなたたちのことを忘れていないよ』というメッセージをもらっていたらどんなに心強かっただろう」

http://mainichi.jp/area/news/20130219ddn041040012000c2.htmlより、
 広瀬さんの思いが実を結んだ「むすぶ会」の発会式には、南相馬市で避難生活を続ける福島県立小高工高3年、高野桜さん(18)を招いた。「高校生平和大使」として昨年の長崎の平和祈念式典にも出席した高野さんは、避難生活や古里への愛情を語り、「私たちにとって忘れられることが一番怖い。皆さんの力をお借りして福島の止まった時間を動かしていきたい」と訴えた。
 広瀬さんは、18歳の高野さんの言葉を胸に重く受け止めていた。<文・樋口岳大/写真・徳野仁子>=つづく

http://mainichi.jp/area/news/20130220ddp041040028000c.htmlより、
ヒバクシャ広島/長崎:’13冬/3 高東征二さん 「黒い雨被害」各地で訴えて
毎日新聞 2013年02月20日 西部朝刊

 <核兵器の廃絶を documentary report/147>
 広島市の原爆資料館で17日、原爆投下後に降った放射性物質を含む「黒い雨」と低線量被ばくをテーマにしたシンポジウムが開かれた。傍聴席に「佐伯区黒い雨の会」事務局長の高東征二さん(72)の姿があった。
 「黒い雨に遭った」と答えた約1万4000人分のデータを保管する日米共同機関・放射線影響研究所(広島市・長崎市)の研究者と、より詳細な解析を求める専門家らが同席した。解析手法を巡って専門的な議論が交わされたが、黒い雨と健康被害の因果関係への言及はない。高東さんは思わずマイクを握って声を荒らげた。「病気の連続の人や亡くなった人が何人もいる。事実は事実だ」
 厚生労働省は、広島市や広島県が求めた援護対象区域の拡大を認めない代わりに、来年度から「不安解消」を目的とする相談や健康診断費用の助成を実施する。これで幕引きを図ろうとする姿勢に、高東さんは「諦めるわけにはいかない」と自らを奮い立たせる。
 高東さんは米軍が広島に原爆を投下した68年前、爆心地の西約9キロの自宅で黒い雨に遭った。4歳の記憶はおぼろげだが、小学3年まで病弱でリンパ節が腫れた。しかし、自宅は国が定めた北西約19キロ、幅約11キロの援護対象区域の外だった。区域内では健診やがん検診が受けられ、特定の病気にかかれば「被爆者」と同様、月額約3万3000円の健康管理手当が支給される。
 高校の生物教師を退職後、02年に「佐伯区黒い雨の会」を発足させた。厚労省は10年12月、有識者の検討会を設置して援護対象区域拡大の議論を始める。議論を聞くため、何度も上京した。
 検討会が始まって3カ月後、東日本大震災と福島第1原発事故が発生した。高東さんは「今こそ、黒い雨の被害を広く伝えなければ」という思いに駆られた。地域を駆け回って新たな証言を集め、昨夏に新しい証言集(広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会編)を完成させた。
 「下痢、発熱、嘔吐(おうと)を繰り返し、腸が焼けるように熱かった」と話した女性。就職しても体がだるい日が続き、「横着者、根性なし」と言われ続けて自主退職した男性。がんとの闘い。結婚差別。実名と顔写真入りで収録した54人の人生は悲憤そのものだ。

http://mainichi.jp/area/news/20130220ddp041040028000c2.htmlより、
 「黒い雨」の被害証言は「科学」を盾に否定された。それでも高東さんは「200部は入る」スーツケースに証言集を詰め込み、あちこちの集会に出向いて販売した。幕引きを許してはならない。認めれば、福島の原発被害者にも適用されかねないと思う。
 高東さんは3月1日には静岡県焼津市に向かう。1954年に米国が太平洋ビキニ環礁で実施した水爆実験から59年となるこの日、現地での集会に駆けつける。「被害をうやむやにされた漁船の乗組員はたくさんいる。まだまだ知らせにゃいけん」。今なお続く核被害の実相を埋もれさせてはならないという思いは強い。<文・加藤小夜/写真・川平愛>=つづく

http://mainichi.jp/select/news/20130221ddm041040092000c.htmlより、
ヒバクシャ広島/長崎:’13冬/4 語り継ぎ、1万回
毎日新聞 2013年02月21日 東京朝刊

 ◇伴侶の死、重く抱え
 「夫が昨年亡くなり、正月は喪に服していました」。被爆体験を語り継いでいる長崎市の下平作江さん(78)は、同じ被爆者で互いに支え合ってきた伴侶の死を乗り越えられずにいた。
 そんな下平さんを、市内に住むひ孫の瑞葵(みずき)ちゃん(5)と蒼太(そうた)君(2)の姉弟が訪ねて来たのは1月20日。「おじいちゃんの誕生日」と言って、ケーキを抱えていた。この日は昨年3月17日に83歳で亡くなった夫隆敏さんの誕生日。幼い2人の心の中には今も隆敏さんが生きているようだった。「生前、この子たちを可愛がっていましたから」。無邪気なひ孫たちに目を細め、下平さんは平和な日常を送れることの大切さを改めてかみしめた。
 下平さんは10歳の時、原爆で母と姉、兄を失った。自身も爆心地から約800メートルの防空壕(ごう)で被爆した。一緒にいた妹と共に助かったが、髪が抜け、血便が出るなどの症状に苦しみ、差別も受けた。
 妹は1955年、原爆の影響とみられる病苦のため17歳で列車に身を投げた。「なぜ死んだの」。泣きながら線路に残った遺体を拾い、火葬した。後を追おうと線路の前に立った時、「死んだらだめだ」と引き留めたのが幼なじみの隆敏さんだった。
 2人は結婚し、3人の子供を育てた。隆敏さんは原爆について多くを語らなかったが、被爆のため骨の多くが人工骨になり、心臓の血管3本がバイパスだった。晩年まで体中の痛みやだるさに苦しみながら、修学旅行生らに被爆講話を重ねる下平さんを支えた。
 下平さんも後遺症で子宮、卵巣、胆のうをなくした。今も週3回、肝硬変のため病院で注射を受ける。それでも講話を続けるのは「核と人類は共存できない」ことを夫婦で身をもって体験してきたからだ。核廃絶と平和を訴える講話は既に1万回を超えた。
 今月17日の隆敏さんの月命日。瑞葵ちゃんと蒼太君が遊びに来てくれた。「おじいちゃんに手を合わせようか」。笑顔を見せる2人と仏壇の前に座った。「本当はあなたのそばに行きたい。でも、親子の絆が断たれ、生き残っても死ぬまで苦しまなければならない被爆者の苦しみを、この子たちには味わわせたくない。だから私は、伝えていきます」。大粒の涙を浮かべながら、下平さんは心から誓った。<文・下原知広/写真・徳野仁子>=つづく

http://mainichi.jp/area/news/20130222ddp041040024000c.htmlより、
ヒバクシャ広島/長崎:’13冬/5止 肥田舜太郎さん 核抑止論、恐怖の連鎖
毎日新聞 2013年02月22日 西部朝刊

 <核兵器の廃絶を documentary report/149>
 米軍により広島に原爆が投下された時、広島陸軍病院の軍医だった肥田舜太郎さん(96)は、原爆が人間をどのようにして殺していくかを、つぶさに見た。爆心地から約6キロ離れた民家で往診中に被爆し直後から救援治療に奔走した。その体験が戦後、被爆医師として6000人以上の被爆者の治療に当たり、核廃絶に生涯をかける原点になった。
 だから北朝鮮が2006年に初めて核実験を実施した時、「はらわたが煮えくりかえる」と憤りを隠さなかった。
 その北朝鮮が今月12日、3回目の核実験を強行した。さいたま市浦和区の自宅で、テレビニュースを見て知った肥田さんは「核兵器が地球上に存在する限り、こうした国がなくならない」との思いを改めて強くしていた。北朝鮮の度重なる核実験は、核抑止の限界を突きつけていると言い、こう指摘した。「核のカードを保有すれば外交上、優位に立てると考える国が今後も出続ける。米国をはじめ、今核を持つすべての国が自ら廃絶するしか、人類は核の恐怖から逃れられません」
 肥田さんは戦後、東京や埼玉で低所得者向け診療所を開設した。「被爆医師」のうわさを聞きつけ、受診に訪れた患者は、受付で「被爆者」と名乗らなかった。診察室に入った様子から察した肥田さんが看護師に席を外させると、ようやく被爆体験や身体の異常、生活の窮状などを語り始めた。
 きのこ雲の下、命からがら生き延びた人々を5年、10年と苦しめ、ゆっくりと命を奪う。肥田さんが原爆放射線の残忍さを知ったのは、米研究者が書いた内部被ばくに関する論文だった。原爆投下から既に30年たっていた。
 なぜ、放射線被害の研究は日本で進まなかったのか。その問いに肥田さんはこう答えた。「米国が徹底的に隠したからです」。戦後の占領下、原爆被害の実相を報道することは禁じられ、被爆者を診た医師は症状などを記録したり研究したりすることが厳禁とされた。一方で、米国は広島と長崎に原爆傷害調査委員会(ABCC)を設置。被爆者を検査して被爆による遺伝的影響を調べたが、治療は一切施さなかった。

http://mainichi.jp/area/news/20130222ddp041040024000c2.htmlより、
 軍事は人命より優先する−−そう思わせる原爆被害の治療実態だった。軍事が優先されると、国民は犠牲を強いられる。肥田さんは昨年10月、講演先の沖縄で、そのことを痛感した。県民の反対運動の中、オスプレイが米軍普天間飛行場(同県宜野湾市)に配備されるのを目の当たりにした。「沖縄県民がどれほどノーと言っても、米国は耳を貸さない。日本はまるで植民地だ」。怒りが胸を突いた。
 肥田さんは1月、腰の持病のため休んでいた講演活動を1カ月ぶりに再開した。「1000人の幸福のためなら10人が犠牲になっても構わないわけはない。1人の命も犠牲にしてはいけないのです」。その思いが96歳の肥田さんの背中を押している。<文・高田房二郎/写真・西本勝>=おわり

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