今、平和を語る:海老名香葉子さん

http://mainichi.jp/area/news/20130225ddf012070030000c.htmlより、
今、平和を語る:エッセイスト・海老名香葉子さん
毎日新聞 2013年02月25日 大阪夕刊

 ◇肉親6人一度に奪った3月10日 東京大空襲、伝え貫く一念
 一夜にして10万人が犠牲になった東京大空襲から、来月10日で68年になる。初代林家三平さんの妻でエッセイストの海老名香葉子さん(79)は、静岡県沼津市に縁故疎開していて難を免れたが、両親ら家族6人を亡くした。小学5年生のときに戦災孤児となった海老名さんに、戦中と戦後の体験を振り返ってもらった。<聞き手・広岩近広>

−−1941(昭和16)年12月8日に太平洋戦争が始まったとき、8歳でした。
 海老名 東京の本所竪川(たてかわ)(現・墨田区)で、釣竿(つりざお)師をしていた「竿忠(さおちゅう)」の家に生まれました。父は三代目で、先日亡くなられた歌舞伎俳優の市川団十郎さんのお父さんをはじめ、力士や小説家、陸軍大将と有名人がお客さんとして見えていました。父は信頼の厚い職人で仕事熱心、母は優しくて笑顔の絶えない働き者です。子どもは兄が3人、弟が1人で、女の子は私だけでしたから、とても可愛がられました。好物のすき焼きとカレーを、家族で楽しく食べることのできた恵まれた下町暮らしだったと思います。そのような私の家族は、皆が愛国精神に富んでいました。警防団の役員をしていた父は「お国のため」が口癖で、国防婦人会の副会長だった祖母は大切な指輪や金の入れ歯まで供出しました。

−−1944年7月、静岡県沼津市の叔母夫妻の元に縁故疎開します。
 海老名 私の家族はとても仲がよかったので、別れるとき皆の目が私に集まるのです。どうしていいかわからなくなった私は、「平気だもん、一人でも平気だもん」と無理をしておどけた覚えがあります。母はたくさんのお守りを、私の首からかけて、「香葉子は明るくて、元気で、強い子だから、大丈夫よね」と、私に言い聞かせるように話すのですが、涙をぽろぽろと流していました。

−−疎開先で、1945年3月9日を迎えます。
http://mainichi.jp/area/news/20130225ddf012070030000c2.htmlより、
 海老名 夜になっても警戒警報が鳴りやまず、叔母たちと一緒に「退避!」の声にせかされて、香貫山(かぬきやま)(標高193メートル)に登りました。駿河湾の上空からB29爆撃機がすごい音をさせて東に向かっていき、夜更けに東の空がぼうっと明るくなったときです。「東京か横浜がやられている」と話す声を聞いたので、いつも首にかけているお守りをなでて、「神さま、お願いです、父ちゃんや母ちゃんや家族を助けてください」と必死でお祈りしました。

−−凍(い)てつく山肌に正座をして祈ったかいもなく、3月10日未明の東京大空襲で祖母と両親、長兄、次兄、8歳下の弟を亡くします。「喜兄(きにい)ちゃん」と呼んでいた3番目の兄の喜三郎さんだけが助かり、沼津にやって来ます。
 海老名 当時、中学1年の喜兄ちゃんは唇がはれ、真っ黒の顔、衣服はボロボロでした。消火活動を指揮していた警防団の父が家に戻ったときは、2階にも火が回っていたのです。みんなで避難先の小学校まで逃げたものの、校門が閉まっていて中に入れなかった。熱くてたまらないので、母は幼い弟を胸に抱いて地面に伏せ、その上に父が覆いかぶさったと聞きました。祖母も2人の兄も動けなかったのか、喜兄ちゃんだけが、父の指示で逃げおおせたのです。
 暗闇のなかで黒焦げの死体を踏んだとき、ガシャガシャという音がしたり、煮込んだ大根を踏むようなグシャグシャという音がしたと聞きました。無残ですよね、戦争は。黒焦げで死んだ人は無念でならなかったと思います。
 喜兄ちゃんはそれから3日間、実家の焼け跡に座り込んで、父や母が戻ってくるのを、空腹に耐えて待っていました。諦めて4日後に沼津に来るや、喜兄ちゃんは「みんな死んだ、僕だけ生き残って、香葉子、ごめん、ごめんな」と何度も言って、私の手を握って泣きました。私の手に落ちた涙が熱くて、私も泣きました。
 このあと喜兄ちゃんは、あてのない東京に戻りました。私は叔母一家が石川県・能登半島の穴水町に転勤したので、そこに移ったのです。終戦の8月15日を迎え、叔母が「(私の両親は)犬死にした」と言って泣いたとき、お国のためだと自分に言い聞かせて明るく振る舞ってきた心の心棒が倒れてしまったようでした。

http://mainichi.jp/area/news/20130225ddf012070030000c3.htmlより、
−−12歳で孤児になった頃について、著書「子供の世話になって死んでいきます」(海竜社)にこう書かれました。<戦争下の疎開、二度目の疎開先の石川県の穴水はまるで天国でした。(略)けれども、そんな天国にいられたのは、たった半年。焼け跡の東京に戻ってからは、小学生の私は、しばらくの間、お寺さんの井戸水だけでお腹(なか)を満たしていました。ふすま粥(かゆ)や粟(あわ)、麦。あくる年の春まで、何を食べて生きてこられたのか思い出せません。それほどにひもじかったのです。だから、焼け跡に雑草の青緑を見つけたときは夢中で摘みました。これで生きられる、の自信も持てました。戦争孤児の私は、その後転々とし、どん底に落ちる思いのときもありましたが、不思議と緑の色を見ると、なんとか生きていけると元気が湧いてきました>
 海老名 学校にも行けませんでした。鉛筆がほしいと思う前に、孤児の子は、その日を生きることに懸命なのです。食べるものを探し、寝るところを探す……。子守をしたり、年齢や名前を偽って働きに出たり……。

−−1950年の秋、17歳のときに三代目三遊亭金馬師匠に再会します。
 海老名 金馬師匠は「竿忠」のお客様で、新聞に「尋ね人広告」を出してまで、私たちの安否を気遣っていただいたそうです。「竿忠の娘が生きていた」と驚き、事情を話すと「うちの子におなり」と言ってくれました。神田のガード下でテキ屋をしていた喜兄ちゃんを捜し出して師匠に会わせると、「竿忠」の後を継ぐように諭してくれました。私は孤児になってから初めて、足を伸ばして寝ることができたのです。さらに金馬師匠は、林家三平さんとのお見合いを勧めてくれました。

−−幸せに包まれるなかで、新たな悲劇を知ります。8歳上の従姉・咲さんが旧満州(現中国東北部)で終戦直後に5、6人のソ連兵に乱暴され、引き揚げ船が日本に着く直前に船内で息絶えました。
 海老名 咲ちゃんはとてもきれいな女性で憧れでした。終戦前年の9月に家族で満州に行ったけれど、どうして亡くなったか知らなかったのです。咲ちゃんの弟さんと中国を訪れたとき、彼は46年目にして初めて打ち明けてくれたのです。咲ちゃんのことを知ってから、私は戦争の惨禍と平和への気持ちを、ますます強くするようになりました。

http://mainichi.jp/area/news/20130225ddf012070030000c4.htmlより、
−−東京大空襲から60年の2005年3月に、東京・上野に慰霊碑「哀(かな)しみの東京大空襲」(東叡山現龍院の山門)と、いこいの広場・平和の母子像「時忘れじの塔」(上野公園の清水観音堂横)を建立しました。毎年3月9日に慰霊碑の前で供養式、母子像の前で式典を続け、今年も午前10時から行われます。
 海老名 東京大空襲では私の家族が6人、わが家から浅草に嫁いだ父の妹一家が6人、さらに別の親族を入れて18人もが戦火のなかで命を失いました。だから3月10日は私の涙の日です。この日は、子どもや孫たちと、亡き人の冥福を祈って、惨禍のあった場所を歩いてきました。
 戦争の無残さを語り、命の大切さを伝えることが、残された私の使命です。孤児になった私と同じ目に遭うような子どもを二度と出してはならない、その一念なのです。(専門編集委員)=次回は3月25日掲載予定

 ■人物略歴
 ◇えびな・かよこ
 1933年東京生まれ。東京大空襲で家族を失うが、初代林家三平師匠と結婚後は4人の子どもに恵まれる。夫の亡き後、「ことしの牡丹はよい牡丹」(文春文庫)でエッセイストとしてデビュー、作詞家としては増位山関のヒット曲「そんな夕子にほれました」を手がける。長男は九代目・林家正蔵、次男は二代目・林家三平で、落語家一家のおかみさんである。(写真は、集いに参加された皆様への心からの品を入れる袋を手に)

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