【日米同盟と原発】第6回「アカシアの雨 核の傘」

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201302/CK2013022602000215.htmlより、
【日米同盟と原発】第6回「アカシアの雨 核の傘」 (1)昭和の妖怪
東京新聞 2013年2月26日

  一九六〇(昭和三十五)年、首相岸信介(一八九六~一九八七年)は、日米安全保障条約の改定を果たす。米ソ冷戦下、新たな同盟関係を結び日本は米国の「核の傘」に入った。「反米」「反核」を掲げ日本中を席巻した安保闘争は岸を退陣に追い込んだが、原発には触れずじまいだった。六四年に中国が核実験に成功すると、直後に首相に就いた岸の実弟、佐藤栄作(一九〇一~七五年)の下で、核兵器に転用可能な原発技術を利用した「潜在的な核保有」がひそかに検討される。原発と核兵器が政権の裏側で結びつく経緯と、その背景を探った。(文中・表の敬称略、肩書・年齢は当時)

「核保有は合憲」
 初代原子力委員長の正力松太郎(72)が、英国からの技術導入で日本初の原発建設を表明した六カ月後の一九五七(昭和三十二)年五月七日。参院内閣委員会は、首相岸信介(60)の発言に騒然となった。
 病に倒れた石橋湛山(72)の後を継いで三カ月足らず。首相として初の国会審議に臨んだ岸は、核兵器の保有が戦後の平和憲法に触れるのかと質問され、こう答えた。
 「核兵器と名前がつけば、いかなるものもこれは憲法違反と、こういう法律的解釈につきましては…(中略)…その自衛力の本来の本質に反せない性格を持っているものならば、原子力を用いましても私は差しつかえないのじゃないか、かように考えております」
 自衛のための核保有なら「合憲」という考え方だった。広島、長崎に原爆を投下されてから十二年。戦後の首相が公の場で核保有に言及したのは初めてだった。
 戦前、東条英機内閣で商工相を務め、日米開戦の詔書に署名した岸。A級戦犯容疑者から首相にまで上り詰めたのは戦後唯一だった。野党が改憲、再軍備を唱えるタカ派、岸の登場を警戒した直後に、いきなり飛び出した「核保有合憲」発言だった。
 戦前、商工省の革新官僚としてならした岸が政界への足がかりをつかんだのは、満州への赴任時代。日本が中国東北部に築いた満州国で副首相にあたる総務庁次長になった。
 当時、満州に顔をそろえた総務庁長官の星野直樹、関東軍参謀長の東条英機、満州鉄道総裁の松岡洋右(ようすけ)、日産創業者の鮎川義介と並ぶ実力者の一人とされ、その五人はそれぞれの名前をもじって「二キ三スケ」と呼ばれた。満州人脈は戦後、岸の政治活動にも生かされた。
 生前の岸をインタビューし「岸信介証言録」(二〇〇三年発刊)をまとめた現在七十三歳の東京国際大名誉教授、原彬久(よしひさ)は「星野直樹は『岸は立派な政治家になって満州を卒業した』といろいろな皮肉を込めて語っていたが、まさにそうだろう」と話す。
 戦後は、大物右翼との黒い交際がうわさされた。岸は原のインタビューで、東京・巣鴨拘置所(巣鴨プリズン)時代をきっかけに、政財界の黒幕とされた児玉誉士夫(46)や笹川良一(58)と付き合いがあったことを認めている。
 エリート官僚、満州の支配者、A級戦犯容疑、右翼との親交…。清濁併せのむ岸は戦前、戦後の政界を渡り歩き、六〇年の首相退任後も影響力を発揮した。後に「昭和の妖怪」とあだ名され、その華麗なる血筋は現在の首相、安倍晋三まで脈々と続いている。
 五七年五月、政界を揺さぶった岸の「核保有合憲」発言。実はこの一カ月後、岸はワシントンで開かれる米大統領アイゼンハワー(66)との日米首脳会談を控えていた。最大のテーマは当時、駐留米軍に日本防衛の義務がなかった日米安保条約の改定。発言はそれに向けた地ならしの意味合いを持っていた。
 二年前の五五年八月に開かれた外相、重光葵(68)と米国務長官ジョン・ダレス(67)との日米外相会談。当時、岸も日本民主党(現・自民党)幹事長として同席した会談で、日本側は安保改定の意向を初めて申し出た。
 米国務省の公表文書によると、ダレスはこの時「もしグアムが攻撃されても日本は米国を防衛してくれるのか。日本が十分な戦力を持つならば状況は違ってくるだろう」と条件をつけている。岸は「証言録」で「(ダレスは)木で鼻をくくるような無愛想な態度」だった、と回想している。
 「核保有合憲」発言は、日本の発奮を求めたダレスへの回答か。それとも、改憲論者で自前の防衛力を主張する岸の狙いは、もっと深いところにあったのか。その真意について、岸は生前明確にしていない。
 その岸は、首相として初めての正月を迎えた五八年一月、茨城県東海村で完成したばかりの国内初の研究用原子炉を視察している。この時の気持ちを、自著「岸信介回顧録」(八三年発刊)で「平和利用にせよその技術が進歩するにつれて、兵器としての可能性は自動的に高まってくる」と記している。
 いずれにせよ、米国は岸の「核保有合憲」発言を好意的に受け止めた。五七年六月の日米首脳会談で、日米委員会の設置が決まり、安保改定は具体的に動き始める。それは米ソ冷戦下で、米国の核兵器によって守られる「核の傘」に入ることを意味していた。
 岸信介(きし・のぶすけ) 1896(明治29)年、山口県山口町(現・山口市)で長州藩士の家系、佐藤家の次男に生まれる。5歳下の三男は後の首相、佐藤栄作。10代で父方の岸家に養子入りした。
 東京帝国大法学部卒業後、農商務省(後の商工省)入省。1936(昭和11)年から3年間、中国東北部に日本が築いた満州国の運営に携わった。41年に東条英機内閣の商工相に就任し、戦時中の軍需産業や物資調達を取り仕切った。
 終戦後はA級戦犯容疑者として3年間、巣鴨拘置所などに収監されたが起訴を免れ、53年に衆院議員に当選。55年の保守合同で自民党初代幹事長となり、57年2月に首相就任。日米安全保障条約改定をめぐる混乱を受け、安保批准後の60年7月に退任した。
 79年まで衆院議員を9期務め、日韓外交などに尽力。87年に90歳で死去した。娘婿に外相などを歴任した安倍晋太郎、孫に現首相の安倍晋三と現衆院議員の岸信夫がいる。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201302/CK2013022602000216.htmlより、
第6回「アカシアの雨 核の傘」 (2)「岸に賭けよう」
2013年2月26日

米から選挙資金
 ソ連との対決姿勢を強める米国にとって、熱烈な反共主義者の岸は頼もしいリーダーだった。
 米陸軍情報部は、巣鴨拘置所の釈放直後から岸をマークしていた。一九五三(昭和二十八)年九月十八日付の情報ファイルには「岸は親しみやすく西洋的に振る舞い、スコッチウイスキーを飲む」などと好意的に記され、将来の首相候補と分析していた。
 首相就任後に岸がぶち上げた、あの「核保有合憲」発言。米国立公文書館で保管されている五七年六月十七日付の国務省極秘文書には「われわれの核配備への要求に対する、日本の首相の初めての啓発的な態度だ」と、その歓迎ぶりが記されてあった。
 「ニュールック」と呼ばれる軍事戦略を模索していた当時の米アイゼンハワー政権。それは、原子力の平和利用を推進する「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」を隠れみのに被爆国・日本を含む西側陣営に核兵器を配備する作戦だった。
 ところが、日本はマグロ漁船「第五福竜丸」が米水爆実験で被ばくした五四年のビキニ事件で反核世論が高まっていた。岸が首相に就任する前の五六年十二月三日、国務省高官が国防総省へ送った書簡は日本への配備の難しさを認めた上で、こう記されていた。
 「日本の指導者へ通常兵器についての教育が進めば、彼らは核兵器の有用性を受け入れ、さらにそれを望むかもしれない」
 米国がそんな期待を膨らませていた時、首相に就いたのが岸だった。
 五七年六月五日に行われた国務長官ダレスと大統領特別補佐官フランク・ナッシュ(47)の会議メモ。ダレスが「岸に賭けようと思っている」と打ち明けると、ナッシュは「在日米大使館から得た情報ではそれが最良にして唯一の方法です」と答えていた。
 その二週間後に訪米した岸を、大統領アイゼンハワーはゴルフに招待し、ラウンド後は並んでシャワーを浴びた。日米の対等関係を演出した。
 岸が望んだ日米安保条約の改定は、米国に日本への核配備を許したわけではない。しかし、在日米軍が日本を防衛するという大義は、手詰まり感のあった米国の対日戦略に新たな道を開くものだった。
 実際、米国は安保改定後、米艦船の航行や寄港などを通じ、日本近海に核兵器を持ち込んでいる。こうした間接的な手法を通じて米国は核配備とほぼ同等の抑止力を手にし、ソ連や中国ににらみをきかせた。
 訪米からほぼ一年後の五八年四月、岸は対米外交の成果をひっさげ、解散・総選挙に打って出る。与党の自民党は過半数を大きく上回る二百八十七議席を獲得。安保改定を実現する条件を整えることになるが、ここでも米国の影がちらつく。
 米国務省が二〇〇六年に公表した外交文書集は、この総選挙で米中央情報局(CIA)が関与していた事実をこう記している。
 「アイゼンハワー政権はCIAに対し、数人の親米の保守政治家へ秘密裏に資金提供する許可を出した。支援を受けた候補者たちは、米国人ビジネスマンからの資金だとしか伝えられていなかった」
 文書は、CIAから資金を受け取った政治家名を明らかにしていない。ただ、安保改定を目指す岸や米国への追い風になったことは確かだった。
 六〇年一月、再び渡米した岸はアイゼンハワーとの間で安保改定に調印する。後は自民党が多数を占める国会での審議、承認を残すのみとなった。
 ところが、岸と米国のシナリオは最終章で大きく狂いだす。日本が核戦争に巻き込まれるのではないかという国民の不安はやがて戦後最大の反体制運動へ発展し、列島を熱くする。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201302/CK2013022602000217.htmlより、
第6回「アカシアの雨 核の傘」 (3)最後にほほえみたい
2013年2月26日

 日米安保条約の改定をめぐる国会審議は、社会党(現・社民党)など野党の反発で紛糾が続いた。
 労組団体の総評(現・連合)や原水爆に反対する市民団体、大学自治会の学生らも列島各地で集会を開き、国会前では「安保批准反対」を叫ぶデモが繰り返されていた。
 米大統領アイゼンハワーの初来日を一カ月後に控えた一九六〇(昭和三十五)年五月二十日未明。与党の自民党は過半数を占める衆院で強行採決に踏み切り、条約改定を承認する。大統領来日までの国会承認を目指し、参院の議決がなくても三十日後に自然承認される「衆院の優越」の適用を計算した岸の執念だった。
 しかし、国会に五百人もの警官を動員するなど強引な国会運営に批判が強まり、逆に安保闘争を勢いづかせた。
 「アメリカの核の傘に入り、冷戦に巻き込まれる軍事同盟には反対だった。岸政権への反感がエネルギーとなり、運動は一気に広がった」。そう振り返るのは当時、反対デモに参加していた現在七十一歳の元参院議長、江田五月。
 国会や首相官邸の周辺では連日、学生らが腕を組んで左右に蛇行する「ジグザグ行進」を展開。デモは東京・渋谷にある岸の自宅前にも押しかけた。
 当時、岸の秘書を務めた現在八十六歳の堀渉は「まだ幼かった(現首相の)安倍晋三さんが遊びに来て『アンポ、ハンターイ』とデモのまねをしていました」と語る。
 衆院の強行採決からほぼ一カ月後の六月十五日。国会を取り囲んだ四千人の学生が敷地内になだれ込み、警官隊と衝突。東京大文学部四年の樺(かんば)美智子(22)が死亡した。安保闘争で死者が出たのは初めてだった。
 警察は「学生の転倒が原因の圧死」と発表。人の波に押されて転んだ樺が、後列の学生によって踏まれた事故死と断定した。
 しかし、樺の同級生で二、三列後ろにいた現在七十五歳の長崎暢子は「警察官の暴行が原因だと思う」。「彼らは学生の頭を警棒でボカボカ殴り、見えないところで腹を突いてきた」と証言、自身も頭を殴られ、二日間入院した。
 後方にいた東大教養学部一年の江田も「前方で、樺さんと警察官が対峙(たいじ)していた」。樺は東大生を束ねるリーダーの一人で、以前から顔を覚えていたという。
 当時、民間病院の内科医だった現在八十七歳の丸屋博は司法解剖に立ち会った国会議員を通じて入手した情報から「腹部への強い衝撃と首を絞められた窒息によって死亡した可能性がある」との見解を示した。だが事故死とする警察の見方は覆らなかった。
 安保闘争が生んだ「悲劇のヒロイン」として語られた樺。有志らが「国民葬」と銘打った樺の葬儀が東京・日比谷公会堂で行われたのは、日米両政府が改定後の新条約を批准した翌日の六月二十四日だった。二万二千人が参列し、遺影を掲げて国会までデモ行進した。
 しかし、ともに文学や歴史を愛し、気の合う友人だった長崎は「樺さんは革命というよりも、当時の日本にはなかった女性の社会進出や男女同権に関心を持っていた」と話す。
 父親は大学教授だったが「樺さんは『いいところの娘さん』と出自で判断されるのを嫌がった。きれいな服装の女子学生が増える中で、目立たないように地味な服ばかり着ていた」。大学院への進学を望んでいた樺が「私には決まった人がいる」と恋愛話を打ち明けたこともあった。
 東京・多磨霊園の墓碑に刻まれた樺の詩。彼女が高校生の時に創作したその詩からは、控えめだった少女の面影が浮かび上がる。

誰かが私を笑っている
(中略)
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ

 <日米安全保障条約> 正式名称は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」。連合国軍占領中の1951年にサンフランシスコ講和条約とともに結んだ旧条約を改定し、60年1月19日に署名・調印、6月23日に発効した。日米同盟の中核となる条約で、現在まで続いている。米国の日本に対する防衛義務や「極東の平和と安全の維持」を理由に米軍が日本国内の基地を使うことが明記されている。60年の改定時に続き、70年の条約延長時にも反対闘争が勃発。学生が「ヘルメットとゲバ棒」で武装して戦ったが、内ゲバが起きるなどして退潮した。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201302/CK2013022602000218.htmlより、
第6回「アカシアの雨 核の傘」 (4)デモは終わった就職だ
2013年2月26日

うっぷん晴らし
 安保闘争は一九六〇(昭和三十五)年六月十八日、国会前に三十三万人を集める戦後最大の反体制運動になった。ところが、翌十九日、日米安保条約の改定が自然承認されると、ほとんどの学生は潮が引くように運動から去った。
 学生や労組中心の闘争には反核団体も参加した。ところが、なぜだか原発はテーマにならなかった。
 名古屋大の学生だった現在七十七歳の森賢一は、原水爆禁止運動から安保闘争に身を投じた一人。「当時の原水爆禁止世界大会で、欧米の出席者は『原爆も原発も根っこは同じ』と反原発を主張していた。だけど日本側は平和利用まで反対する必要はないと受け入れなかった。核兵器と原発は別物と考えられていた」と話す。
 東京大OBで当時、学生運動の指南役だった現在八十歳の政治評論家、森田実は「僕は放射能を制御できない危険性や軍事転用の可能性を指摘したが、相手にされなかった。平和利用を持ち上げたメディアのせいだ」と不平を漏らす。
 このころ、茨城県東海村で英国の技術を導入した国内初の商業炉、東海原発が着工したばかり。
 「安全性や核廃棄物の問題は当時から指摘されていたが、技術で克服できると考えていた」と証言するのは東大助手としてデモに参加した現在八十二歳で、物理学者の小沼通二(みちじ)。「核のごみの問題がいつまでも尾を引くと見抜けず、安保闘争に結び付けられなかった」と悔やむ。
 闘争には、三井三池争議の炭鉱労働者も加わった。その一人、現在七十五歳の中原一は「デモの学生は三池まで応援に来てくれたが、安保が終わると、インフルエンザの流行みたいにサーッと引いた」。
 「おれたちの生活がかかっていた」という炭鉱問題は忘れ去られる。石炭は時代遅れのエネルギーとされ、その後を埋めたのは安保闘争が見過ごした原発だった。
 六〇年、西田佐知子が歌う「アカシアの雨がやむとき」が流行した。「アカシアの雨にうたれて このまま死んでしまいたい」-。
 退廃的な歌詞と西田の乾いた声は条約を阻止できなかったデモの敗北感と重なり、安保時代の歌として今も語られている。
 安保改定直後の六月下旬、雑誌「週刊文春」は「デモは終わった さあ就職だ」との特集記事を掲載し、世間を驚かせた。
 当時若手記者として取材したのは現在八十二歳の作家、半藤一利。「デスクから指示され、半信半疑で大学に行ったら、就職説明会場は満席。当時の学生らにとって安保闘争は政治運動というより、うっぷんを晴らすガス抜きの場だった」と振り返る。
 二〇一一年の福島第一原発事故後、国会を取り囲む脱原発デモ。「安保は組織の動員、脱原発は一般市民の意思。決定的に違う」としながらも、半藤は先行きに気をもむ。
 原発推進に積極的な自民党が政権に復帰したことで運動が下火になれば「目的を果たせないと一気に引いてしまう安保闘争と同じになる」と話す。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201302/CK2013022602000219.htmlより、
第6回「アカシアの雨 核の傘」 (5)「原爆製造は可能」
2013年2月26日

カナマロ会発足
 一九六〇(昭和三十五)年の安保改定で、米国の「核の傘」に入った日本。だが、池田勇人(64)をはさんで、六四年十一月に岸の実弟、佐藤栄作(63)が首相の座に就くと、核保有をめぐる議論が再び高まる。
 きっかけは隣の中国。東京五輪が開かれていた六四年十月十六日、毛沢東(70)率いる中国は原爆実験に成功し、米ソ英仏に次ぐ五番目の核保有国になった。
 佐藤政権内で「核の傘による抑止力だけでは不十分」との見方が広がり、首相直轄の内閣調査室(内調、現・内閣情報調査室)は極秘裏に核保有の可能性について研究を始める。
 当時、内調の調査主幹で、現在九十歳の志垣民郎は「中国の核実験が起きて大変な危機感を持った。学者の意見を聞くうちに核を持てるかの検討だけでもしてみようということになった」と、そのいきさつを振り返る。
 内調の研究会は六八年一月に正式発足。中心となったのは東京工業大教授の垣花秀武(47)と永井陽之助(43)、上智大教授の前田寿(49)とろう山道雄(39)。四人の頭文字を取って「カナマロ会」と名付けられた。
 カナマロ会は東京・六本木の国際文化会館で定期的に会合を重ねた。外部講師として、国際政治に詳しい京都大助教授の高坂正尭(33)や旧海軍出身の軍事評論家関野英夫(57)、日本原子力発電の技術者今井隆吉(38)らも加わった。
 志垣の手元には当時の極秘資料が多数保管されている。
 その一つで、志垣が「影響を受けた」と証言するのが国際政治学者の若泉敬(34)が内調に提出した報告書「中共の核実験と日本の安全保障」。中共は、共産主義国家・中国のことを指す。
 報告書はカナマロ会が誕生する前の六四年十二月に書かれていた。中国の核実験からわずか二カ月後の早さだった。若泉は後に首相佐藤のブレーンとして、沖縄返還交渉の密使を務めている。
 その報告書は「わが国はあくまでも自ら核武装はしない国是を貫くべきである」としながらも「十分その能力はあるが、自らの信念に従ってやらないだけ」という意思を国内外に示す必要がある、と提言している。
 能力がありながら、やらないだけ-。それは、非核政策をとりながら、核兵器に転用可能な技術を温存する「潜在的な核保有国」を目指すとの主張だった。報告書は、そのための具体的な方策として、原発の建設やロケット開発などに取り組むべきだとした。
 世界唯一の被爆国でありながら戦後、原発建設へと踏み出した日本。核の悲劇を繰り返すまいと、原子力の平和利用を信じた国民の知らないところで、政権を支えるブレーンらは原発と核兵器を結びつける議論をひそかに進めていた。
 カナマロ会は六八年と七〇年に検討結果を二冊の極秘報告書「日本の核政策に関する基礎的研究」にまとめた。非公開の報告書は、わずか二百部しか印刷されず、内閣官房や省庁幹部、自民党議員など限られた人間にしか配られなかった。
 本紙が入手したその報告書によると、六六年に稼働した東海原発の使用済み核燃料などを念頭に「(日本が)プルトニウム原爆を少数製造することは可能」と記されてあった。
 内閣調査室の調査主幹だった志垣によると、報告書は当時の内調室長を通じて、首相の佐藤の手にも渡った。志垣は「室長は技術的に製造可能だと強調して報告したが、首相から『核武装はなかなか難しいんだよ』とたしなめられたと聞いた」と話す。
 佐藤は、報告書ができる前の六七年十二月、衆院予算委員会で、核兵器について「持たず、作らず、持ち込ませず」の、いわゆる非核三原則を打ち出していた。
 一方、内調とは別に外務省も核保有を独自に検討していた。
 六八年十一月二十日付の外交政策企画委員会議事録には「軍事利用と平和利用とは紙一重というか、二つ別々のものとしてあるわけではない」「ロケット技術が発達すれば、原子爆弾さえ開発すれば軍事に利用できるわけだね」など、幹部クラスのやりとりが記されている。
 当時、外務省科学課長として議論を仕切った現在八十三歳の元フランス大使、矢田部厚彦は「日米同盟を考えると、当時も今も核武装は現実的ではない」としながらも「可能性のあるふりをすることが抑止力になる。その方法が科学技術を高めることだった」と明かす。
 日本は五九年、ロケット技術の開発方針を決定している。この時、所管する科学技術庁(現・文部科学省)の長官は五四年に戦後初の原子力予算を議員提案した中曽根康弘(41)だった。
 元科技庁次官で、現在八十八歳の伊原義徳は六〇年代初めに、自民党議員がロケット予算について「あれはあれだから、よろしく頼むよ」と話し合うのを耳にした。「核爆弾の搭載手段として期待していたのでしょう」と推察する。
 佐藤栄作の長男で、現在八十四歳の龍太郎は、佐藤が首相になる前から「ロケット開発の父」と呼ばれた東京大教授糸川英夫(52)と親交が深かったことを明かした上で「おやじにとって科学技術の家庭教師のような存在だった」と証言する。
 原発とロケットの開発に取り組むべきだ、と提言した若泉報告からほぼ三十年後の九四年。日本は初の純国産ロケット「H2」の打ち上げに成功する。
 この間、原発も猛烈な勢いで列島各地に建設された。二度にわたる石油ショックと、佐藤の後を継いで七二年、首相に就いた田中角栄(54)の登場が引き金だった。その田中は「日本列島改造論」を掲げ、原発を利権化していく。

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