【日米同盟と原発】第7回「油の一滴は血の一滴」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201303/CK2013032602000230.htmlより、
東京新聞【日米同盟と原発】第7回「油の一滴は血の一滴」(1)米の濃縮ウラン大量購入
2013年3月26日
一九七三(昭和四十八)年十月、資源小国の日本は石油ショックに襲われる。首相田中角栄(一九一八~九三年)は世界第二位の経済大国になったジャパンマネーを武器に、海外からエネルギー源を買いあさる資源外交を展開。国内では電源三法交付金制度を創設し、原発立地に国が関与する推進体制を築いた。地域振興を名目に、巨額の税金が立地自治体へ流れ込む原発の利益誘導システムは福島第一原発事故後、批判を浴びる。「今太閤(たいこう)」ともてはやされた権力の頂から一転、ロッキード事件で裁かれた田中。原発とつながる、その金脈と人脈を探る。(文中の敬称略、肩書・年齢は当時)
◆訪中前の手土産
一九七二(昭和四十七)年八月三十一日午後(日本時間九月一日午前)。首相田中角栄(54)は米大統領ニクソン(59)とハワイ・オアフ島で初の日米首脳会談に臨んだ。
首相就任からわずか二カ月足らず。田中にとって最大の目的は二十日余り後に迫った中国との国交正常化交渉に向けた地ならしだった。当時、首相秘書官だった現在八十五歳の元フランス大使、木内昭胤(あきたね)は「ニクソンに仁義を切り、訪中前に対米関係を良くする必要があった」と証言する。
その米国は半年前、大統領ニクソンが電撃訪中し、中国との関係改善に動き始めていた。同じ共産主義国ながらソ連と国境問題で敵対する中国を取り込み、泥沼化するベトナム戦争を終結させるのが狙いだった。
東アジアで冷戦構造の枠組みが再構築され、日本も中国との関係改善に乗り出す必要性に迫られた。日本にすれば、ニクソンとの首脳会談は米国にそのお伺いを立てるための儀式。だが、米国には別の思惑があった。
ハワイ会談の一カ月ほど前。七月二十五日から四日間、下準備として神奈川・箱根で開かれた日米の事務レベル協議。米国が重視したのは対中外交ではなく、通商問題だった。戦後一貫して主従関係にあった日米同盟。ところが、その力関係は転機を迎えていた。
「エコノミック・ミラクル(経済的な奇跡)」と呼ばれる高度成長を遂げた日本。六八年には国民総生産(GNP)で西ドイツ(当時)を抜き、米国に次ぐ世界第二位の経済大国に躍り出た。安くて品質の良い日本製の自動車やカラーテレビは国際市場を席巻し、とりわけ最大の貿易相手国、米国でシェア(市場占有率)を伸ばしていた。
逆に米国は対日貿易赤字が拡大。七一年には赤字額が過去最大の三十億ドル(当時の約一兆円)以上に膨らんだ。日本製品流入による米産業界への打撃と貿易収支の悪化は長引く不況の一因。かつての「敗戦国」日本は今や「貿易敵国」として米国の前に立ちはだかっていた。
日米最大の懸案事項に浮上した貿易摩擦。米国は日本に対米輸入の拡大を迫り、その具体策を一カ月後に控えたハワイの日米首脳会談で求めていた。田中にとって、それはニクソンから日中国交正常化交渉のお墨付きを得るための、いわば「手土産」でもあった。
通商産業省(現・経済産業省)の元事務次官で当時、首相秘書官を務めた現在八十二歳の小長啓一は「田中さんは『アメリカが困っているんだから助けてやろう』と言っていた。各省庁の事務方が米国から買えるものを探し、積み上げていった」と振り返る。
米国の要求をのむ形で日本は購入額を増やし続けた。日本の対米輸入額は当初よりほぼ倍の総額十一億ドルに膨らむ大盤振る舞いとなった。この時、購入の目玉となった三億二千万ドルの米国製民間航空機は後に田中自身が裁かれるロッキード事件の引き金となる。
その航空機と金額で肩を並べたのが米国産濃縮ウラン。原発の核燃料として電力会社が購入するもので、一万トンもの量だった。
当時、運転していた原発は東京電力福島第一原発1号機や関西電力美浜原発1号機などわずか五基。必要な濃縮ウランは年間二百トン程度で、一万トンはその五十年分にも相当する莫大(ばくだい)な量だった。
一万トンの経緯について、当時、対米交渉にあたった通産省公益事業課長補佐で、現在七十七歳の見学信敬は当初、五千トンだったことを明かした上で、こう証言する。「大臣から『ウランをもっと買ってほしい』という話があった。東電や関電などにお願いして購入量を倍に増やした」
当時の通産相は熱心な原発推進論者、中曽根康弘(54)。通産省は購入量を増やした見返りに、電力会社が低利で調達できる融資制度を設けている。
外交史料館にある外務省の七二年七月二十九日付会談メモ。田中が官邸を訪れた米通商交渉特別代表エバリーに「航空機、ウランの買い付けを話し合うのは結構であろう」と語った、と記されていた。
ハワイの日米首脳会談で、ニクソンの了解を取り付けた田中はその月末、自ら訪中し、念願の日中国交正常化を果たす。
日米中をめぐる外交交渉で突如浮上した米国産濃縮ウランの大量購入。秘書官だった小長は「確かに当時の発電能力からすると多めだったかもしれない」と認めた上で、こう言う。「対米関係を重視する政策判断だった」
田中角栄(たなか・かくえい) 1918(大正7)年5月4日、新潟県二田村(現・柏崎市西山町)生まれ。二田尋常高等小学校を卒業後、土木作業に従事。20歳で徴兵検査に合格して満州(中国東北部)に派遣されるが、肺炎を患い除隊となる。
終戦後、46年の衆院選に旧新潟3区から立候補するが落選。翌47年の衆院選で初当選して以降、16回連続当選を果たす。57年、郵政相(現・総務相)として初入閣後、蔵相(現・財務相)や自民党幹事長などの主要ポストを歴任した。72年7月、佐藤栄作政権の後を継ぎ、第64代首相。高等小学校卒の就任に「今太閤」「庶民宰相」などと呼ばれた。就任直前に発表した「日本列島改造論」はベストセラーとなった。
74年10月、月刊誌文芸春秋の特集記事「田中角栄研究-その金脈と人脈」をきっかけに金権政治を批判され、その2カ月後に退陣。76年、米航空機製造大手ロッキード社の全日空への航空機「トライスター」の売り込みに絡む贈収賄事件(ロッキード事件)で、5億円の賄賂を受け取った受託収賄罪などで東京地検特捜部に逮捕、起訴された。裁判では無罪を主張したが、一審、二審とも有罪。最高裁上告中の93年に死去した。
首相退任後も自民党田中派の議員に強い影響力を保ち続け「(目白の)闇将軍」の異名を取った。選挙地盤を受け継いだ長女・真紀子は外相や文部科学相を務めたが、2012年12月の衆院選で落選した。
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第7回「油の一滴は血の一滴」(2)「理研は私の大学」
2013年3月26日
◆原子力の梁山泊
一万トンもの米国産濃縮ウラン購入を決めた首相田中角栄。中選挙区時代、新潟三区でライバルだった現在七十八歳の元自民党衆院議員渡辺秀央は「彼に原発への思い入れなどない。演説でも聞いたことがない」と話す。ところが、その田中と原子力は古くから結ばれている。
時代は田中が故郷、新潟県二田村(現・柏崎市西山町)の尋常高等小学校を卒業する一年前の一九三二(昭和七)年までさかのぼる。その年、村に隣接する柏崎町(現・柏崎市)でエンジン部品「ピストンリング」の製造工場が操業を始めた。
建設したのは理化学研究所(東京)。戦争末期に陸軍の原爆製造計画「ニ号研究」を手掛け、日本の原子力研究をリードした理研はこのころ、機械加工や化学など多角的に事業を展開する一大コンツェルンだった。
当時のトップは大河内正敏(54)。東京から柏崎の工場まで時折、足を運び、その名は地元で知られる存在になっていた。
田中の自著「私の履歴書」(六六年発刊)によると、当時十五歳の土木作業員だった田中は知人から大河内の名を聞き、彼の書生になろうと単身上京する。二日かけて東京・谷中の大河内邸まで訪ねるが門前払いされた。書生をあきらめ、職を転々とした二年後、偶然勤めた建築事務所が理研の取引業者だったという。田中は、この時の気持ちを「私の心は大きく波立った。目に見えない糸に結ばれた大河内先生とのつながりは、現実のものとなった」と記している。
その二年後、田中は十九歳で独立する。仕事の大半は、理研が発注する工場や鉄塔の設計などだった。「私の履歴書」には理研の「ニ号研究」に関する記述はない。が、政策秘書を二十三年務めた早坂茂三の著書「田中角栄回想録」(八七年発刊)に田中のこんな言葉が紹介されている。
「理研には電力や原子力の大家もいた。梁山泊(りょうざんぱく)だった。当時の理研は私の大学だった。すべての発想は理研に源流を発している」
理研とのつながりは戦後、田中が二十八歳で政界入りした後も続く。五二年に大河内が亡くなった後、その代わりを務めたのは五四年、「理研ピストンリング工業」(現・リケン)の会長に就いた松根宗一(56)だった。
松根は日本興業銀行(現・みずほ銀行、みずほコーポレート銀行)出身。電力業界の融資を担当した経験で、原子力やエネルギー問題に精通していた。ピストンリング会長時代、電力各社の首脳にまじり電気事業連合会の副会長も務めた。
松根を知る日本原子力産業会議(現・日本原子力産業協会)の元事務局次長で、現在八十七歳の末田守は「松根さんは田中さんを小僧扱いしていた。田中さんが通産大臣の時からよく会うようになった」と振り返る。
田中が通産相時代の七一年八月、松根は経営者や官僚、学者らで組織する原子力委員会の視察団長を務め、フランスのウラン濃縮工場を見学。同行した末田は「フランス政府は、視察団を国賓並みに扱った」と言う。
その二年後の七三年九月、首相として訪欧中の田中は大統領ポンピドゥー(62)との会談で、米国以外から初めてフランス産の濃縮ウランを年間千トン購入することを決める。同行した財界人の中には松根の姿もあった。
この時の欧州歴訪で、田中は英国で北海油田、ソ連でシベリア天然資源の共同開発に参加するなど海外の資源を買いあさる。中東情勢がきな臭さを増し、豊富な資金力を背景に資源外交を仕掛けた。首相秘書官の小長啓一は「田中さんには資源外交のブレーンがいて、松根さんもその一人だった」と明かす。
ところが、その資源外交が落とし穴になることを、後に田中は知ることになる。
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第7回「油の一滴は血の一滴」(3)資源外交 田中の執念
2013年3月26日
◆買いだめに行列
一九七三(昭和四十八)年十月、エジプト、シリアがイスラエルに軍事侵攻し、第四次中東戦争が勃発。原油価格が高騰し、輸入原油の八割をアラブ諸国に依存する日本は石油ショックに襲われた。
首相田中角栄は中東政策をめぐり、アラブと、イスラエルを支援する米国との板挟みに苦しんだ。それは石油か日米同盟かを迫る選択でもあった。
国内では、田中の掲げる「日本列島改造論」で地価が上昇し、そこへ石油ショックが追い打ちをかけた。短期間で物価が値上がりし「狂乱物価」と呼ばれるパニック状態となった。
七三年十一月一日付の中日新聞は、婦人セーターが三千二百五十円(前月比71%増)、鉛筆一ダースが二百四十円(同37%増)、タマネギ一キロが百五十四円(同25%増)にそれぞれ値上がりし、庶民の懐を直撃したことを伝えていた。業者の便乗値上げや買い占めも横行し、スーパーの前ではトイレットペーパーの買いだめに走る主婦らが長蛇の列をつくった。
当時、田中を取材した中日新聞東京本社(東京新聞)の政治部記者で、現在七十七歳の大林主一は「あまりのストレスから口元がゆがんでいた。本人は『寝る時に扇風機を当てていたら、こうなった』と言っていた。季節は秋から冬に差しかかるころだったのに」と振り返る。
田中政権は七三年十一月二十二日、官房長官二階堂進(64)が「今後の諸情勢の推移如何(いかん)によってはイスラエルに対する政策を再検討せざるを得ないであろう」との談話を発表。中東からの原油回復を狙って、アラブ寄りの姿勢を鮮明にした。
田中の決断のきっかけは発表の一週間前。首相官邸で行われた米国務長官キッシンジャー(50)との会談だった。
首相秘書官だった木内昭胤は「キッシンジャーは十二月のイスラエル総選挙まではアラブ寄りの姿勢をとってくれるなと執拗(しつよう)だった。田中さんは『ならば米国は石油を援助してくれるのか』と尋ねたが、彼は取り合おうとしなかった」と証言する。
別の秘書官小長啓一は、田中が石油にこだわった理由の一つに、陸軍の一兵卒として満州に渡った戦時体験を挙げる。
「ガソリンがあったら車に乗れるのに、われわれ下っ端はずいぶん歩かされた、と語っていた。昔から『油の一滴は血の一滴』が口癖で、資源への思い入れは強かった」
「油の一滴-」は第一次世界大戦中、ドイツ軍の侵攻を受けたフランスの首相クレマンソーが使った言葉。田中はそれを引用しながら、資源のない日本の悲哀を嘆いていた。
一方、アラブ包囲網の戦略を狂わされた米国。田中との会談から一カ月後の七三年十二月十六日付の米国務省文書によると、キッシンジャーはイスラエル首相メイア(75)らにこう不満を語っている。
「自分たちの洞察力と勇気のなさを認められない国との関係は断ち切るべきだ。彼らはイスラエルを踏み台にしたいだけだ」
この時の米国の怒りは、後のロッキード事件と結びつけてしばしば語られる。当時、通産相だった中曽根康弘も自著「自省録」(二〇〇四年発刊)で、こうほのめかす。
「田中君は日本独自の石油開発に積極的な姿勢を表し、アラブ諸国から日本が直(じか)に買い付けてくる『日の丸原油』にも色気を見せたのです。これが、アメリカの石油メジャーを刺激したことは間違いありません。(中略)結果として、アメリカの虎の尾を踏むことになったのではないかと思います」
ところが、秘書官だった小長はこうした陰謀説とは別に、米国の怒りは「石油より、むしろウランの方が大きかったと思う」と話す。
小長が指摘するのは七三年九月の訪欧中に購入を決めた、あのフランス産濃縮ウラン。濃縮ウランは原爆の材料で、日本が米国の核の傘から離脱することを意味していた。「田中さんは資源の多角化で説明がつくような感じでいたが、いくら何でもやりすぎだったのではないか」と話す。
田中の政策秘書、早坂茂三の著書「田中角栄回想録」に、田中が「アメリカの核燃料支配に頼ってきた日本への姿勢が厳しくなったわけだ。(中略)しかし、あんなにアメリカがキャンキャンいうとは思わなかったなあ」と話していた、と記してある。
米国の怒りの理由は果たしてアラブ産原油か、それともフランス産ウランだったのか。今となっては分からない。元政治部記者の大林は、首相退任後の田中から本音とも冗談ともつかぬ、こんな話を聞かされている。
「夜、トイレに行ったら、誰かが座っているんだよ。CIA(米中央情報局)がここまで来たのかと驚いた。結局、それは警備員だったけれど。総理になんてなるもんじゃないね」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201303/CK2013032602000233.htmlより、
第7回「油の一滴は血の一滴」(4)都会へ電気 田舎へカネ
2013年3月26日
◆電源三法が成立
石油ショックの混乱が冷めやらぬ一九七三(昭和四十八)年十二月十三日の参院予算委員会。首相の田中角栄は「電気の消費者からいただいておる税金は発電所のある地域に交付しなければメリットがない。地元が恩恵を受けられることを考える」と言い切った。
資源の乏しい日本の弱さが露呈し、代替エネルギーの必要性が叫ばれていた。その一つとしての原発を、国策で推進していく決意表明だった。
電気代に税を上乗せして財源をつくり、原発周辺住民の生活向上に役立てる。電源三法交付金の発想は、田中を地元から支え続けた新潟県柏崎市長の小林治助(61)の存在が影響していた。
石油ショックが起きる十年前の六三年、市長に初当選したばかりの小林に東京電力柏崎刈羽原発の誘致話が届いていた。持ちかけたのは田中の資源外交を指南した、理研ピストンリング工業会長の松根宗一だった。
小林の長男で現在七十二歳の正明は「父の頭には広島と長崎の原爆があり、問題外という感じだった。ところが、松根さんは会社の費用で研究スタッフを置いてもいいと言う。そこまで本気なら考えようとなった」と振り返る。
当時は高度成長期のまっただ中。若者は職を求め都会へ流れ、地方は疲弊する一方だった。日本海に面する柏崎も開発から取り残されたそんな典型的な田舎の一つで、市長に就いた小林も新たな地域振興策を探っていた時だった。
小林は隣接する刈羽村にまたがる荒浜砂丘への原発誘致に傾く。日本海沿いに広がる一千万平方メートルに及ぶ荒れ地だった。六年後の六九年、小林が主導する形で市議会は柏崎刈羽原発の誘致を決議したが、反対運動で立地交渉が難航。まさにそんな時、地元出身の田中が首相に就任した。
長男の正明は「父は週に一回、年に五十回ぐらいは東京・目白の田中邸へ陳情に通っていた」と明かす。
小林が訴えたのは「原発を受け入れる地域の振興策を国が後押ししてほしい」というものだった。戦前、満州中央銀行に勤めた小林は数字に強かった。百万キロワットの原発一基が運転した場合、電力消費地は年二十三億円の税収があるが、立地地域は八千五百万円しかないという独自試算を示し、田中に迫ったこともある。
実は、その田中も首相就任前に上梓(じょうし)した「日本列島改造論」で「地域社会の福祉に貢献し、住民から喜んでもらえる福祉型発電所づくりを考えなければならない」との持論を展開していた。
田中がモデルとして描いていたのはドライバーが負担するガソリン税で財源を捻出し、地方の道路整備に回す「道路整備費の財源等に関する臨時特別措置法」。田中自身が五三年六月に議員立法で成立させた法律だった。
当時、首相秘書官だった小長啓一は「都会で集めた税金で原発など電源関連の特別会計をつくるというのは、道路の成功体験があった田中さんの発想。小林市長が望む振興策が一致して形になったのはまさに石油ショックがきっかけだった」と話す。
電源立地自治体の要望に沿って道路や港湾、公民館などの建設事業に国が交付金を出す仕組みは、通産省(現・経済産業省)資源エネルギー庁が考えた。当時、電源三法を起案したエネ庁係長で、現在七十一歳の工藤尚武は「他省の反発もあったが、田中さんの肝いりでもあり、納得してもらった。来年の通常国会に出すという指示で、突貫工事だった」と証言する。
法案は翌七四年三月に国会提出。石油ショックの混乱の最中、わずか三カ月で成立する異例の速さだった。
柏崎市などを地盤とする現在七十四歳の県議三富佳一によると、田中は自らの後援組織「越山会」の幹部会で「地域振興に役立つ制度を考えるから、原発の建設がうまくいくように支えてくれ」と語っていた、という。
全七基にも及ぶ柏崎刈羽原発は七八年十二月、着工する。市長小林が理研ピストンリング会長の松根から誘致を打診されてから十五年、田中はすでに首相の座になかった。巨額の原発マネーは二十五年以上にわたり、今も地元を潤し続けている。
「田舎が都会に電気を送り、都会が田舎にカネを送る」電源三法交付金。それは、戦後日本の高度成長から取り残された過疎地で育った田中と小林の政治闘争でもあった。
秘書官だった小長は、田中が初対面の時に語っていた言葉を今も覚えている。
「雪と言えば、川端康成の小説のようなロマンチックな世界だと思っているだろうが、俺は違う。生活の闘いなのだ」
<電源三法交付金> 販売した電力に応じて電力会社に課税する「電源開発促進税法」、特別会計で扱うための「特別会計に関する法律」、発電所の立地・周辺自治体への交付金制度を定めた「発電用施設周辺地域整備法」の総称。電源開発促進税は電気料金に転嫁されるため、実質的には国民が負担している。
当初は使い道が道路や図書館などの交通や公共施設の建設事業に限られていた。2003年度の改正で、高齢者福祉や育児支援、地域おこしなどに使えるようになり、ばらまき色が強まった。交付期間も運転開始までとなっていたが、今は立地調査が始まった時点から運転終了までに拡大した。財源や使い道などで国会のチェックを受ける一般会計と異なる特別会計のため、経済産業省の省益温存との批判もある。
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第7回「油の一滴は血の一滴」(5)「原子力ムラ」の誕生
2013年3月26日
◆転向した学術界
「首相の犯罪」で田中角栄が逮捕されたロッキード事件から三年後の一九七九(昭和五十四)年。日本列島で運転する原発はついに二十基の大台に乗り、原発大国への道を歩み始めていた。
その勢いは、田中が米大統領ニクソンとのハワイ会談で購入を決めた一万トンもの米国産濃縮ウランと帳尻を合わせるかのようだった。電源三法交付金による巨額の税金が立地自治体に流れ込み、立地交渉を後押しした。
当時、東京電力原子力開発本部の中堅社員で、後に柏崎刈羽原発所長を務めた現在七十五歳の宅間正夫は「それまでは電力会社が札束で地元を説得する形だったが、法的に国が関与するのでやりやすくなった」と話す。
学術界の役割も見逃せない。戦後の原子力研究再開で、大学の工学部や理学部などでは専門の教育が行われ、そこから巣立った人材がこのころ、電力会社の中核を担うようになっていた。
中部電力で原子力を担当した現在七十九歳の元副社長、蓮見洸一もその一人。東京大工学部の電気工学科で原子力を学び、五六年入社した。当時、中電は原発がなく、配属されたのは火力部に誕生したばかりの原子力課だった。
「国会図書館に通って、米国から送られてくる原子力情報を読んだり、翻訳したりしていた。同僚から勉強するだけで給料もらえていいなあ、なんて思われていたかもしれない」と、当時を振り返る。
蓮見は入社三年目の五八年、他電力の若手技術者らとともに三カ月間の渡米研修に参加した。招待したのは日本に原子炉の売り込みを狙っていたゼネラル・エレクトリック(GE)とウエスチングハウス(WH)の二社。参加した日本原子力発電元常務で現在八十六歳の板倉哲郎は「最先端の原子力技術を勉強できた」と話す。
こうして専門知識を蓄えた技術者らが原発ラッシュに沸く七〇年代、立地交渉の最前線で説明役を務めることも少なくなかった。
中電浜岡原発の建設が進んでいた七〇年代初頭。地元、静岡県浜岡町(現・御前崎市)で、中電の住民説明会に出席した現在七十一歳の伊藤実は「近所には大学を出た人がほとんどいなかった。みんな、頭のいいエリートが言うのだからきっと安全だろう、という感じで聞いていた」と証言する。
原発が増えるにつれ、電力会社や原子炉メーカーは人材養成を大学に求め、大学側も学生の就職の受け皿として原子力業界に期待を膨らませた。
「科学者の国会」と呼ばれる日本学術会議は七一年六月、「大学関係原子力研究将来計画」をまとめ、政府に勧告した。大学での原子力関連の講座拡充や研究炉建設などに、百六十四億円の予算措置を求めた。十五年ほど前、原子力の平和利用は核兵器の製造につながるなどとして「時期尚早」と反発した学術会議の面影はみじんもなかった。
国、産業界、学術界の三位一体で、今に続く原発推進の「原子力ムラ」が出来上がった七〇年代。そんな風潮に失望し、学術界を飛び出した市民科学者が誕生するのもこのころだった。
戦時中の原爆製造計画「ニ号研究」にも携わった元立教大教授武谷三男(63)や元東大原子核研究所研究員の高木仁三郎(37)らが七五年九月に原子力資料情報室を設立。これまで立地自治体にとどまっていた反原発運動を科学的根拠を示しながら支援し、全国的な市民運動へと広げる役割を果たす。
田中政権をきっかけに完成した日本の原子力ムラ。ところが、それを最も望んだはずの米国がその推進体制を足元から揺さぶることになる。七九年のスリーマイル島原発で起きたメルトダウン(炉心溶融)事故と、核不拡散政策を掲げた新大統領カーター(52)の登場だった。
この特集は社会部原発取材班の寺本政司、北島忠輔、谷悠己、紙面のレイアウトは整理部の岩田忠士が担当しました。シリーズ「日米同盟と原発」第8回は4月下旬に掲載予定です。