平和をたずねて:韓国併合 教師ゆえに 11~18
http://mainichi.jp/area/news/20130129ddn012040056000c.htmlより、
平和をたずねて:韓国併合 教師ゆえに/11 煮込みうどんに子ら涙=広岩近広
毎日新聞 2013年01月29日 大阪朝刊
植民地朝鮮の行政区域は13道制だった。道は内地の県に相当する。大邱の達城国民学校は慶尚北道に属していた。杉山とみさんが教師になって3年目のとき、慶尚北道から京城女子師範学校に新設された本科研究科への留学を命じられた。期間は1944(昭和19)年1月から3月だった。
「まさに寝耳に水。4年生のときに新卒で担任した子どもたちの卒業式に出られないのが心残りでした」
後ろ髪を引かれる思いで杉山さんが京畿道の母校に着くと、13道から50人が来ていた。ある夜、寝静まっているはずの時間に、低い声が耳に届いた。
「アメリカは朝鮮を独立させるそうよ」
「独立」は、口に出してはならない言葉だった。杉山さんは、若い韓国人の男性教師が憲兵に連れて行かれたのを思い出していた。そのとき同僚の教師が口に人さし指を当てて、「黙っていなさい」と目線で教えてくれた。
杉山さんは、もれ聞いた会話を誰にも話さなかった。だが杉山さんの在籍していない時期、あるいはあずかり知らないところで小変は起きていた。咲本和子著「『皇民化』政策期の在朝日本人−京城女子師範学校を中心に−」(津田塾大学「国際関係学研究 第二五号」に所収)から引用したい。
<学校のトイレに反日的な落書きがしてあることが発見されたため憲兵がやってきて全校生徒に筆跡試験を行った、朝鮮人学生が登校中になぜ朝鮮語を使ってはいけないのかと抗議して退学処分となった、日記に自分は神社参拝は形式的にやっているにすぎないと書いたキリスト教信者の学生が会議にかけられた等>
さて、杉山さんが新学期の4月に達城国民学校に復帰すると、担任する5年生の女子120人が待っていた。児童が増えて教室に入りきれないので、講堂を大きな衝立(ついたて)で仕切って、仮の教室にした。
大邱は晩秋を迎える頃から冷え込むが、女子児童は寒さにめげずに、国防献金をつくる奉仕作業に励んだ。彼女たちを慰労しようと、杉山さんは煮込みうどんを振る舞うことにした。
「食料事情は最悪だったのですが、わが家は帽子店の商売をしていたので、多少の融通がききました」
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放課後、松カサ拾いから戻った児童たちは、湯気のたちのぼる鍋に目を見開いた。タニシ入りの煮込みうどんを食べているうちに、1人が泣き出した。すると雪崩を打ったように次々と涙するのだった。煮込みうどんを食べたことがなかったのだろうか……。いつしか杉山さんも泣いていた。
帽子店の実家に遊びに来る子どもたちが増えた。なにより母親が歓待をした。「娘が教師でいられるのは、この子たちのおかげだと母は心底思っていました。砂糖であめ玉をつくって配ったとき、宝石の色みたい、口の中で溶けても味が残ると喜ばれました」
戦局が厳しくなっても、杉山家と杉山学級には子どもたちの楽天地があった。(次回は2月5日に掲載)
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平和をたずねて:韓国併合 教師ゆえに/12 兄の戦死、教え子から勇気=広岩近広
毎日新聞 2013年02月05日 大阪朝刊
植民地朝鮮にあって、官立の大邱師範学校は京城師範学校に次いで建てられた。南部の師範教育の中心的存在で、付属の国民学校を併設していた。児童は試験に合格した男女だった。
当時、23歳の杉山とみさんが大邱師範付属国民学校に着任したのは1945(昭和20)年1月である。急な欠員による後任として、達城国民学校の所属していた慶尚北道から出向を命じられた。なんと女性教師は杉山さんのみだった。
「新任のときにも増して緊張しました。担任は1年生と2年生女子の複式学級です。ほかに5年生と6年生女子の家庭科となぎなたの授業を受け持ちました」。杉山さんは補足する。「なぎなたは京城女子師範学校で習っていたのです。上段の構えから、水車のように振り回して突きに出る動きを、今も覚えています。付属の国民学校には、なぎなたがずらりと立てかけられていました」
杉山さんは続ける。「生徒に、『なぎなたを知ってる?』と聞いたことがあります。『存じません』と返ってきたのには驚きました。付属に来る子は、こうした敬語を使うのだと思うにつけ、徹底した教育の高さに最初はたじろぎました」
音楽の授業では、和音の音感教育を行った。さらにモールス信号や紅白の旗による手旗信号の手順も教えた。教師の仕事は多岐にわたったのである。
この頃、日本列島は米軍の激しい空襲に見舞われていた。だが杉山さんの周囲では、米軍は朝鮮半島を空襲しないとささやかれていた。一方、父親はこの考えを否定した。内地から帽子を取り寄せていたので、空襲被害について詳しかった。そこで疎開を決意する。
「兄嫁と生後間もない双子の女の子の孫に、万が一のことがあったら出征した息子に申し訳が立たない、父はそう思って母と相談したそうです。兄は子どもの顔も見ずにニューギニア島の戦場に赴いていました」
こうして東明という村に、母親と義姉と2人のめいは疎開した。空き家がなかったので、村祭りの道具を入れる公民館を借りた。杉山さんの両親はそれほど空襲を警戒していた。内地の実情を知り、長男の嫁と乳飲み子の孫を見るにつけ、じっとしていられなかったのである。父親と杉山さんは仕事の都合で、大邱の「富屋帽子店」に残った。
http://mainichi.jp/area/news/20130205ddn012040039000c2.htmlより、
杉山さんは2人兄妹で、4歳上の兄を慕っていた。教師になったとき、内地にいた兄から就職祝いを贈られた。「革製の紺色手提げカバンと色鮮やかなレインコート、それに晴雨兼用のすてきな傘でした。兄の気持ちがうれしかったです」
ほどなくして、兄の戦死を知らされる。そのときの衝撃は今も消えない。杉山さんは、戦争の非情さに打ちのめされそうになった。
ある日、学校から帰ると兄の祭壇に花が供えられていた。教師として最初に担任した達城国民学校の女子児童が小遣いで求めたと聞いた。この花に勇気づけられて、杉山さんは教師の日常を取り戻していった。(次回は19日に掲載)
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平和をたずねて:韓国併合 教師ゆえに/13 死の覚悟、返す言葉なく=広岩近広
毎日新聞 2013年02月19日 大阪朝刊
太平洋戦争末期の日本軍は本土決戦を声高に主張した。竹ヤリ突撃にみられる漫画のような訓練は、国民に悲壮感を募らせて一致団結させる思惑があったのかもしれない。
植民地朝鮮にも影響は及んだ。大邱師範付属国民学校が新年度を迎えた1945(昭和20)年4月になると、教師の杉山とみさんは軍事訓練に明け暮れた。
「小さな女の子をかばいながら、高等科の男子が掘った防空壕(ごう)に避難する訓練、機銃掃射から身を守る訓練などが日々続きました」。杉山さんは両手の指を使って説明する。「まず親指で左右の耳の穴をふさぎます。残りの8本の指で目を覆って、そのまま地面に伏せるのです」
さらには木銃を使って、ワラ人形を目指して突撃する。地面に伏して、手と足で前進する匍匐(ほふく)訓練もあった。このとき左方から敵機襲来と声がかかれば、右方にある物陰に駆け込んだ。
職員朝礼では、徳富蘇峰の「必勝国民読本」の輪読が課せられた。
この読本はB6判で194ページからなる。<如何(いか)にして我等(われら)は必勝するか>の文中に<教育の根本義>がある。<今日の国民学校児童も十年を経れば立派な兵士となる。(略)彼等に対して言葉通りの国民皆兵の訓練を施すと同時に、学校そのものも兵営同様の規律を以(もっ)てし、(略)その学習したるところのものを以て軍国の用に供する準備をなさねばならぬ>
国民精神総動員の時代にあって、現在の常識は通用しないかもしれないが、大本営の訓示さながらの蘇峰節ではある。この読本を44(昭和19)年2月に、50万部も発行したのが毎日新聞社であった。
さて、大邱師範付属国民学校である。杉山さんは、職員会議を思い出して話す。「子どもたちが爆撃の目標にならないように、白いシャツやブラウスを染めようという意見が出たのです。染料がないので、草木染めや泥染めはどうだろうかと真剣に話し合いました。何かしなければと追い立てられていたのです」
あるとき同じ内地人の男性教師が、杉山さんに胸中を明かして、こう語った。「新聞に出ていた短歌に『斥候(せっこう)に出で行かんとして時の間あり二十七年の生涯を想(おも)う』というのがありました。同年の兵士の気持ちが痛いほど伝わってきます」
http://mainichi.jp/area/news/20130219ddn012040039000c2.htmlより、
杉山さんは追憶する。「先輩教師とはいえ、若い独身の身でしたから、召集令状を待っていたと思います。成人男子ならば、そのような心境にさせられる時代でした。ただ私は、命を失う覚悟を聞いても、返す言葉がありませんでした」
まもなく彼に召集令状が届き、送別の宴が開かれた。勇ましい言葉が飛び交うなかで、杉山さんは南太平洋のニューギニア島で戦死した兄を思い出していた。
杉山さんは言った。「国家という、戦争という、この暴力の前では、小さな個人の感情も、生活も、無残に打ち砕かれてしまうのです」(次回は26日に掲載)
http://mainichi.jp/area/news/20130226ddn012040046000c.htmlより、
平和をたずねて:韓国併合 教師ゆえに/14 「異民族」自覚した8・15=広岩近広
毎日新聞 2013年02月26日 大阪朝刊
その日はやってきた。1945(昭和20)年8月15日の朝、植民地朝鮮の大邱で帽子店を営む杉山とみさんの自宅では、戦死した兄の初盆の法要が営まれていた。母親と義姉と双子のめいは遠く離れた村の公民館に疎開していなかった。
「正午にラジオで大事な放送があるというので、耳を傾けたのですが雑音がひどくて意味不明でした。日本が負けたと知るのは夕方です」。杉山さんはあらためて振り返る。「空襲に遭ってないので、敗戦など考えられません。何かの間違いだろう、というのが正直なところでした。日本が全面降伏したと聞いてから、この先どうなるのだろうかと頭が真っ白になりました」
まずは、母親たちを疎開先から連れ出さねばならない。朝ぼらけを待って父親は自転車で疎開先へと向かう。杉山さんは始発のバスに乗るべく、町外れのバスターミナルに急いだ。
一帯は韓国人の家屋が密集していた。植民地から解放された人々の歓喜が渦となって、襲いかかってきそうだった。韓国人の集団に出くわすたびに、杉山さんは追われる立場にある異民族だと自覚させられた。底知れぬ不安に駆られ、全身が硬直しそうになる。
杉山さんは乗車を待つ列に恐る恐る近づいた。内地人を探しても、一人も視界に入らない。韓国人の白い服が目を刺すように朝の太陽に光っていた。バスを待つ列に、そろりと並んだ。
突然、日本語で声をかけられた。「娘さん、あんたは日本人だね」
はっと顔を上げると、開襟シャツの若い韓国人の男性が目の前に立っていた。「ここは韓国になったんだ、日本人は引き下がってもらおうか」
男性は割り込んだ。大きな背中に圧倒され、杉山さんは頭部を強打されたような衝撃を受けた。薄ら笑いをうかべている顔という顔が目に入った。四面楚歌(そか)にあると思うと、おずおずと後ずさりしていた。
「8・15」を境に状況が一転したのは、日本海に面した北部の端川(現北朝鮮)でも同じだった。端川国民学校で、杉山さんと同様に教師をしていた佐藤礼子さんは「北朝鮮は遙かに」(新風舎)で書いている。
http://mainichi.jp/area/news/20130226ddn012040046000c2.htmlより、
<朝鮮人は、大日本帝国の徴兵制度実施に先立ち、創氏改名といって中国風の姓名を日本流に改めていたのだが、その表札を直ちにはずして旧名を掲げている。(略)今度は行李(こうり)の中の衣類略奪だ。「朝鮮へ来て、この朝鮮ある故に作ることのできた荷物じゃないか。日本へ帰るのなら、みな朝鮮に置いて行くのが当然だ」罵倒雑言を浴びせられても、何一つ抵抗できぬ外地の敗戦国民。とはいえ、ついこの間までは、一視同仁・内鮮一体といって、共に手を取り合って暮らしてきた仲間ではなかったのか>
杉山さんはバスに乗るのを諦めた。夜になっても構わない、母たちの待つ疎開先まで歩こう。そう決めて、一歩を踏み出した。行く手には、ポプラの並木が果てしなく続いていた。(次回は3月5日に掲載)
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平和をたずねて:韓国併合 教師ゆえに/15 「国語」封じられた教え子=広岩近広
毎日新聞 2013年03月06日 大阪朝刊
真夏の太陽が肌を焦がすように熱かった。強い照り返しにあって、ポプラの並木道はどこまでも白く見えた。1945(昭和20)年8月15日、杉山とみさんはひたすら歩いていた。歩きながら何度も自分に言い聞かせるのだった。
−−どんなことがあっても、母たちのいる疎開先にたどり着かねばならない。
植民地朝鮮は解放され、内地人と呼ばれた在朝日本人の居場所は消えようとしていた。杉山さんが大邱の市街地を抜けたときだった。背後で激しくブレーキのきしむ音がした。
「先生!」
振り向くと、金正燮(キムジョンソブ)くんだった。新卒で担任した達城国民学校の4年生のクラスにいた。帽子店の自宅によく遊びに来た彼は、すでに中学2年生だった。
「先生、どうしてこんなところに?」
懐かしい顔に会え、怖くてバスに乗れないので、歩いて東明という村に行く途中だと説明する。彼は自転車から降りて言った。
「先生、とても歩いて行ける距離ではありません。10キロ以上も先ですよ」
このとき、無謀なことをしていたのだと、初めて気づかされた。正燮くんは困惑を隠せない恩師に、確として申し出てくれた。
「僕が送ります。自転車の後ろに乗ってください」
教え子の言葉に素直にすがることに決め、杉山さんは自転車の荷台に腰掛けた。並木道を彩るポプラが後ろへ後ろへと流れる。一方で、白い韓国服の集団が杉山さんと行き違った。
「この人たち、大邱に何をしに行くのかしら」
杉山さんの問いかけに彼は答えた。「アメリカ兵が来るらしいので、町の様子を見に行くのでしょう」
正燮くんが話す途中で、集団のなかにいた韓国人の男性が怒鳴るように口走った。あまりのけんまくに圧倒されたものの、杉山さんは韓国語がわからない。
「今の人、なんて言ったの」。彼に問うと「聞かないほうがいいです」と返ってきた。強くせかせると、沈黙があって、彼はやっと口にした。「日本語で話すな、韓国語を使えと言ったのです」
杉山さんは無性に悲しくなった。即答してくれなかった、この教え子までもが遠ざかろうとしているのでは……。そう思うと感情が爆発した。ペダルをこぐ彼の背に向かって、声を荒らげた。
「私は韓国語を知らないのよ。あなたと、どうやって話をしろというの。日本語を使うのが、なぜ、いけないのよ、なぜ!」
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彼は返事を避け、「ちょっと、休んでいいですか」と河原に下りた。水で顔を洗った。杉山さんも従う。これで冷静になれた。
杉山さんは当時を自省して語る。「国語を封じられた少年の苦悩が、いかに大きかったか、そのときの私は思いやれる余裕がなかったのです。自分勝手で傲慢な私でした」
教え子の自転車に乗って、杉山さんが母親と義姉と双子のめいが疎開している村に着いたとき、太陽は西に大きく傾いていた。(次回は12日に掲載)
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平和をたずねて:韓国併合 教師ゆえに/16 前途に見えるは絶望のみ=広岩近広
毎日新聞 2013年03月19日 大阪朝刊
異様な光景だった。周囲の空気は殺気をはらんでいた。1945(昭和20)年8月16日のことで、杉山とみさんはやっと村の公民館に着いたものの足がすくんだ。母親や義姉の疎開先になっている公民館を、韓国人の群衆が取り囲んでいた。
不吉な予感に襲われた。自転車に乗せて連れてきてくれた教え子の金正燮(キムジョンソブ)くんに顔を向けた。彼は察知し、群衆をかきわけて前へと進んだ。杉山さんは後ろについて、刻み足で歩いた。
目に飛びこんだのは、足の踏み場もないほどに広げられた家財道具だった。その前に両親と義姉と双子のめいがいた。おろおろしているのは自明だった。
杉山さんは正燮くんに通訳を頼んだ。彼は、杉山さんの父親の言葉を韓国語にして、群衆に語りかけた。
「私は、この先生の教え子です。ご家族にかわって、皆さんにお話し致します。村の公民館を借りたご恩は決して忘れません。お礼は十分にしますし、家財道具も村に寄付します。だから整理ができるまで、お引き取り願います」
真剣に訴える中学2年生の少年に、群衆は好意的だった。三々五々散っていくのを見て、杉山さんは胸をなでおろした。
「民族の違いと言葉の通じない悲しさに、今更ながら打ちのめされました」
父親は目の前の家財道具を見て、娘にこぼした。「荷物を運ぶ牛車を頼みに行ったら、こう言われた。私の心としては牛車を出したい、だが今、日本人に協力すると後で村八分になるかもしれない、私のつらい立場を分かってほしい」
そばで聞いていた正燮くんが割って入った。「叔父さんが牛車を持っているので、明日、牛車で迎えにきます」
災いが降りかかるのではないかと案じる杉山さん親子に、彼は気遣いを見せた。「何も心配はいりません」。教え子は薄暮の道を自転車で帰って行った。
こうして夏の夜は更けていくのだが、幼い双子のめいを除いて大人はまんじりともしなかった。聞けば、公民館の世話をしてくれた日本人の駐在所長は危険を察したのか、前夜のうちに姿を消していた。
翌日、正燮くんが用意してくれた牛車に必要な荷物を積みこんだ。杉山さん一家は彼に感謝して、牛車に乗った。避難民さながらの身に、杉山さんは不安を抑えかねた。家族の今後は、そして戦争に敗れた日本の将来は……。前途には絶望しか見えなかった。
大邱の家に着いたときは夜になっていた。不穏な空気に満ち、あれほど明るかった帽子店は暗かった。
http://mainichi.jp/area/news/20130319ddn012040039000c2.htmlより、
日ならずして大邱師範付属国民学校から、職員に集合の声がかかる。日本人と韓国人の教師は互いに険しい表情をしていた。運動場の片隅に設けた焼却場で、本や書類や神棚などを燃やす作業に追われた。
燃え盛る炎の向こうに、杉山さんは心の空洞を重ねていた。赤い火が血の色に見えたとき、杉山さんの胸奥に崩壊の痛みが突き刺さった。(次回は26日に掲載)
http://mainichi.jp/area/news/20130326ddn012040026000c.htmlより、
平和をたずねて:韓国併合 教師ゆえに/17 大邱の宝物、教え子に託す=広岩近広
毎日新聞 2013年03月26日 大阪朝刊
「先生、人形なんか持っていても仕方がないでしょ」
中学2年生の金正燮(キムジョンソブ)くんはそう言った。杉山とみさんは彼が達城国民学校の4年のときの担任である。今は植民地から解放された喜びと希望にあふれ、日本に引き揚げる恩師の前で、そうした感情を抑えようとしているのが見て取れた。
趣味で集めた人形の数々は、杉山さんにとって宝物に等しい。だが釜山から船に乗るには、1世帯50キロの荷物が5個までと制限されていた。引き揚げにしても、突然、兵事部から連絡があった。杉山家は遺家族団体として明後日に大邱を出発するという。一家は慌ただしく身辺整理を始めた。1945(昭和20)年10月のことである。
母親や義姉は疎開先から大邱に戻っても、外出ができかねた。かわりに正燮くんが麦や野菜を運んでくれた。この日は引き揚げの手伝いに来ていた。
思い出深い人形を前にして、杉山さんは彼に頼んだ。「あなた4年生のとき同じクラスだった金三花(キムサムファ)さんを覚えているでしょ。この人形を形見として、あの子に渡してほしいの」
金三花さんは、戦死した兄の祭壇に小遣いで求めた花を供えてくれた少女だった。女学校に進んでからも成績表を見せに、あるいは杉山さんの仕事を手伝いにと、彼女はたびたび訪ねてくれた。引き揚げが急に決まったので、連絡がとれていなかった。
「困ったな」と正燮くんは頭をかいた。「僕は女子学生と話したことがないし、彼女とは卒業してから会っていません」
若い男女の交際が皆無だった時代である。「男女7歳にして席を同じゅうせず」の儒教精神も色濃い。それでも杉山さんは「一生のお願いだから」と頼んだ。恩師のたっての願いに、彼はやっと承諾した。こうして小さくまとめられた荷物は、雨の降るなかを大邱駅に運ばれた。
翌日の午前6時、釜山に向かう列車に乗った。正燮くんは学校を休んで見送りに来てくれた。大邱産のリンゴを詰めたカバンを持っていた。学校を休むことの重大さを教師として知っているだけに、杉山さんは感にたえなかった。
このとき69歳の杉山さんの父親は、彼に礼を述べてから言った。「私は老年ですから、お世話になったあなたに二度と会うことはないでしょう。でも、若いあなたは、ぜひ日本を訪れてください」
http://mainichi.jp/area/news/20130326ddn012040026000c2.htmlより、
一人息子を戦地で失ったうえ、営々と築き上げた父親の30年間の生活は崩壊してしまった。髪はめっきり白くなっていた。母親は老け、夫を亡くした義姉はやつれて見えた。なんという過酷な運命だろう……。
正燮くんは、そんな杉山さん一家との別れを前に、しゅんとしていた。
釜山の町はにぎやかだった。アメリカ兵を迎える大きな歓迎門が建っていた。生まれ故郷との別れの夜、杉山さんは岸壁の冷たいセメントの上で、寂しさを抱えてやり過ごした。初めての野宿だった。(次回は4月2日に掲載)
http://mainichi.jp/area/news/20130402ddn012040065000c.htmlより、
平和をたずねて:韓国併合 教師ゆえに/18 温かい心にふれ自責の念=広岩近広
毎日新聞 2013年04月02日 大阪朝刊
終戦の日から約1カ月後の1945(昭和20)年9月17日、鹿児島県枕崎市に上陸した大型台風は日本列島を縦断して各地に大きな被害を与えた。この枕崎台風と室戸台風と伊勢湾台風が昭和の3大台風といわれる。
植民地朝鮮の解放に伴い、追われるように釜山から引き揚げ船に乗った杉山とみさんの一家6人は、10月初めに博多港に着いた。家族の誰かを戦争で失った同じ境遇の遺家族団体の人たちと下船した。このあと両親の郷里である富山に直行する予定だったが、枕崎台風で寸断された鉄道の復旧が遅れ、博多で足止めにされた。未熟児で生まれた双子のめいが2歳をすぎても歩けなかったので、旅館に滞在して鉄道の復旧を待つことにした。
杉山さんは玄界灘を越えるとき、南太平洋のニューギニア島で戦死した兄の声が暗い海の底から聞こえてくるようだった。−−両親を頼む、妻と子どもを守ってやってくれ。
「兄は眠りきれずにいるのだと思いました」。杉山さんは声を詰まらせた。「母はあまりのショックに、音という音を聞きつけなくなっていました。心までなくしたようで悲しかったです」
戦争で困窮を極めた実情は、戦後間もない旅館の食事にも表れていた。大豆の中に米粒がわずかに入っている主食、具のない塩の汁と、煮付けはサツマイモにあらず、そのツルだった。昼食は枚数の限られたチケットを手に食堂の長い列に並んで、やっとカボチャの煮付けがひと皿もらえた。
杉山さんはめいに食べさせようと、闇市で苦労してサツマイモを手に入れた。適当な大きさの石を並べ、そこに飯ごうをかける。枯れ枝と落ち葉を集めて、火をつけようとしたときだった。韓国人の青年が話しかけてきた。軍属として日本に来ていたが、戦争が終わったので祖国に帰る船に乗るのだという。彼は飯ごうの座り加減を直してくれた。仲間の元に戻ると、米の入った袋を持って来た。
「私たちは韓国に帰るので、お米はいりません。遠慮しないで、これを炊いて食べてください」
杉山さんは今、振り返る。「あのとき炊きあがったご飯は、青年の心のように真っ白で、まさに銀飯でした。お金を出しても買えないお米をくれた韓国の青年の好意に、涙ながらに去ってきた国への慕情がほとばしった覚えがあります」
一方で、植民地の教師としてどうだったのか−−。8月15日を境に、杉山さんは自分に問いかけていた。
http://mainichi.jp/area/news/20130402ddn012040065000c2.htmlより、
「懸命に取り組んだ教師の仕事は、皇民化教育の押しつけにすぎなかったのです」。杉山さんは句切って続ける。「戦争に協賛し、純真な韓国の子どもたちを無理に日本人にしようとした皇民化教育の過ちを、私はどう償えばよいのだろうかと思うと、そのことが頭から離れなくなりました」
博多港で韓国に帰る青年の温かさにふれたがゆえに、杉山さんは強い自責の念に襲われるのだった。(次回は9日に掲載)