東京新聞【憲法と、】第1部 50年代の攻防

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/kenpouto/list/CK2013041902000225.htmlより、
東京新聞【憲法と、】第1部 50年代の攻防<1> 平和の願い 改憲阻む
2013年4月19日
(写真)市川房枝にあこがれ、女性の政治参画活動に身を投じた本尾良=東京都渋谷区の婦選会館で

 今夏の参院選の結果次第で、現実味を帯びる憲法改正。施行以来初の改憲となれば、国のありようを大きく変える可能性がある。岐路を前に考えたい。私たちの社会は、なぜ六十年余の間、憲法を変えないという選択をしてきたのか。第一部では、改憲論が最初に台頭した一九五〇年代に、その源流をたどる。

 空襲を逃れた東京・新宿の古い平屋の一室に、歴戦の女性活動家らが集った。五五年春、日本婦人有権者同盟の会合。初めて参加した本尾良(りょう)(82)=市川房枝記念会・前理事長=は結核の闘病を終え、上京したばかりだった。
 議題に上がったのは、女性を縛りつける家制度を復活させようとする憲法改正案。「国防の義務」「夫婦親子を中心とする血族的共同体を保護尊重」(自由党憲法調査会)など復古的な草案を政党や学者団体が発表していた。
 「反対集会をやろう」。にらみつけるような一同の真剣なまなざしに、本尾は「女性が差別され、選挙権もない時代に戻してはいけない」との思いを強くした。
 翌五六年春、札幌市の劇場で、自民党の中曽根康弘(94)と社会党の勝間田清一の講演会が開かれた。高校生だった保阪正康(73)=ノンフィクション作家=は学校を休んで友人と出かけた。若手論客の弁舌の巧みさに驚きながらも、漠然と危機感を覚えた。「憲法が変わって軍隊ができれば、徴兵される」
 同じ頃、中曽根作詞の「憲法改正の歌」の発表会が東京・有楽町の宝塚劇場で開かれている。「平和民主の名の下に/占領憲法強制し/祖国の解体計りたり」。映画スターや歌手も出演し、超満員。中曽根は、当時の首相だった鳩山一郎邸で開かれた前夜祭の一コマを紹介。鳩山は「涙で詰まって二番が歌えなかった。戦争に負けて悔しいから」と漏らしたという。
    ◇
 「米国の押しつけではない独自の憲法を」という改憲論が台頭したのは、連合国の占領が解かれた五二年前後。中心は、鳩山ら連合国軍総司令部(GHQ)に一度は公職を追放された保守政治家だった。
 世論も賛否が拮抗(きっこう)する中で行われた五六年七月の参院選。前年の衆院選に続き、憲法改正を阻止できる三分の一の議席を、革新勢力がぎりぎりで確保した。「憲法改悪反対」を旗印にした社会党の作戦が当たった。
 党本部の部長だった曽我祐次(87)は「本当は党内でも意見が割れていた。三分の一を取れなかったら、分裂して改憲に流れた勢力もあっただろう」と打ち明ける。
 自民党幹事長の岸信介は敗北を認め、「よく国民に理解させた上で民意を問う」と早急な改正を断念。日本の再軍備を求めた米国でも「憲法改正見込みなし」「非友好的な空気」と報道された。
 本尾はその時のことをうっすらと覚えている。「うちは夫の家族が宝塚の空襲で亡くなり、平和への思いが強かった。家族で喜びあったような記憶があります」=敬称略
(この企画は樋口薫、大平樹が担当します)

◆2013年の窓
 昨年衆院選で自民、日本維新の会など改憲勢力が三分の二以上の議席を確保。維新の党綱領は「絶対平和という非現実的な共同幻想を押しつけた元凶である占領憲法を大幅に改正」とする。安倍晋三首相は衆参両院で三分の二以上の賛成が必要な改憲発議の要件を、過半数に緩和する九六条改正を目指す。
 高見勝利・上智大教授(憲法)は「改正手続き自体を変えるというのは、憲法学的には想定外で、一種のクーデター」と指摘する。

 憲法にまつわる体験談や思い、この企画へのご意見をお寄せください。
Eメールはshakai@tokyo-np.co.jp
手紙は〒100 8505(住所不要)東京新聞社会部憲法取材班。
ファクスは03(3595)6917

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/kenpouto/list/CK2013042002000185.htmlより、
第1部 50年代の攻防<2> 判決に教わった9条
2013年4月20日
(写真)かつて在日米軍立川基地だった陸自駐屯地のフェンス脇で、砂川闘争を語る島田清作=東京都立川市で(久野功撮影)

 一メートルほどの高さの柵を倒し、学生たちが米軍立川基地(旧東京都砂川町、現立川市)内になだれ込んだ。警官隊は、有刺鉄線を広げて待ち受ける。大学生だった島田清作(74)=元立川市議=は、後続のデモ隊に押され後戻りできない恐怖の中で、足で押し返した有刺鉄線の硬さを覚えている。一九五七年七月八日のことだった。
 五五年、基地の拡張が公表され、土地を奪われる農民に、学生や労組が合流。警官隊と衝突を繰り返した。島田は兵庫県西宮市出身。小学生のときに、空襲で街が廃虚になる姿を目の当たりにした。「基地拡張は戦争をするということ」という思いがあった。
 大学生だった榎本信行(78)=弁護士=は近所だったので、好奇心で出かけた。炊き出しをする農家の女性から「憲法に軍隊はだめだと書いてある。米軍基地もだめだろう」と話しかけられた。
    ◇
 「日本の非武装化は誤りだった」。五三年十一月、来日したニクソン米副大統領=当時(40)=は日米協会主催の昼食会で演説し、軍事協力を呼び掛けた。平和憲法を求めた米国が、自国の軍事費を削減しつつ共産主義勢力と対抗するため、方針転換したことがあからさまとなった。
 「米国に押しつけられた憲法」と改正を訴えた政治家の論調に、ねじれも生じた。五四年三月の自由党憲法調査会初会合で、鳩山一郎は「(改憲で)冷却しつつあるアメリカとの関係をふたたび旧に復することができる」とあいさつ。七月には自衛隊が発足した。
 砂川闘争は、その日米関係にくさびを打ちかねない司法判断をもたらす。刑事特別法違反罪で起訴された学生ら七人に、東京地裁は五九年三月、無罪判決を言い渡した。米軍駐留を憲法九条違反と指摘。伊達秋雄裁判長の名から「伊達判決」と呼ばれる。
 伊達とともに判決に臨んだ裁判官、松本一郎(82)=独協大名誉教授=は、憲法公布直後は「米国に押しつけられた」と反感を抱いていたという。任官して学ぶにつれ、戦力不保持をうたう九条を「成立の経緯はどうあれ、大切にしないといけない」と思うようになる。米ソ冷戦に日本が巻き込まれることも心配だった。「改憲派の言い分は米国べったりで日本がステイツ(州)の一つになりかかっていると感じていた」
 伊達との議論は「駐留米軍が日本の戦力と言えるかどうか」が中心だった。当時、憲法違反の判例はほとんどない。「僕の前に道はない」という高村光太郎の詩の一節を思い浮かべながら原案を書いた。法廷で判決を読み上げる伊達は胸に辞表を忍ばせていた。
 検察は、高裁を飛び越えて最高裁に上告。結局、最高裁は伊達判決を破棄。差し戻し審で有罪が確定したが、九条の存在感は増す。弁護団事務局長内藤功(82)は「憲法をちゃんと使えば平和は守れるんだ」と感じ入り、イラク派兵など自衛隊の合憲性を問う訴訟に身を投じる契機になった。
 デモの先頭にいた島田は、新聞で伊達判決を知る。交渉が進む日米安保条約改正のことで頭がいっぱいの時だった。「憲法とはこういうことを決めているのかと、判決が気付かせてくれた」=敬称略

◆2013年の窓
 政府は自衛隊の海外活動を次々に増やす一方、憲法が禁じた「戦力」ではないとの立場を取り続ける。一九九〇年代から海外派遣を開始。二〇〇三年成立のイラク特措法で、戦闘が続く外国領土にも初めて派遣した。安倍晋三首相は今年二月、憲法解釈で禁じられた集団的自衛権の行使容認に向けた有識者会議を再開した。
 砂川訴訟では、最高裁判決前に米大使が田中耕太郎最高裁長官から越権的に情報収集していた事実が近年、米公文書から判明している。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/kenpouto/list/CK2013042102000167.htmlより、
第1部 50年代の攻防<3> 大衆の熱気 経済へ
2013年4月21日
(写真)岸信介の晩年の改憲運動を手伝った清原淳平=東京都千代田区で(樋口薫撮影)

 一九六〇年六月。首相官邸は「安保反対」を叫ぶデモによって、幾重にも取り囲まれていた。時の首相、岸信介から至急の呼び出しを受けた郵政相の植竹春彦は、レインコート姿で夜の闇に紛れ、裏口から執務室に入った。「NHKを守れ」。それが岸の指令だった。「デモ隊に占拠され、革命放送を流されたら大変だ」
 清原淳平(80)=新しい憲法をつくる国民会議会長=は岸の晩年、「私は死を覚悟したことが三回ある。東条英機内閣打倒の時と戦犯として巣鴨プリズンにいた時、そして安保の時だ」と胸中を打ち明けられた。
 首相が革命や死を意識するほど、高まりを見せた安保闘争。五月に日米新安保条約が国会で強行採決され、衆院を通過したことで、若者を中心に「民主主義の破壊だ」「米国の戦争に日本が巻き込まれる」と反発が広がった。
 当時、十八歳だった須藤瑛子(ようこ)(71)は、勤め先からの帰りにデモを見学した。米陸軍基地のある神奈川県座間市に住み、再軍備には反感があった。「ヘルメットをかぶった若者があちこちで警官と衝突し、怖くて近づけなかった。でも、心の中では『もっとやれ』と応援していた」
 条約の自然成立を控えた六月十八日の深夜には、三十万人ともいわれる人波が国会周辺を埋め尽くした。社会党本部職員で、デモ隊に指示を出していた大下勝正(86)=元東京都町田市長=は「必死で抑えようとしたが、収拾がつかない。ラジオで自然成立の報が入っても、皆『徹底してやれ』『殴り込みだ』と叫んでいた」と語る。
 混乱の責任を取り、岸は新安保条約の発効後に退陣。岸に二十回以上のインタビューを重ねた国際政治学者、原彬久(よしひさ)(73)=東京国際大名誉教授=は「日本の独立の完成という志が半ばに終わったことを、最後まで悔やんでいた」と証言する。
 原によると、岸にとっての「独立の完成」は改憲で海外派兵を可能にし、米国と対等な立場で相互防衛条約を結ぶことだった。それは「戦争が終わったばかりなのになぜ」(須藤)という若者の気持ちとは大きく食い違っていた。
 デモの群衆の熱気には別のまなざしも向けられていた。ノンフィクション作家の保阪正康(73)は後年に安保闘争の取材をした際、岸の後に首相となった池田勇人の秘書官、伊藤昌哉がこう話したのを覚えている。「このエネルギーを経済に向けたら、日本はすごい国になると思った」。次世代の保守は改憲を封印する。
 その後の経済成長を、国民も謳歌(おうか)した。憲法がうたう平和の重みを、須藤が考えるようになったのは還暦を過ぎてからだ。地元の反基地活動への参加がきっかけだった。原発も基地も「迷惑するのは次の世代」と考え、現在は毎週、官邸前での脱原発デモに足を運ぶ。「安保のデモは熱気こそすごかったけど一気に収束した。子や孫のために、息長く声を上げ続けたい」=敬称略

◆2013年の窓
 一九六〇年に締結された新安保条約は、現在に至るまで改定されず、効力を保っている。日本と中国が対立する尖閣諸島について、米政府は「条約の適用対象」と繰り返し表明。安倍晋三首相は、今年二月の施政方針演説で「安保体制には抑止力という大切な公共財がある」と強調した。
 一方、一度は忘れられた改憲論が再び盛り上がったのは、日本の経済が行き詰まり始めた九〇年代。渡辺治一橋大名誉教授(政治・憲法)は「憲法改正は、社会の不安や危機の時に論じられてきた。五〇年代は坂を上る前の不安、現在は下り坂の不安だ」と指摘する。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/kenpouto/list/CK2013042302000177.htmlより、
第1部 50年代の攻防<4> 学者の気骨 政府の「調査会」に対抗
2013年4月23日
(写真)憲法問題研究会の書記を務めた当時を振り返る池田政章=東京都練馬区で(樋口薫撮影)

 「日本一忙しいホール」と言われた東京・後楽園駅近くの文京公会堂は、約二千人の定員が毎年ぎっしりと埋まった。学者による護憲団体「憲法問題研究会」が、憲法記念日に開く講演会。中央大の法学生だった高見勝利(68)=上智大教授=も、一九六四年の入学から四年間通い詰めた。
 「民法の父」と呼ばれた我妻栄(わがつまさかえ)、多くの憲法学者を育成した宮沢俊義ら法学の大御所から、政治、経済、文学、理系まで。当代きっての知識人が結集した。憲法学の道に進んだ高見は「当時は知識人が社会をリードする最後の時代。きら星のように輝いて見えた」と振り返る。
    ◇
 研究会が対抗したのが、岸信介内閣が五七年に設置した議員と学識者による「憲法調査会」だった。改憲に必要な議席の獲得に失敗した保守勢力は調査会に改憲案を出させ、地固めを図ろうとした。
 そのもくろみは出だしからつまずいた。社会党とともに護憲派の大物法学者らがこぞって不参加を表明。焦った岸は、東大で首席を競った旧知の我妻に、調査会入りを頼んだ。だが「政府の人選では望む研究ができない」と固辞された。
 我妻らの研究会で書記を務めた憲法学者池田政章(87)=立教大名誉教授=によると、毎月の勉強会では政府の調査会の動向を気にかけ、改正案が出た時に備え、九条が集中討議された。
 最も熱を帯びたのは、六〇年の安保改定の時。会として抗議行動をすることに慎重な意見も出たが、政治学者の丸山真男が「戦争までの学者のあり方を考え、社会にそれを生かそう」と熱弁を振るい、声明を出した。池田は「戦争を止められなかった自責の念が、会を突き動かしていた。運命共同体のような感じがあった」と証言する。
 政府の調査会の報告書が出たのは六四年七月。賛否両論を併記し、結論は出さなかった。会長の法学者高柳賢三は「改憲派の多い偏った構成で多数決を取っても、世間の物笑いになるだけ」と説明。「研究会の無形の圧力を感じていたはず」と池田は推し量る。
 安保闘争の手痛い教訓を経て、首相池田勇人は「憲法改正は考えない」と明言していた。高柳は「九条は政治的宣言であり、自衛隊などの問題は社会の実情に照らし、政策的に判断するべきだ」と提唱。その後の政権が選択した「解釈改憲」路線を支えることになる。
 改憲派は失望した。調査会の資料作りに加わった小林昭三(86)=早稲田大名誉教授=は、報告書が発表された時の心境を「玉音放送の時に近い」と明かす。「改憲の世論喚起のために作られた調査会が、改憲派の息の根を止めた。こんな皮肉はない」
    ◇
 憲法学者小林直樹(91)=東大名誉教授=は、五〇年代の論争を「改憲派と護憲派の対立がクリアで、生々しい時代だった」と振り返る。学徒動員も経験した研究者の目には今の状況が「危険」に映る。「緊張関係が後退し、何となく憲法が変えられようとしている。もっともっと議論があってしかるべきだ」=敬称略、おわり
(この企画は樋口薫、大平樹が担当しました)

◆2013年の窓
 政府の憲法調査会は二〇〇〇年、約四十年ぶりに、衆参両院に設置された。〇五年四月の衆院調査会の報告書では、九条改正を多数意見として打ち出し、現在は後継の憲法審査会が活動している。学識者は参加せず、全委員が国会議員。
 一九五〇年代の調査会設置時の国会討論を著作にまとめた、ノンフィクション作家保阪正康さんは「憲法は『戦争はこりごり』という当時の空気を代弁している。史実を検証し、戦争体験者の感情を理解することが、改憲を論じるための資格だ」と語る。

 <憲法問題研究会> 1958年、経済学者の大内兵衛、法学者の我妻栄、ノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹らが呼びかけ、一線級の学者約50人で結成した。関東と関西に分かれ、76年の解散まで毎月の勉強会と年1回の講演会を開催。月刊誌「世界」などで成果を発表し、当時の知識層や学生らに影響を与えた。主な会員は政治学の南原繁、丸山真男、歴史学の家永三郎、文学の中野好夫、竹内好、哲学の久野収ら。既に全員死亡している。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中