【日米同盟と原発】第8回「勝者の驕り」

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201304/CK2013042602000190.htmlより、
東京新聞【日米同盟と原発】第8回「勝者の驕り」 (1)カーターの信念
2013年4月26日

 一九七七(昭和五十二)年に誕生したカーター米政権。国際社会に原子力技術を提供してきた政策を一変させ、核不拡散を掲げる。その二年後の七九年には米スリーマイル島原発事故が発生。世界の潮流が原発見直しへ向かう中、日本は原発大国の道をひた走る。その「原発ナショナリズム」の台頭は「日本の原発で事故は起きない」という過信を生み、東京電力福島第一原発事故の原因ともなった。当時、世界第二の経済力と高い技術力を背景に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ともてはやされた日本。原子力ムラに巣くった「勝者の驕(おご)り」と、その背景を探る。(文中の敬称略、肩書・年齢は当時)
 
◆米、核ドミノ警戒
 前大統領ニクソンが失脚したウォーターゲート事件後、初めてとなった一九七六(昭和五十一)年十一月の米大統領選。副大統領から昇格した共和党の現職フォード(63)を破り、ホワイトハウスの主となったのは民主党の新人カーター(52)だった。
 ジミー・カーター。八十八歳の今も健在だ。八一年に退任後は、故郷の南部ジョージア州で設立した平和団体を拠点に国際紛争の解決や難民救済などの民間外交を続ける。二〇〇二年にはノーベル平和賞も受賞した。
 ところが、一九七六年の大統領選当時はまったくの無名だった。ジョージア州知事を一期四年務めただけで、ワシントンでの政治経験は一度もなかった。
 米国は泥沼化したベトナム戦争とウォーターゲート事件でその威信に陰りが出ていた。国民の多くは牧師経験もある敬虔(けいけん)なキリスト教徒の新大統領に政治刷新と癒やしを期待した。
 翌七七年一月の大統領就任演説。カーターは「地上から核兵器を全廃するという目標に向かって一歩を踏み出す」と述べた。核兵器に転用可能な原子力技術を撤廃、制限する、いわゆる核不拡散政策だった。
 五三年、当時の大統領アイゼンハワーが「アトムズ・フォー・ピース(平和のための原子力)」と呼ばれる国連演説を行ってから二十年余り。この間、米国は平和利用を名目に、原発などの関連技術を国際社会に提供し「核の傘」を広げてきた。その原子力政策が百八十度転換されることになった。
 発端はカーターが大統領に就任するほぼ三年前の七四年五月。インドが北部ラジャスタン州で行った地下核実験だった。用いられたプルトニウムは、原発の使用済み核燃料から取り出した。その原発は原子炉がカナダ製、減速材に使う重水は米国から輸入したものだった。
 パキスタンとの国境紛争を抱えていたインド。「平和利用」を隠れ蓑(みの)に、核開発を進める実態が初めて明るみに出た。
 同様な動きは局地的な紛争を抱える中東や南米などにも連鎖的に広がり、世界が“核ドミノ”の脅威にさらされる危険性が高まった。
 インドの核実験から三カ月後の七四年八月。米中央情報局(CIA)の極秘報告書はこう記していた。
 「八〇年代には、核兵器の製造は技術的にも経済的にも多くの国で可能になる。核兵器がどこまで拡散するかは、原子力技術や物資の提供を含めた米ソの核政策による」
 カーター政権の核不拡散政策は、CIAの警告を受け入れたものだった。が、大統領自身の個性も影響している。
 戦前、大学で核科学と原子炉技術を学んだカーター。海軍入隊後は、原子力技術者として初の原子力潜水艦「ノーチラス号」の開発、設計にも携わった。そうした専門家ゆえの知識と経験が政策にも色濃く反映された。
 大統領就任からわずか三カ月後の七七年四月。カーターが発表した新たな米原子力政策には、核燃料再処理や高速増殖炉開発の見直しなどが盛り込まれた。世界をリードしてきた米国自ら最先端の原子力開発から事実上撤退する内容だった。
 カーター政権時、外務省科学課首席事務官だった現在七十六歳の金子熊夫は、親しい米外交官からカーターの几帳面(きちょうめん)な仕事ぶりの一端を聞かされた。
 「大統領を退任する日の朝まで公電に目を通していた。特に歴代の大統領が部下任せにしてきた原子力の問題には熱心だった」
 そのカーターの冷徹な目は、原発大国への道を歩み始めていた同盟国、日本にも向けられていた。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201304/CK2013042602000191.htmlより、
第8回「勝者の驕り」 (2)お座敷に軍艦マーチ
2013年4月26日
(写真)マンスフィールド大使が77年7月12日付でバンス国務長官に送った極秘電文のコピー。カーター大統領はこれを読み、電文右上に「マンスフィールドに私自身が妥協の決定を迅速に行うと伝えてくれ。彼から福田(首相)に話してもらっていい。遅滞なくオプション(選択肢)を示してほしい。JC(ジミー・カーターの略)」と手書きし、長官に返した。「Cy」は長官のファーストネームのサイラス(Cyrus)の略

◆日本、引けぬ交渉
 カーター政権が日本に懸念を示したのは、一九七七(昭和五十二)年中の運転を目指していた茨城県東海村の再処理施設。原発の使用済み核燃料から核兵器に転用可能なプルトニウムを取り出す再処理施設は、核兵器を保有する米ソ英仏中の五カ国以外では初めてだった。
 日本の立場は、再処理で取り出したプルトニウムを全量、高速増殖炉や軽水炉のプルサーマル発電で燃やす再利用だった。七三年の石油ショックで悲哀を味わった資源小国にとって「核燃料サイクル」は悲願であり、再処理はその中核を担う事業との主張だった。
 しかし、カーター政権は日本に例外を認めれば、核不拡散政策は政権発足直後からつまずきかねないとして、日米原子力協定を盾に中止を迫った。再処理路線は歴代の米政権が認めてきただけに突然の方針転換は、日本にとって“寝耳に水”だった。
 「運転直前になって制限しようとするのはひどいじゃないかと、相当ショックを受けた」。日米交渉を担当した現在八十三歳の元外交官、矢田部厚彦は、当時の日本側の雰囲気をこう語る。
 日米が激突したのは七七年三月にワシントンで開かれた首脳会談。カーターは当時首相の福田赳夫(72)に「再処理は必要ない」と、テーブルに英文の報告書を放り投げた。
 米国のエネルギーや経済の専門家ら二十一人がまとめた「フォード・マイター・リポート」。四百ページを超える膨大な分量で「再処理は核兵器転用の危険がある。発電コストの削減も少ない」などと書かれていた。
 当時、外務省科学課長で現在七十六歳の太田博は、首脳会談を終えた首相福田が強い口調でこう憤慨していた、と証言する。
 「日本は平和利用に徹している。核拡散の危険なんてない。疑うとは心外だ」
 ところが日本を疑っていたのは米国だけではなかった。
 東海再処理の事業主体、動力炉・核燃料開発事業団(現・日本原子力研究開発機構)の幹部だった現在九十歳の中島健太郎。アフリカのザンビア駐日大使との会話で、こんなエピソードがあったことを打ち明ける。
 「『プルトニウムの何パーセントを平和利用に使うのか』と質問されたので『100%だ』と答えたら、信じられないという顔をされた。『再処理して核兵器を造らないわけがないだろう』というのが世界の常識だった」
 七七年四月にスタートした日米再処理交渉。日本側責任者は科学技術庁(現・文部科学省)長官の宇野宗佑(54)だった。
 元科技庁事務次官で現在七十一歳の石田寛人は、宇野が「日本は世界経済の原動力。エネルギーを支える原子力計画に水を差されては、世界をけん引できない」と決意を語ったのを覚えている。
 後に首相に上り詰めるが、在任わずか六十九日間でその座を追われる宇野。原因は東京・神楽坂の芸妓(げいぎ)との女性スキャンダルだったが「このころからお座敷遊びが好きだった」と、当時支えた官僚らは口をそろえる。
 事務レベル交渉で何度も来日した米国務次官付上級原子力補佐官シャインマン。宇野はやはり神楽坂の料亭でもてなした。
 同席した現在七十六歳で当時、科技庁の調査国際協力課長だった川崎雅弘によると、宇野はシャインマンの名を「輝く男」と日本語に訳して、こう持ち上げた。「日本には源氏物語という有名な作品がある。主人公はあなたに似た光源氏という名前で、女性によくもてる」
 時にはお座敷で得意のハーモニカも披露。「軍艦マーチ」を吹いて日米の担当者を笑わせ、場を和ませたという。宇野が神楽坂でハーモニカを吹いていたころ、ホワイトハウスの空気も微妙に変化し始めた。
 米ジョージア州アトランタのジミー・カーター図書館に保管されている内部文書によると、交渉開始からおよそ二カ月後の五月三十一日、大統領補佐官ブレジンスキー(49)はカーターに「東海は(七月の)参院選で主要争点の一つになる」と、政治問題に発展する懸念を伝えた。
 一カ月半後の七月十二日。米駐日大使マンスフィールド(74)は「将来の日米関係のために妥協が必要」との極秘電文を国務長官バンス(60)に送っている。
 その三日後、バンスから報告を受けたカーターは福田に書簡を送り「双方の利益を受容できる妥協を見いだせると確信し、努力を尽くす」と、譲歩する構えを示した。
 マンスフィールドの評伝「マイク・マンスフィールド」(二〇〇五年発刊)によると、この時の書簡は「バットマン・チャンネル」と呼ばれる日米の両首脳を直接結ぶ非公式の電信で送られた。
 全面対決から妥協へと向かい始めた日米の再処理交渉。落としどころを探るキーマンとなったのは「ハーモニカマン」でも「バットマン」でもなく、地球を一周した元宇宙飛行士。民主党の有力上院議員グレン(56)だった。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201304/CK2013042602000192.htmlより、
第8回「勝者の驕り」 (3)再処理 経済力でもぎ取る
2013年4月26日

◆英雄グレン動く
 民主党の上院議員グレンが極秘に来日したのは一九七七(昭和五十二)年八月下旬。日米再処理交渉が妥協点を探り始めたころだった。グレンはその地ならしに向け、大統領カーターが派遣した密使だった。
 六二年に米国で初めて地球を回った元宇宙飛行士。「国民的な英雄」とたたえられた人気を背景に七四年、米中西部オハイオ州選出の上院議員に初当選し、政界入りした。
 国際関係や核問題にも精通し、まだ一期目だったが、上院エネルギー・核拡散問題小委員会の委員長も務める実力者。州知事から大統領になったばかりのカーターにとってグレンは頼りになるブレーンだった。
 そのグレンの来日は一部の日米関係者を除き秘密にされた。公式協議に参加しなかったグレンは「外務省の一室にこもり、大川美雄国連局長と話し合っていた」と、外務省科学課首席事務官だった金子熊夫は証言する。
 それまでの日米事務レベル交渉で、米側は再処理施設の運転条件としてプルトニウム単体ではなくウランと混ぜて取り出す混合抽出法を提案していた。核兵器の転用に一定の歯止めをかけるためだった。ところが、日本側はコストや技術的な難しさを理由に難色を示していた。
 「ビールをつくる機械でサイダーをつくれと言っているようなもの」。首相福田赳夫はそう言って、米側の提案をこき下ろした。
 密使グレンが帰国してから数日後の九月一日。東京で開かれていた再処理交渉は最終日を迎えた。事務レベルの協議で目立った進展はなく、交渉団の一員だった金子も「今晩はやけ酒でも飲むか、と仲間と話していた。あきらめムードだった」と当時を振り返る。
 ところが、米特別代表スミス(63)は予想に反し、日本側の主張を丸呑(の)みする。その場にいた当時、外務省科学課長の太田博は、日本側の驚きぶりをこう表現する。「一斉に『おおー』という声が上がった」
 日本の主張は日本が現時点で混合抽出ができなくても、将来的な課題として取り組むという内容。裏付けのない努力目標にもかかわらず、米国側は受け入れ、日本の再処理を認めた。
 首席事務官だった金子は「再処理で恩を売って、経済面で日本の譲歩を取ろうとしたのではないか。こちらが思う以上に米国は交渉をトータルで考えていた」と話す。
 当時、日米間の最大の懸案は貿易摩擦。七三年の石油ショック後、燃費に優れた日本の小型車は米国市場でシェア(市場占有率)を伸ばし、米三大自動車メーカー(ビッグスリー)を脅かしていた。その米自動車産業の拠点の一つが、あの上院議員グレンの地元、オハイオ州だった。
 日米再処理交渉が決着した四年後の八一年。通商産業省(現・経済産業省)はトヨタ自動車など大手メーカーに対米輸出の自主規制を要請する。しかし、自主とは名ばかりで、実態は日本政府が摩擦緩和を名目に米国の自動車産業を事実上救済するものだった。
 再処理施設は七七年九月二十二日、当初より二カ月遅れで念願の試験運転に入る。プルトニウムを取り出したのはその年の十一月六日で、その量わずか八百二十グラム。これが、対米交渉に半年を費やし、当時、世界第二位の経済力を使ってまで、日本が手に入れたかったものだった。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201304/CK2013042602000193.htmlより、
第8回「勝者の驕り」 (4)IAEAは産業スパイ
2013年4月26日

◆民が政府けん引
 日本の核燃料再処理を例外的に認めた米国。それでも、日本の核兵器転用に対する疑いを晴らしたわけではなかった。
 交渉終盤の一九七七(昭和五十二)年八月三日付の極秘文書。米原子力規制委員会(NRC)は大統領補佐官ブレジンスキーに「(混合抽出法であっても)分離する施設があればさほどの困難もなく、数日でプルトニウムを取り出せるだろう」との懸念を伝えた。
 合意二日前の八月三十日。国務副長官クリストファー(51)が大統領カーターにあてたメモには「スミス(米特別代表)が推薦する解決策は、米議会で批判される可能性があることを承知しておいてください」とあった。
 米国の疑念は八〇年代、青森県六ケ所村の再処理をめぐる日米原子力協定の改定交渉で蒸し返される。
 原子力の平和利用を掲げる日本。しかし、七〇年に発効した核拡散防止条約(NPT)に批准したのは六年後の七六年だった。NPTは国際原子力機関(IAEA)の査察を義務づける。日本は「核の番人」を拒み続け、結果として国際社会に核武装の懸念を抱かせた。なぜ、日本は批准を遅らせたのか。
 当時、科技庁原子力安全局長だった現在八十九歳の伊原義徳は「国際規制を受けることに自民党の先生らの強い反発があった。核のポテンシャル(潜在力)まで否定してはいけないという人もいた」と証言。核保有の五カ国は査察を免れるNPT体制を「不平等」と、公然と批判する意見もあった。
 現在七十一歳で、外務省科学課職員だった高倍宣義によると、批准に反対する右翼団体が外務省前で発煙筒をたいたり、街宣行動を続けていた。「右翼の方と東口の面接室で会った。会わないと収まりがつかなかった」と当時を振り返る。
 高倍はこうも言う。「産業界からも査察が入ると仕事の支障、負担になり、産業機密の漏えいにもなるという懸念が出ていた」
 当時、三菱金属鉱業(現・三菱マテリアル)の技術者で、後に会長に上り詰める現在八十四歳の秋元勇巳。「このころ、ウラン濃縮技術の開発で各社が競っていた。ノウハウが漏れたら、大変だと思った」と話す。
 日本の産業界にとって、IAEAは「核の番人」ではなく「産業スパイ」に映った。外交史料館に残るNPT交渉ファイルが語る。
 七三年五月十七日、東京・飯田橋のホテルで開かれた会議。「産業界に悪影響を及ぼさないようにしてほしい」「ウラン濃縮施設は機密保護が必要」。東京電力や日立製作所、三菱金属など電力や原子力関連メーカーの担当者らは、出席した科技庁や通産省の官僚を突き上げた。
 ファイルには、七二年六月にウィーンで開かれるIAEAとの交渉に日本原子力発電の技術者、今井隆吉(43)の同行を計画する外務省文書もあった。朝日新聞記者から原電入りした今井は原子力産業界の論客として知られていた。
 外務省科学課長だった七十八歳の田中義具(よしとも)は「当時、省内に原子力を理解できる人はいなくて、今井さんに頼り切りだった」。日本原子力産業会議(現・日本原子力産業協会)の元事務局次長で、八十八歳の末田守は「原子力は今井さんら民間の専門家が政府を引っ張っていた」と話す。
 戦後の米ソ冷戦下、政官が米国の技術を導入する形で始まった日本の原子力。しかし、めざましい経済成長を遂げる中で、その主導権は電力や原子炉メーカーなど民間の産業界に移る。それが結果として、政府の規制を遅らせ、民の暴走を招くことになる。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201304/CK2013042602000194.htmlより、
第8回「勝者の驕り」 (5)「日本で大事故はない」
2013年4月26日
(写真)事故直後に米スリーマイル島原発の中央制御室を訪れ、NRCの職員から説明を受けるカーター大統領夫妻。放射線防護用のブーツをはいている=UPI・共同

◆後手に回る規制
 日米再処理交渉の決着から一年半後の一九七九(昭和五十四)年三月二十八日。日本は再び米国を発信源とするニュースに襲われる。米スリーマイル島原発事故だった。
 事故を起こした2号機は、加圧水型軽水炉。当時、十九基の原発が立地していた日本で、加圧水型は関西電力の美浜、大飯原発など八基あり、事故原因によっては日本も対策を迫られた。
 対応を担ったのが原子力安全委員会。原子力船「むつ」の放射能漏れ事故を契機に設置された原子力の規制組織で、当時はまだ発足して半年ほどだった。スリーマイルはその存在意義が問われる試金石となった。
 事故二日後の三十日に開かれた臨時会。八時間にも及ぶ審議の後、委員長吹田徳雄(67)がマスコミの前で談話を読み上げた。日本原子力産業会議編「原子力は、いま」(八六年発刊)によると、こんな内容だったという。
 「事故の原因となった二次系給水ポンプ一台停止、タービン停止がわが国の原発で起きても、TMI(スリーマイル事故)のような大事故に発展することはほとんどありえない」
 事実上の「安全宣言」だった。しかし、米国ですらまだ十分な原因調査が行われていない段階。身内からも疑問の声が出た。
 科技庁原子力安全調査室長で、現在七十八歳の佐々木寿康。事故当時は安全委の委員で、物理学者の田島英三(66)と出張先のワシントンにいた。委員長談話は東京からの電話で聞いた。
 佐々木が保管する日記には、こう書かれてあった。「田島先生の部屋でウイスキーを飲みながら『確かなデータがない現時点での安全宣言はまずい』と話をした」
 安全委が方針を変えたのは事故からほぼ二週間後の四月十四日。加圧水型で唯一運転中だった関電大飯原発1号機(福井県おおい町)の停止を命じた。事故を調査していた米原子力規制委員会(NRC)が、日本の軽水炉でも緊急炉心冷却装置(ECCS)に構造的な欠陥がある可能性を示す報告をした後だった。
 後手に回った安全委の対応。当時、科技庁原子力安全調査室係長だった現在六十三歳の国谷実は、電力会社を所管する通産省が停止に反対していたことを明かした上で、こう話す。
 「通産は電力会社のエージェント(代理人)のようだった。大飯を止める時も、通産省は『一日止めると一億円が無駄になる』と最後まで抵抗した」
 スリーマイル事故から二年後の八一年四月に発覚した日本原子力発電敦賀原発(福井県敦賀市)の放射能漏れ事故もそう。作業員がタンクのバルブを閉め忘れ、放射性物質を含んだ廃液が海に漏れ出た事故は福井県衛生研究所のモニタリング調査で初めて分かった。
 海藻のホンダワラから通常値を超える放射性物質コバルト60を測定したのは当時、研究所職員で現在六十六歳の吉岡満夫。「原電に報告したが、担当者は『測り間違いじゃないの』という態度だった」。原電が事故を公表したのは吉岡の報告から十日後だった。
 敦賀原発では事故前にも、国の許可が必要な配管のひび割れ工事を勝手に行うなどトラブル隠しがあり、国会で問題視されていた。福井県原子力安全対策課の若手職員だった五十八歳の岩永幹夫は「原電は発電所のことは何でも知っているような感じ。国より上のように振る舞っていた」と振り返る。
 当時、原電の技術部長だった現在八十六歳の板倉哲郎は「原子炉を止めると何億円という損失が出る。通産へ報告するのは簡単ではなかった」と話す。
 五九年から原発を取材していた読売新聞元科学部記者で、現在八十歳の中村政雄。「当時も今も国には十分現場を経験した人が少ない。事故があるたび保安官や検査官を増やすが、まったく実力はない」と、政府規制のお粗末さを嘆く。
 米国はスリーマイル事故を教訓に、NRCの独立性や権限を強化するなどチェック機能を高めた。ところが、日本は敦賀原発事故で、通産省が六カ月間の運転停止処分を課しただけで、抜本的な安全対策を先送りした。
 スリーマイル事故が起きた年、米社会学者エズラ・ボーゲルのベストセラー「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が発刊された。
 高い技術力と勤勉な労働力が世界から称賛された日本の産業界。原子力では事故で原発の新増設が事実上凍結された米国に代わり、日本が世界をリードするようになる。しかし、その自信はやがて過信へと変わり「日本の原発で事故は起きない」という安全神話を生む契機となった。
 東京電力福島第一原発事故が起きたのは、それから三十年余り後。原因究明を行った国会事故調査委員会の報告書には、こんなくだりがある。
 「想定できたはずの事故がなぜ起こったのか。その根本的な原因は、日本が高度経済成長を遂げたころにまで遡(さかのぼ)る。(中略)経済成長に伴い『自信』は次第に『おごり、慢心』に変わり始めた。(中略)世界の安全に対する動向を知りながらも、それらに目を向けず安全対策は先送りされた」

 <スリーマイル島原発事故> 米ペンシルベニア州のスリーマイル島原発2号機で運転中に原子炉の圧力を逃す弁が故障し、冷却水が流出した。緊急炉心冷却装置(ECCS)が起動したが、水位計を見誤った運転員が原子炉は満水だと勘違いして手動で停止。この間、原子炉の「空だき状態」が2時間18分続いてメルトダウン(炉心溶融)が起き、放射性物質が大気中に漏れた。
 州政府は30日に非常事態宣言を発令。原発から8キロ内の妊婦と子どもを避難させ、16キロ以内の住民に外出自粛を呼びかけた。事故は、運転員の不適切な操作と設備の欠陥や管理体制の不備などが重なったのが原因だった。
 国際原子力事象評価尺度(INES)は「レベル5」。86年のソ連チェルノブイリ原発事故(レベル7)が起きるまで史上最悪の原発事故だった。

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