「主権回復の日」に考える 日本の真の独立を思う

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013042802000135.htmlより、
東京新聞【社説】週のはじめに考える 日本の真の独立を思う
2013年4月28日

 きょう二十八日は主権回復の日。天皇、皇后両陛下も出席されての初の式典開催ですが、沖縄の当然ともいえる反発があっては虚心にはなれません。
 サンフランシスコ講和条約が発効した一九五二年四月二十八日はどんな日だったか。データベースを検索して当時の新聞各紙を読み比べると、歓喜と不安が交錯する日だったことがわかります。
 六年八カ月の軍事占領からの解放。中日新聞(当時中部日本新聞)は一面に「雲ひらく」と題した横山大観画伯の大きな多色刷り富士山頂図を奮発しています。

◆歓喜と不安交錯の記念日
 朝日新聞は天声人語の「二つの日本に分割されなかった幸い」や「有史以来初の主権在民の独立国になったのである」に高揚感を漂わせます。「自主独立が外交の基本」-夕刊紙だった東京新聞はこの朝の吉田茂首相と内閣記者団との一問一答を掲載しています。
 不安は東西冷戦に由来します。五〇年六月、北朝鮮軍の砲撃から始まった朝鮮戦争は、死者四百万~五百万人、その大半が一般市民という凄惨(せいさん)な事態となりますが、まだ休戦に至っていません。講和も旧ソ連や大陸の中国との締結のない単独講和でした。
 中日新聞に「独立に想(おも)う」を寄稿した社会学の清水幾太郎は「アメリカのソ連包囲網の一環になったまでのこと。新しい大戦の危険は大きい」と不気味な予言。「八千五百万人の日本人が独立の気力をもって現実に働きかければ」と期待しました。「共産主義が歴史の必然」ともいわれた時代。世界の行方などわからないものです。
 講和条約と同時に発効した日米安全保障条約によって、西側陣営に立ち、反共の砦(とりで)の役割を担うことになった日本。戦後社会をけん引したのは吉田首相の軽武装・経済重視の「吉田ドクトリン」路線でしたが、最近の昭和史研究や豊下楢彦前関西学院大教授の「昭和天皇・マッカーサー会見」(岩波現代文庫)は、外交、防衛、安全保障面で昭和天皇の果たした役割の大きさを明らかにしています。昭和天皇の沖縄メッセージや講和条約交渉への天皇の介入は、沖縄の運命や日本の防衛や安全保障に決定的だったように見えます。

◆沖縄の犠牲に支えられて
 沖縄メッセージは四七年九月、天皇御用掛の寺崎英成氏が連合国マッカーサー総司令部に伝えた極秘メッセージ。天皇が米軍の沖縄占領継続を希望し、占領は長期租借(二十五年ないし五十年、あるいはそれ以上)で-などの内容。七九年の文書発掘は沖縄に衝撃を与え、その後、入江侍従長の日記で内容がほぼ事実と確認されたことで、沖縄の人々は大きく傷ついたといわれます。
 豊下前教授はダレス米国務省顧問を相手にした講和条約、安保条約交渉でも、吉田首相と昭和天皇の二重外交があったことを論証しています。当時の天皇にとっての脅威は朝鮮半島にまで迫った共産主義でした。共産主義から天皇制を守ることは日本を守ることでもあったのでしょう。戦争放棄の憲法と非武装となった日本で天皇が頼ったのは米軍、それが沖縄占領継続の希望や基地提供でした。
 そこにはパワーポリティクスや外交的駆け引きの余地はなく、ダレスに対日交渉での当初からの目論見(もくろみ)「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利の確保」を勝ち取らせることになってしまいました。およそ独立にふさわしくないこの条約は、今も日米地位協定の不平等のなかに潜まされ、変えられていません。
 講和条約三条で沖縄は本土から分離され米国の施政権下に移されました。講和条約や安保条約の成立過程の検証は、本土の独立が沖縄の一方的犠牲の上に築かれていることを教えます。
 沖縄への理不尽は、世界一危険な普天間飛行場移転問題に集約的に現れます。沖縄の四十一全市町村長の反対にもかかわらず、政府は県内の辺野古移転を変えません。米軍の移転候補基地の比較衡量で満点は「本土の自衛隊基地」。辺野古への固執は本土移転回避の政治的理由としか思えません。
 日米安保の重要性は否定できません。それなら負担は国民が等しく、本土でも米軍基地を引き受けていくべきです。憲法改正に声高な政府や政治家が日米地位協定改定には及び腰なのはなぜか。国民のために当たり前のことを主張し要求していくのが独立国の政府、正しいことに勇気をもって立ち向かうのが独立国の国民。

◆日本全体で考える
 昭和を継いだ今上天皇の沖縄への思いはことに深いようです。昨年十二月の七十九歳の誕生日のお言葉は「日本全体の人が沖縄の人々の苦労を考えていくことが大事」でした。沖縄こそ真の主権回復の一歩にしたいものです。

http://www.nikkei.com/article/DGXDZO54486670Y3A420C1PE8000/より、
日経新聞 社説 「主権回復の日」に考えるべきは何か
2013/4/28付

 61年前のきょう、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復した。政府はこれを祝う「主権回復の日」記念式典を初めて開催する。この行事をどう受け止めたらよいのだろうか。
 政府内には講和条約締結60年だった2年前から祝賀行事を開いてはどうかという声があったが、民主党政権下で日米関係がぎくしゃくして見送りになった。野党だった自民党は衆院選の公約に式典開催を明記した。その実行である。
 気になるのは行事の前史だ。1997年に「主権回復の日」の政府式典開催を求める学者らが集会を開いた。趣意書には「占領軍即席の憲法」との表現がある。参加したのは、先の戦争は聖戦で、東京裁判は不当な断罪と考える人たちが多かった。
 政府式典がこの延長線にある行事だとすれば、多くの国民が首をかしげるだろう。自民党もその時点では式典開催に動かなかった。きょうの政府式典を開く原動力になった主権回復記念日議員連盟の考え方はこれと同じではない。
 そもそも日本はなぜ主権を失ったのか。正義は日本にあったが、力及ばず負けたからなのか。そうではなく、日本が誤った道を選んだことこそ原因ではないのか。議連の野田毅会長は戦後日本の出発点の日を明確にすれば、それまでの日本がどんな失敗をしてきたかが浮き彫りになると説く。
 日本は戦争責任がどこにあるかを曖昧にしてきた。それが歴史認識の食い違いを生み、戦後68年を経てもときに周辺国とあつれきを生む一因になっている。
 戦争に突き進んだ道筋を振り返れば、中韓との関係改善の道もみえてこよう。政府式典の正式名称に「国際社会復帰」という単語が足された狙いもそこにある。
 61年前の主権回復の枠外に置かれた沖縄では「我々を見捨てた日を祝うのか」との反発が出ている。仲井真弘多知事は「県民には複雑な感情がある」と式典への出席を見合わせた。そうした心情も理解する必要があろう。
 ただ、主権を取り戻した日本が米国に粘り強く働きかけ、長い交渉を経て返還にたどり着いた経緯も忘れてはならない。
 沖縄との溝はどうして埋まらないのか。答えを出すには本土の人がその疑問を意識する機会が多いほどよい。「主権回復の日」はそんな日にもなり得る。じっくりと考えたい。

http://mainichi.jp/opinion/news/20130428k0000m070083000c.htmlより、
社説:4・28を考える 国際協調確認する日に
毎日新聞 2013年04月28日 02時30分

 61年前の4月28日、前年に締結したサンフランシスコ講和条約が発効し、日本は7年近い占領状態に終止符を打ち、独立を果たすことができた。政府は、この日を「主権回復の日」として天皇、皇后両陛下を招き記念式典を行う。せっかくの機会である。私たちは、独立をはさんだこの間の国の歩みを改めて振り返り、今後どう世界の中で生きていくのか、国民的議論を深めていきたい。
 今さらではあるが、式典開催そのものには唐突な印象がぬぐえない。自民党の政権公約に眠っていたものが3月の衆院予算委の安倍晋三首相の前向き答弁でにわかに実現の運びとなった。自民党内にも異論があったようだが、首相が押し切った。

 ◇沖縄の「屈辱」に配慮を
 経済アベノミクスが比較的順調に動き出したこともあり、首相の念願でもある憲法改正といった政治的課題についても一歩進めようとした、との観測がある。天皇の政治利用との批判もあるし、来年以降どうするか、についても不明瞭である。
 といっても、近代国家として主権回復と独立を節目として位置付けること自体には異論はない。問題はその日をどういう日にするかである。
 まずは、独立が全面的な主権回復ではなかったことを忘れてはならない。沖縄、奄美、小笠原は米国の統治下に置かれたままにされ、特に沖縄は1972年5月15日の本土復帰まで、米軍の支配下にあった。沖縄の人々がこの日を「屈辱の日」とし、仲井真弘多知事が自らは出席せず副知事の代理出席としたことに思いを致すべきだ。沖縄は、現在も戦略上の拠点として、日本の米軍基地の74%が置かれている。オスプレイの強行配備が既成事実化され、出口の見えない普天間問題を抱えている。
 4・28は、日本独立の影の部分としての沖縄問題に光を当て、5月15日の返還記念日まで思いをつなげたい。今一度沖縄の過重な基地負担の実態を直視し、軽減の具体策を国民全体で論じ合う場にできないか。
 そのうえで、4・28をどう位置づけるか、三つの視点から考える。
 第一に、戦後の日本の平和立国の原点として評価したい。この日は、サンフランシスコ条約と日米安保条約が同時に発効した日である。前者は、日本を独立国家として国際社会に復帰させてくれ、後者は、米国の軍事駐留を認める代わりに戦後日本を吉田茂元首相の軽武装経済重視路線にまい進させてくれた。
 そのおかげで、戦前あれだけの軍事偏重国家だった日本が、独立後は一回の戦争もせず、一人の戦死者も出さずにすみ、奇跡とも言える経済大国への道を歩むことができた。これは戦後政治の大きな収穫だった。

http://mainichi.jp/opinion/news/20130428k0000m070083000c2.htmlより、
 占領体制下での先人たちの労苦をしのぶことも大切だ。完膚なきまでの敗戦と焼け跡闇市の中でいかに立ちあがり、どう独立の道を勝ち取ったのか。占領体制へのかたくなな否定や押し付け憲法論を超える議論をしてみようではないか。
 もちろん、この問題にも影が宿る。あまりにも米国におんぶに抱っこで外交、安全保障で日本が自主性を失っているとの批判である。確かにそういう面もある。だからといってサンフランシスコ体制の成功体験を否定することはできない。足元を固めつつ、相対的な自主性を回復すべく長期戦略を練るべきであろう。

 ◇戦争責任の総括が必要
 第二に、あの戦争になぜ追い込まれたのか、戦争責任を含めてその国民的総括をする機会にしたい。私たちはすでに8・15という記念日を持つが、4・28は、独立後の実績を踏まえた視点から重層的に敗戦に至る経緯、真因を振り返ってみたい。
 4・28記念日推進者の一人、自民党の野田毅衆院議員は「4・28から8・15までをセットにして日本がなぜ主権をなくしたのか、その間どういう占領下の政治が行われたのか。主権回復とはどういうことか、若い世代に知ってもらいたい」と語る。戦争総括の視野を広げ、若い世代にも共有してもらうとの趣旨は賛同できる。その場合、A級戦犯を有罪とした東京裁判の結果を私たち国民が改めてどう判断し戦争責任を突き詰めていくのか。さらにはA級戦犯を合祀(ごうし)した靖国神社への首相参拝をどう考えるのか。逃げずに考えたい。
 第三に、過去を振り返るだけではなく未来に進む道を展望する日にしたい。カギは国際協調路線にあるのではないか。戦前の日本の曲がり角は、1920年代から30年代にかけて、排外主義的対外強硬路線の大声が、国際協調路線の良識を弱腰とばかりにかき消した歴史にある。4・28の独立後にはその反省から国際協調の旗を高々と掲げ、アジアの国々とは誠意を持って戦後処理を積み重ね、国連中心主義による多大な経済的貢献で平和立国を維持してきた。
 最近の安倍首相の靖国や歴史認識をめぐる一連の言動は、その道を踏み外すのではないか、との懸念を感じさせる。さすがに米国からも懸念する声が出て首相も軌道修正を図っている。今は目の前にある諸課題に全力を挙げるべきではなかろうか。
 4・28は、安倍政権にとっても日本にとっても、改めて戦前の日本と一線を画し、国際社会の一員として歩む決意を再確認する日にしよう。

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