「古い憲法観」と言われる驚き 小林節氏

http://www.nnn.co.jp/rondan/ryoudan/index.htmlより、
一刀両断 -小林 節-
「古い憲法観」と言われる驚き
日本海新聞 2013/4/30の紙面より

 4月26日(金)に、ある大手新聞社が、1年余の議論の成果として、「国民の憲法」要綱なるものを発表した。

 一読して、賛成の点も反対な点もあるが、それらは今後の論争の中で生産的に昇華して行けば良い。

 ただし、一点だけ、今、看過できないことがある。それは「憲法観」(つまり憲法の「定義」)である。

 標準的な理解によれば、まず通常の「法律」は国家(国民代表の国会)の意思として国民(大衆)の行動を縛るものであるのに対して、「憲法」は、主権者国民の意思として権力者(政治家他の公務員)が権力を濫(乱)用しないように縛るものである。

 ところが、今回のその新聞社の憲法要綱は、この標準的な憲法の定義(常識)を「絶対王制からの解放を目指した初期立憲主義の古い憲法観だ」と切り捨ててしまっている。そして、要するに、(国家と国民を対立関係として捉えるのではなく)国家と国民は、より良き国家づくりを目標に、ともに力を合わせて行動する協働関係にあると見るべきだ…という前提に立っている。

 これは、議論に際して、議論の前提を動かしてしまう暴挙で、何よりも、もっと丁寧な説明が必要でなかろうか。

 近代市民革命で「確認」された憲法観は、(古今東西に共通する)権力(ひいては人間)の本質に着目してのものである。つまり、「絶対的な権力は絶対に堕落する」と言われるように、個人としての自然の能力を超えた権力を託された者は、常に、それを乱用する危険性をはらんでいる。そしてそれは、それが絶対王制だからではない。つまり、それは人間の本性(本来的不完全性)に由来するものである。

 例えば、借りたお金は返さなければいけない…などという当たり前なことでも守れない者がいるから、古今東西どこにでも民法は存在したし存在する。また、カッとなって他者を傷付けてはいけない…などという当たり前なことでも守れない者がいるから、古今東西どこにでも刑法は存在したし存在する。

 このように、私たち人間の本質が不変である以上、急に、今、「もう近代ではなく現代なのだから」権力の本質に対する警戒を緩めよ…と権力者の側が大衆(非権力者)に対して法的に要求出来る制度を唐突に提案されても、素直にうなずけるものではあるまい。
(慶大教授・弁護士)

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