東京新聞【憲法と、】第2部 救われた人生

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/kenpouto/list/CK2013050302000188.htmlより、
東京新聞【憲法と、】第2部 救われた人生<1> 声失った市議 代読質問 5年半裁判に勝利
2013年5月3日
(写真)「憲法を生かすことができて良かった」との思いをかみしめる小池公夫さん=岐阜県中津川市で(加藤晃撮影)
 
 
 日本国憲法には国民の自由と権利を守る規定がぎっしりとつまっている。実現するのは国家の責務だが、政治や行政が当たり前の権利を侵すことがある。そんな時に憲法はとりでとなる。昨年十二月の安倍政権発足で改憲に向けた動きが進む今、憲法という光が六十六年間、照らしてきたものを見つめる。

 うさぎ追いし
 かの山
 こぶな釣りし
 かの川

 カセットデッキから流れたのは、岐阜県中津川市議(当時)の小池公夫さん(73)が吹き込んだ唱歌「ふるさと」の一節だった。二〇〇六年十二月、声を失った小池さんが、代読での質問を認めない議会を相手に起こす裁判の決起集会。妻のり子さん(72)と長男桂さん(45)、長女木綿子(ゆうこ)さん(40)は、懐かしい声に胸がいっぱいになった。
 テープは〇二年、小池さんが咽頭がんの手術で声帯を失う直前、病院近くの公園で家族に内緒で録音したものだ。ずっと後にテープを受け取った家族は「冷静に聞けない」と集会まで再生したことがなかった。木綿子さんは、「ふるさと」を聞きながら「議会は父に、なんてひどいことをしているんだ」と怒りが込み上げた。
 手術後の〇三年四月に市議一期目を終えた。悩んだ末に二期目を目指すことを決めると、議員活動に無関心だった家族は揺れた。告示前夜、のり子さんが家族の前で「今ならやめられる」と言うと、桂さんは「おれはやる(応援する)」と答えた。桂さんと木綿子さんは選挙期間中、小池さんの「声」となり、八十カ所で街頭演説した。
 当選後、代読での一般質問を求めたが、「本人の肉声が原則」「ほかに例がない」などの理由で認められなかった。
 発言できない事態が続く中、岐阜県弁護士会は「議会の対応は表現の自由や参政権の侵害にあたる」とする人権救済勧告をした。議会側は音声変換機能付きパソコンによる発言を提案したが、小池さんは「声を失った障害者は意思伝達手段を選ぶ権利がある」と代読を求めた。
 市議二十八人と市に損害賠償を求め岐阜地裁に提訴。裁判が続く中、小池さんは一度も一般質問できないまま二期目を終え、引退した。
 代読が実現した時、壇上に立っているだけとなる小池さんに存在感が出るようにと、議会のたびに、派手めなネクタイを贈り続けた木綿子さん。裁判で「人間らしくありたいという父の願いが人の声による代読」と訴えた。のり子さんは、全国の地方議会の障害者議員に対する手厚いサポートを調べ、中津川市議会の非を問うた。
 一二年五月、名古屋高裁は「地方議員には表現の自由(憲法二一条)および参政権の一態様として、議会などで発言する自由が保障されている」とした上で、被告らは小池さんの発言の権利・自由を侵害したと認定した。
 家族で戦った五年半に及ぶ裁判は、議会が憲法の理念を置き去りにすることを許さなかった。「妻と二人の子が、これほどまでに応援してくれるとは思わなかった。感謝している。感謝し尽くせない」。昔から家族の前で口数の少なかった小池さんは、取材への答えをノートに記した。
(この企画は、飯田孝幸が担当します)

憲法にまつわる体験談や思い、この企画へのご意見をお寄せください。
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手紙は〒100 8505(住所不要)東京新聞社会部憲法取材班。
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/kenpouto/list/CK2013050402000178.htmlより、
第2部 救われた人生<2> 生活保護 学資保険、13年の闘い
2013年5月4日

 十三年にわたる裁判は、親が子どものために蓄えた四十五万円を取り戻す闘いだった。病弱で生活保護を受けていた中嶋豊治さんと紀子さん夫婦(ともに故人)が、長女の入口明子さん(40)=福岡市=たちのために、月三千円の掛け金を十四年間払い続けた学資保険の満期払戻金。これが「収入」と認定されたため、ぎりぎりの暮らしを支えていた保護費が減らされ、その親心は生かされなかった。
 豊治さんは建築現場で日雇い職人として働いていたが糖尿病や肝臓病で入退院を繰り返していた。紀子さんも慢性気管支炎などの持病があり、安定した職は得られなかった。
 紀子さんは貧しい家庭で育ち、中学の修学旅行を断念した。「自分の子には不自由をさせたくない」。明子さんが三歳の時に掛け金の最も安い学資保険に加入した。
 明子さんは一九八八年に私立高校に進学。入学時に払った二十五万円のほか、授業料などで年四十二万円かかった。当時、高校で学ぶ費用は生活保護の対象外。保険の満期前で、それを担保に借金をして賄った。明子さんは「母は知人と安い食品を共同購入するなどしてやりくりしていた。おかずがもやししかないこともあった」。
 九〇年に満期保険金四十五万円が払い戻された。福岡市の福祉事務所はそれを「収入」と認定。「それから半年間、生活保護費の支給額は半分になった。翌年に病死した母は悔しかったと思う」。明子さんと妹(36)、豊治さんの三人は九一年十二月、収入認定した処分の取り消しを求めて福岡地裁に提訴した。
 明子さんらの代理人だった平田広志弁護士は「福祉事務所の処分が生活保護法違反かどうかを争ったが、本質的には憲法二五条の生存権が侵害されたかを問う裁判だった」。
 妹も九二年に私立高に進学したが、翌年に豊治さんが病死し、学費が払えなくなり中退した。裁判は最高裁まで争われ、二〇〇四年三月、学資保険をかけていたことは、「最低限の生活を維持し、高校修学費を蓄える努力」だったと認定し、自立を促す生活保護法の趣旨にかなっていると判断。収入認定を取り消す判決が確定した。二五条を前提に、生活保護費をどう使うかについての自由を原則的に認めた判決だと、原告側は評価している。
 「同じように困っている人が、わたしたちのように苦しんでほしくなかった」と長い裁判を振り返る明子さん。その思いは実る。判決後、学資保険の払戻金は収入認定されなくなった。さらに生活保護費の項目に高等学校等就学費が加わり、入学金や授業料などの一部が支給対象に。
 明子さんは今、タクシー運転手の夫(48)と三人の子を育てている。末っ子でダウン症の希美(のぞみ)ちゃん(2つ)を世話するため、働きに出られない。自らも糖尿病を抱え、治療費は月一万五千円。夫の収入だけで生活できず、生活保護を受けている。母と同じ立場になって三千円を払い続けたことの重みを実感する。「母はすごい。感謝のひと言しかない」

 <生活保護と生存権> 生活保護は憲法25条のいう「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する制度。生活保護を受けると、日常生活に必要な生活扶助や教育扶助、医療扶助などが支給される。一方で自動車を原則保有できなかったり、預貯金できる額が制限されたりする。「最低限度の生活」に明確な規定はなく、生活保護の基準は社会状況に合わせて改定される。基準が「最低限度」を満たしているかどうかが、たびたび裁判で争われている。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/kenpouto/list/CK2013050502000138.htmlより、
第2部 救われた人生<3> 特殊学級 「学ぶ側尊重」法令改正へ
2013年5月5日

 「山崎は七組」。一九九一年四月、北海道留萌(るもい)市立留萌中学校に入学した山崎恵さん(34)は、教師のひと言でパニック状態になった。一年は六組までしかないはず。どうして…。七組は特殊学級(現在は特別支援学級)で、クラスメートはいない。英・数・国など主要五教科は六組で交流授業を受けられると言われた。
 山崎さんは生まれたときに脊髄を痛め、胸から下がまひしていた。移動は車いす。本人も両親も普通学級入りを希望し、市教育委員会は「親の同意なしに特殊学級を設置しない」と約束していた。
 「納得がいかない」と、五教科以外も六組に通うことを決意する。入室を禁じられても七組へは行かず、廊下で待った。合唱コンクールも運動会も、六組での参加が認められなければ拒否した。当初、山崎さんをかばっていた生徒たちも教師に同調し始める。二年になると徹底的にいじめられ三年では無視された。それでも、学校では涙を見せなかった。
 「周りから『強い』って言われるけど、おかしいことは、おかしいと言い続けただけ」
 一年の夏に普通学級入りを求めて裁判を起こす。法廷では「憲法二六条により、普通教育を受ける権利がある。普通学級か特殊学級かの選択権は本人か親にある」と主張した。
 三年に進級するころ、裁判官から「裁量権で争いませんか」と持ち掛けられる。両親や弁護士は「どの学級に入れるかの選択権は校長にあるが、山崎さんを特殊学級にした判断は裁量権を逸脱し、間違いだった」と主張すれば勝訴させるというメッセージと受け止めた。
 しかし、山崎さんは拒む。学級の選択権は学ぶ側にあるという主張を崩せば「身体障害者は学習能力があるから普通学級で学べるが、知的障害者は特殊学級に振り分ける」というような校長の判断は、裁量権の範囲内と認められるかもしれない。「彼らを切り捨てることはできない」。勝ちを望む両親とぶつかったが、自分を貫き、一、二審とも敗訴した。
 山崎さんは定時制高校に進学。教師も同級生も自然に接してくれ、裁判で求めた普通教育を満喫した。大学で一人暮らしも経験し、卒業後はNPO法人で障害者の自立を手助けしている。
 山崎さんは普通教育を受ける権利は憲法二六条で保障されていると考えている。自分の裁判では否定されたが、時代とともに変化が生じてきた。二〇〇九年、奈良県の脳性まひの少女が普通中学への進学を教委に拒まれ提訴。裁判所は判決前に入学を認める仮の判断を示し、教委は折れた。文部科学省の中央教育審議会の特別委員会は昨年七月、就学先の決定は「本人・保護者の意見を最大限尊重する」という報告をまとめ、法令の改正作業も始まった。
 山崎さんはまだ不十分だと思う。「最終的な選択権が教委や校長にある点は変わっていない。教育って勉強だけじゃない。子どもは、たくさんの人の中で人間関係を学び、自分の立ち位置や役割を知ることができる」
 中学の卒業式、山崎さんは記念撮影する六組の脇に車いすを寄せ、一緒に写真に納まった。六組の生徒として載っていない卒業アルバムは受け取らなかったが、実家に残る卒業写真は六組に在籍した証しだ。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/kenpouto/list/CK2013050602000127.htmlより、
第2部 救われた人生<4> 国籍取得 出生後認知でも可能に
2013年5月6日

 二〇〇八年七月二十五日、マサミ・タピルさん(15)は名古屋市港区役所に日本国籍の取得届を提出し、佐藤真美(まさみ)になった。母親のロサーナ・タピルさん(48)は「すごく、うれしいよ」と涙ぐんだが、真美さんはそれほどでもなかった。「だって、昔から自分は日本人だと思ってるから」
 真美さんは同じ年の六月四日、八~十四歳の子どもたち九人と最高裁にいた。みなフィリピン人女性と日本人男性の間に生まれ、日本国籍を取得できないでいた。国籍法の定めで、未婚の日本人男性と外国人女性の子は、胎児の段階で父親が認知すれば日本国籍を得られるが、出生後の認知では得られないためだ。
 「国籍法の定める日本国籍の取得要件は、法の下の平等を定めた憲法に違反」。判決は十人の日本国籍取得を認めた。
 ロサーナさんは一九八八年に来日。神奈川県内の飲食店で働くうち、日本人男性と親しくなり、真美さんを産んだ。相模原市役所に漢字の名前を記した出生届と父親の認知届を提出すると、「日本人じゃないから名前はローマ字表記にして」と言われる。「父親が日本人なのに何で」。何時間もやりあうが、対応は変わらなかった。
 その後、国籍法の壁を知ったロサーナさんと男性は、真美さんの妹(11)を胎児認知。父親の姓をとって佐藤直美と名付けた。
 同じ親から生まれた姉妹なのに、姓と国籍が違う。保育園では「本当に姉妹なの?」といぶかしがられた。小学校低学年のとき、ロサーナさんが隠していた外国人登録証を見つけ「私、日本人じゃないの」と泣いた。いじめもあった。真美さんは「学校で『フィリピンに帰れ』と首を絞められたこともある」と振り返る。
 ロサーナさんは〇五年、同じような思いをしているフィリピン人の母親たちと裁判を起こす。弁護士からは「裁判は負けるかもしれない」と言われたが一審は勝訴。二審で敗訴したが、最高裁でひっくり返した。その間、真美さんは学校のテストや提出書類などに「佐藤真美」と書き続けた。
 真美さんの裁判は中学の教科書にも写真入りで取り上げられている。授業で先生から「どうだった」などと聞かれても、恥ずかしいから「忘れた」などとはぐらかした。
 現在は日本とフィリピンの二重国籍で、成人したときにどちらかを選ぶことになる。「当然、日本を選ぶ」と話すが、一昨年と昨年にアイドルグループSKE48のオーディションに応募したときは「マサミ・タピル」の名を使った。真美さんはその理由を「その方が目立つかなと思って。ハーフってかっこいいし。最終選考まで残ったんですよ」と屈託がない。
 それでも国籍取得の重みは感じている。中学の卒業式があった三月七日には、自分のために闘った母に感謝の気持ちを伝えた。「産んでくれてありがとう」

 <国籍法> 日本国籍を与える条件を定めた法律。母親が日本人の場合、子どもは日本国籍を取得できる((1))。母親が外国人、父親が日本人の場合、結婚した両親の子は日本国籍を取得できる((2))。未婚の場合、父親が胎児の段階で認知すれば日本国籍を取得できる((3))が、出生後の認知では取得できない((4))。2008年12月の改正で、(4)のケースでも日本国籍が取得できるようになった。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/kenpouto/list/CK2013050802000176.htmlより、
第2部 救われた人生<5> 原発差し止め 権力に遠慮しない
2013年5月8日

 二〇〇六年初頭、金沢地裁の裁判官だった井戸謙一さん(59)は眠れぬ夜を過ごしていた。冬なのに布団に入ると汗が噴き出す。三月に言い渡す判決の結論は決まっていた。原発の運転差し止め。「批判は覚悟していた。ただ、国策を否定する以上、わずかな論理の破綻も許されない」。理由をどう組み立てるか悩み抜いた。
 判決ができあがると、もう気負いはなかった。三月二十四日、法壇に立った井戸さんは、淡々と述べた。「主文、志賀原発2号機を運転してはならない」
 稼働中の原発の運転差し止めが初めて認められた。被告の北陸電力側はぼうぜんとし、原告住民から歓声が上がる。井戸さんは、おだやかな表情で騒然とする法廷を後にした。その時、導いた答えは、五年後の一一年三月に東京電力福島第一原発で起こった事故を予見していた。
 「自分が正しいと思ったことは貫かねばならない」。裁判官は憲法と法律にしか拘束されない。国家権力はもちろん、担当外の裁判官からも干渉を受けない。憲法七六条が規定する裁判官の独立だ。井戸さんは一九九三年に大阪高裁で、七六条を実感する裁判を担当した。九二年の参院選をめぐる一票の不平等訴訟。当時、参院選での違憲判決は一件もなかった。
 審理の終盤、三人の裁判官のうち主任裁判官だった井戸さんは、裁判長の山中紀行さん(82)から意見を求められる。「違憲にすべきだ」。もめるかと思ったら、山中さんはあっさり、この判断を受け入れた。
 「判決当日は開廷の一時間以上前に出勤し、裁判官室で緊張していた。大騒ぎになるだろうと思った」と振り返る。後から出勤した山中さんは、何事もないように雑談している。「判決日だと忘れているんじゃないか」と思ったが、山中さんは時間が来ると「じゃ、行きましょうか」と法廷へ向かった。
 事案の大小に関係なく、法と証拠に基づいて判断し、結論を淡々と言い渡す。井戸さんは、志賀原発訴訟のとき、「山中さんのようにありたい」と思った。
 二〇一一年に退官。弁護士となった井戸さんは「司法は少数者の権利を守るために存在する」と話す。そのために独立している裁判官が、官僚組織の一員になってしまっていると感じる。「誰かから『こうしろ』なんて言われることはない。しかし、裁判官の世界で評価され、生き抜こうと思うと、時の政治権力や行政に遠慮する感覚を身に付けてしまう」
 井戸さんは「今の憲法は人類の英知の結晶。それがないがしろにされているのではないか」と話す。憲法の理念を守るために裁判所は最後のとりでとならねばならない。それを保障するのが裁判官の独立だ。
 「日本の政治、行政は劣化している。司法にしか期待できないという国民はいっぱいいる。そうした人たちから見られているということを自覚して、重要な職責にあたってほしい」。井戸さんから若い裁判官へのメッセージだ。=おわり
(この企画は飯田孝幸が担当しました)

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