憲法と改憲手続き 「96条改正に反対する」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130511/plc13051103150006-n1.htmより、
産経新聞【主張】憲法96条改正 国民の判断を信頼したい
2013.5.11 03:15 (1/2ページ)
憲法96条が定める改正の発議要件を緩和せず、現行の衆参両院の「3分の2以上」のままにするという意見が提起されている。
これは憲法改正を求める多くの国民の意向をないがしろにし、現実離れした「不磨の大典」を守り抜く硬直的な姿勢と言わざるを得ない。
「3分の2以上」の条件を必要とする米国が制定以来18回、さらに戦後のドイツが59回の改正を重ねていることを、96条改正反対の理由としている向きがあるが、いずれも国民投票を求められていないことを指摘したい。
国民投票で過半数の賛成を得るというのが、いかに重い条項であるかを認識すべきだ。
現行憲法があまりにも現実と乖離(かいり)していることは、周辺情勢を見れば明らかだ。尖閣諸島の奪取に動く中国や、日本への攻撃予告までする北朝鮮を前にしてなお、自らの安全と生存を「平和を愛する諸国民」に委ねるとしている前文が、そのことを象徴している。
制定以来、改正が行われていない成文憲法として世界最古であることも、内外の多くの問題への処方箋を示せなくなっている現状につながっている。
衆院の憲法審査会では、自民、維新の会、みんなが96条改正に賛同し、公明、民主が96条の先行改正に慎重な姿勢だった。共産、生活は反対の立場を表明した。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130511/plc13051103150006-n2.htmより、
2013.5.11 03:15 (2/2ページ)
自民党が「衆参のいずれか一院で3分の1超が反対すれば改正は発議できず、憲法に国民の意思が反映されなくなる」と主張したように、「3分の2の壁」が憲法改正を阻止していることが問題なのである。
発議要件を「過半数」に引き下げることで、改正への民意をくみとることができるという考えは極めて妥当なものだ。
これに対し、慎重派や反対派は「時の政権によって憲法が簡単に変えられることになる」と強調したが、こうした主張は憲法改正の可否が最終的には国民投票で決せられる点を無視している。
民主党などが「改正の中身の議論が欠かせない」と指摘するのもおかしい。自民党は改正草案で「天皇は元首」「国防軍の保持」など具体案を示している。議論を欠いているのは民主党である。
国民が憲法を自らの手に取り戻すため、発議を阻んでいる壁を取り除かなければならない。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013051002000151.htmlより、
東京新聞【社説】憲法96条改正論 ハードル下げる危うさ
2013年5月10日
「国の在り方」を定める憲法は、その時々の国会の多数派の意思によって安易に改正されてはならない。衆参両院とも三分の二以上の賛成が必要という憲法改正の発議要件は、緩和すべきものでもない。
憲法九条などに比べれば、改正手続きを定めた九六条をめぐる議論がこれほど熱を帯びたことは、かつてなかったのではないか。
九六条は「この憲法の改正は、(衆参)各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない」と定めている。改正論は「三分の二以上」を「過半数」に緩和しようというものだ。
九日の衆院憲法審査会では各党が九六条改正について初めて正式に意見表明した。自民党、日本維新の会、みんなの党が賛成、共産党と生活の党が反対を明言。民主党は九六条の先行改正に反対し、公明党は改正に慎重姿勢を示した。
九六条改正をめぐる議論が活発化したのは、憲法全体の改正を目指す安倍晋三首相が、九六条を他の条項に先行して改正するシナリオを描き、夏の参院選の争点にしたいと明言したからだ。
改正のハードルさえ下げれば、あとは政権党の思うがままに改正できるという下心があるのなら、見過ごすわけにはいかない。
日本国憲法の三大原則は国民主権、基本的人権の尊重、戦争放棄だ。これは太平洋戦争という大きな犠牲を払って日本国民が手にした人類普遍の原理でもある。発議要件を緩和すれば、その時々の多数派により、こうした不可侵の原則にも改変の手が及びかねない。
自民党など改憲派は「世界的にも改正しにくい」と主張するが、三分の二以上という改正要件は国際的に妥当な基準だ。
米国は連邦上下両院の三分の二以上の賛成に加え、四分の三以上の州議会の承認が要る。ドイツも両院の三分の二以上の賛成が必要だ。改正要件が厳格な「硬性憲法」は民主主義国家の主流である。
改正を繰り返す他国に比べ、日本が改正に至らなかったのは要件の厳しさではない。憲法を変えるよりも変えないことによる国益の方が大きいと、先人が判断したからにほかならない。
もし改正が必要という政党があるのなら、その中身を国民に堂々と訴え、衆参両院で三分の二以上の議席を得る王道を歩むべきだ。
改正の中身を棚に上げ、手続きだけを先行して変えるような邪道にそれては、決してならない。
http://mainichi.jp/opinion/news/20130505k0000m070090000c.htmlより、
社説:憲法と「9条改正」 武力行使偏重は危うい
毎日新聞 2013年05月05日 02時30分
憲法改正の発議要件を緩和する96条改正は「改憲のための改憲」であり、自民党の狙いは、戦争放棄、戦力不保持と交戦権否認をうたった9条の改正にある。同党の石破茂幹事長は、96条改正は将来の9条改正を視野に入れた対応である、との考えを表明している。
現憲法施行から66年、長い憲法論争の中心は9条だった。自民党は結党以来、綱領などで9条改正を目的とする新憲法制定を掲げてきた。
その自民党が昨年4月、憲法改正草案を発表し、実現を公約した。9条は大きく書き換えられている。危惧の念を抱かざるを得ない。
◇「国防軍」は問題が多い
自民党の草案によれば、自衛隊を「国防軍」に改組するという。
安倍晋三首相らは、国内では「自衛隊」と呼び、外国には「軍」と説明する詭弁(きべん)はもうやめよう、と主張する。しかし、草案を読むと、そんな、単純な名称変更ではない。
草案は、国防軍を設置して、海外での武力行使を認め、軍法会議を新設し、集団的自衛権行使に関する憲法上の制約を取り払う内容となっている。自衛隊を「他国並みの軍隊」にしたいということなのだろう。
自民党の「草案Q&A」は、国防軍の活動の一つである国際平和活動について「軍隊である以上……武力を行使することは可能」とし、集団安全保障における武力行使への参加も「同様に可能」と述べている。1991年の湾岸戦争でイラクを攻撃した米軍を中心とする多国籍軍にも参加できることになる。
自衛隊の海外での武力行使は、9条によって禁じられているというのが政府の解釈である。そのような抑制された組織として、自衛隊は国連平和維持活動(PKO)に積極的に参加し、数々の任務を成功させ、高い国際的評価を得てきた。
それを今、変える必要はない。武力を行使する軍を派遣することになれば、紛争当事者などに対する日本の役割や影響力は変容し、過去、築いてきた国際的な信頼や地位を失うことにつながりかねない。
「国の守り」については、政府は9条の平和主義を基礎に、専守防衛を「本旨」としてきた。自衛隊という名称にはこの姿勢が端的に示されている。だが、自民党内には専守防衛を見直すべきだとの根強い主張がある。「Q&A」に専守防衛への言及がないのは、そうした党内世論を反映した結果なのかもしれない。
http://mainichi.jp/opinion/news/20130505k0000m070090000c2.htmlより、
国防軍設置の先に、専守防衛の原則をはずし、「普通の軍隊」並みに高い攻撃能力を持つ兵器保有を目指しているなら、重大な戦略変更である。国際社会、特にかつて日本が侵略したアジア諸国の不信と反発を招くだけだろう。9条改正では透明性を確保し、国際社会の視線を考慮するのは当然である。他国にとやかく言われる筋合いはないという姿勢では、平和外交はおぼつかない。
北朝鮮の核・ミサイル開発や中国の軍事的台頭によって日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増している。それに見合う戦略、政策を打ち立てるのは当然だ。しかし、自衛隊のままで有事への対処能力、抑止力機能の向上は可能だ。安保環境の変化は国防軍設置の理由にならない。
もし、憲法上、自衛隊の存在を明記すべきだというなら、現在の9条を維持しつつ、自衛隊の存在を盛り込んだ条項を新たに設ける、という有力な議論もある。
◇憲法上の制約が必要だ
また、自民党の草案では、現在の9条2項(戦力不保持など)を削除し、「自衛権の発動」を新たに盛り込んだ。「Q&A」は、この「自衛権」には個別的自衛権のほか集団的自衛権も含まれるとし、この結果、政府が9条によって認められないとしている「集団的自衛権の行使」が可能になると説明する。
自民党は、現憲法でも集団的自衛権行使は容認されると主張している。草案では、より明確にしたということのようだ。
しかし、草案によると、集団的自衛権の行使に憲法上の制約はない。これでは、憲法が他国の領土、領海における武力行使も容認していることになってしまう。
北大西洋条約機構(NATO)の加盟国である英国は2001年、集団的自衛権の行使としてアフガニスタン戦争に参加した。自民案によれば、日本の「国防軍」も憲法上は、英国と同様、参戦が可能となる。国民がそのような憲法を望んでいるとは到底、思えない。
自民党は、安全保障基本法のような法律で集団的自衛権行使について「歯止め」を設けると言う。だが、最高法規の憲法と一般の法律では重みも位置付けも異なる。憲法による制約は必須である。
集団的自衛権行使が求められるケースとして、日本近海で共同行動している米艦防護などがよく指摘されるが、これらは個別的自衛権の延長線上で対応できるとの主張もある。
自民党の改正草案は、集団安全保障も、集団的自衛権行使も、海外での武力行使を最大限、認めることに力点が置かれている。
安全保障政策をめぐる議論は大いに歓迎する。しかし、今、9条を急いで改正する必要はない。
http://www.asahi.com/paper/editorial.html?ref=com_top_pickupより、
朝日新聞 社説 2013年 5月 3 日(金)付
憲法を考える―変えていいこと、ならぬこと
憲法には、決して変えてはならないことがある。
近代の歴史が築いた国民主権や基本的人権の尊重、平和主義などがそうだ。時代の要請に合わせて改めてもいい条項はあるにせよ、こうした普遍の原理は守り続けねばならない。
安倍首相が憲法改正を主張している。まずは96条の改正手続きを改め、個々の条項を変えやすくする。それを、夏の参院選の争点にするという。
だがその結果、大切にすべきものが削られたり、ゆがめられたりするおそれはないのか。
いまを生きる私たちだけでなく、子や孫の世代にもかかわる問題だ。
■権力を縛る最高法規
そもそも、憲法とは何か。
憲法学のイロハで言えば、権力に勝手なことをさせないよう縛りをかける最高法規だ。この「立憲主義」こそ、近代憲法の本質である。
明治の伊藤博文は、天皇主権の大日本帝国憲法の制定にあたってでさえ、「憲法を設くる趣旨は第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保全することにある」と喝破している。
こうした考え方は、もちろん今日(こんにち)にも引き継がれている。
憲法99条にはこうある。「天皇又(また)は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」。「国民」とは書かれていないのだ。
立憲主義は、国王から市民が権利を勝ち取ってきた近代の西欧社会が築いた原理だ。これを守るため、各国はさまざまなやり方で憲法改正に高いハードルを設けている。
米国では、両院の3分の2以上の賛成と4分の3以上の州議会の承認がいる。デンマークでは国会の過半数の賛成だが、総選挙をはさんで2度の議決と国民投票の承認を求めている。
日本では、両院の総議員の3分の2以上の賛成と、国民投票での過半数の承認が必要だ。
自民党などの改正論は、この「3分の2」を「過半数」に引き下げようというものだ。
■歴史の教訓を刻む
だが、これでは一般の法改正とほぼ同じように発議でき、権力の歯止めの用をなさない。戦争放棄をうたった9条改正以上に、憲法の根本的な性格を一変させるおそれがある。
私たちが、96条改正に反対するのはそのためである。
日本と同様、敗戦後に新しい憲法(基本法)をつくったドイツは、59回の改正を重ねた。一方で、触れてはならないと憲法に明記されている条文がある。
「人間の尊厳の不可侵」や「すべての国家権力は国民に由来する」などの原則だ。
ナチスが合法的に独裁権力を握り、侵略やユダヤ人虐殺につながったことへの反省からだ。
日本国憲法は、97条で基本的人権を「永久の権利」と記している。これに国民主権と平和主義を加えた「三つの原理」の根幹は、改正手続きによっても変えられないというのが学界の多数説だ。
かつての天皇制のもとで軍国主義が招いた惨禍の教訓が、その背景にある。
特に9条は、二度と過ちを繰り返さないという国際社会への約束という性格もある。国民の多くは、それを大切なことだとして重んじてきた。
自民党が96条改正の先に見すえるのは、9条だけではない。改憲草案では、国民の権利への制約を強めかねない条項もある。立憲主義とは逆方向だ。
■政治の自己改革こそ
首相は「国民の手に憲法を取り戻す」という。改正のハードルが高すぎて、国民から投票の権利を奪っているというのだ。
これは論理のすり替えだ。各国が高い壁を乗り越え、何度も憲法を改めていることを見ても、それは明らかだろう。
改めるべき条項があれば、国民にその必要性を十分説く。国会で議論を尽くし、党派を超えて大多数の合意を得る。
そうした努力もせぬまま、ルールを易(やす)きに変えるというのは責任の放棄ではないか。
憲法に指一本触れてはならないというのではない。
例えば、国会の仕組みである。衆院と参院は同じような権限を持つ。このため多数派が異なる「ねじれ」となると、国政の停滞を招いてきた。
いずれ憲法の規定を改め、衆参両院の役割分担を明確にするなどの手直しが必要になるかもしれない。
もっとも、いまの国会の怠慢は度し難い。
ねじれによる政治の停滞を嘆くなら、なぜ衆参両院の議決が異なった時に話し合う両院協議会の運用を見直さないのか。
最高裁に違憲状態とされた一票の格差問題では、司法が口出しするのはおかしいといわんばかりの議論が横行している。これでは、憲法を語る資格などはない。
まずなすべきは、そんな政治の自己改革にほかならない。
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO54651540T00C13A5EA1000/より、
日経新聞 社説 改憲論議で忘れてはならないもの
2013/5/3付
日本国憲法が施行されて3日で66年を迎えた。今年は7月の参院選の争点に憲法改正が浮上している。自民党が中心になって改憲の発議要件を緩和する96条改正を突破口にしようと旗を振り、民主党などがこれに対峙するかたちで反対論を展開している。
入り口として96条改正を打ち出すのは、改憲へのハードルを下げるねらいからだが、その先の具体的な改憲の道筋を明らかにし、どんな国にするのかの国家像の議論が必要なのは言うまでもない。
96条改正の先の明示を
忘れてならないのは、改憲手続きをへて条文を改める明文改憲だけでなく、その前の段階で、国家がきちんと機能するよう法改正により対応が可能な立法改革もしっかり進めることだ。
焦点となっている96条の改正条項の改正は、各院の総議員の3分の2以上の賛成による発議を2分の1以上にしようとするものだ。
日本維新の会も賛成で、連立与党の公明党は慎重な態度をとっている。改憲は安倍晋三首相の最大の政治目標であり、参院選後をにらみ、維新やみんなの党を引き寄せる思惑がある。96条改正への賛成論を抱える民主党内の分断策にもなっている。
こうした政治の駆け引きとは別に、96条改正によって改憲しやすくしたあとに、何をテーマにどんな段取りで進めていくのかを示さなければならない。
自民党は憲法改正草案をまとめ、具体的なメニューを提示しているとはいえ、焦点の9条についてどんな手順を想定しているのかがはっきり見えない。入り口が96条で出口が9条なら、もっと堂々と改憲論議を挑むべきだろう。
維新やみんなが主張している地方分権の推進や統治機構の変革のために道州制や首相公選制、一院制を導入しようとすれば、それは国のかたちの議論に発展する。その先の日本の見取り図を示し、全体像を明らかにしたうえでの改憲論議でなければなるまい。
民主党は2005年にまとめた改憲の方向性を示す「憲法提言」を踏まえ、条文のかたちで改憲案を示す必要がある。単なる政治的なぶつかり合いに終わらせず、憲法論議を深めるためにも民主党の早急な意見集約が求められる。
かりに改正条項の改正を発議しようとしても、国民投票法で定めた投票年齢の18歳への引き下げに伴う公職選挙法との調整など、国民投票の実施に向けた手続きを整えるには、なお時間がかかる。
民主党が同調せず公明党抜きなら、こんどの参院選後に改憲勢力が3分の2をしめるのは、そう簡単ではないという現実もある。
明文改憲だけで国家がうまく回るわけではない。制度の運用で大事なのは立法改革である。
日本周辺を見回した場合、とくに北朝鮮の出方など、急いで対応を検討しておいた方がいいものがある。行使を禁じていると解釈している集団的自衛権がそうだ。
すでに自民党がまとめている国家安全保障基本法で集団的自衛権の一部行使を可能にするのは現実的な対応だ。9条改正までの時間的な余裕がないとすれば、同法の早期成立が望まれる。
もうひとつは「決められない政治」の原因となってきた衆参ねじれの解消策だ。
立法改革も同時並行で
衆参両院の議決が異なった場合の衆院の再議決の要件を3分の2以上から緩和するよう憲法の規定を改めるべきだが、それが既成政党から出てこないのなら、まず立法措置で対応する方法がある。
国会法では、衆参両院の議決が異なったとき、両院の代表者各10人からなる両院協議会で協議し、3分の2の賛成で議決することになっている。これを2分の1に改め、同時に議席数に応じて各党の代表者を出すようにすれば、機能不全の両院協議会が動くようになるはずだ。
そのうえで、確認したいのが憲法とは何かという基本的なとらえ方だ。日本維新の会の橋下徹共同代表(大阪市長)が「憲法は特定の価値を国民に押しつけるものではない。国家権力をしばる法規範だ」というのは、その通りだ。
教科書をみても「近代立憲主義憲法は、個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限することを目的とする」(芦部信喜著『憲法』)とある。家族のあり方を規定しようとしたりするのは近代憲法とはちょっと違った発想だ。
憲法のそもそも論をいま一度確認し、立法改革と明文改憲による道筋を示して、新しい日本につなげていくことが改憲論議の基本でなければならない。
http://mainichi.jp/opinion/news/20130503k0000m070110000c.htmlより、
社説:憲法と改憲手続き 96条の改正に反対する
毎日新聞 2013年05月03日 02時30分
上映中の映画「リンカーン」は、米国史上最も偉大な大統領といわれるリンカーンが南北戦争のさなか、奴隷解放をうたう憲法修正13条の下院可決に文字通り政治生命を懸けた物語だ。彼の前に立ちはだかったのは、可決に必要な「3分の2」以上の多数という壁だった。
反対する議員に会って「自らの心に問え」と迫るリンカーン。自由と平等、公正さへの揺るぎない信念と根気強い説得で、憲法修正13条の賛同者はついに3分の2を超える。憲法とは何か、憲法を変えるとはどういうことか。映画は150年前の米国を描きつつ、今の私たちにも多くのことを考えさせる。
◇「権力者をしばる鎖」
安倍晋三首相と自民党は、この夏にある参院選の公約に憲法96条の改正を掲げるとしている。かつてない改憲論議の高まりの中で迎えた、66回目の憲法記念日である。
96条は憲法改正の入り口、改憲の手続き条項だ。改憲は衆参各院の総議員の「3分の2」以上の賛成で発議し、国民投票で過半数を得ることが必要と規定されている。この「3分の2」を「過半数」にして発議の条件を緩和し、改憲しやすくするのが96条改正案である。
憲法には、次に掲げるような基本理念が盛り込まれている。
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」(97条)
「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」(98条1項)
その時の多数派が一時的な勢いで変えてはならない普遍の原理を定めたのが憲法なのであり、改憲には厳格な要件が必要だ。ゆえに私たちは、96条改正に反対する。
確かに、過半数で結論を出すのが民主主義の通常のルールである。しかし、憲法は基本的人権を保障し、それに反する法律は認めないという「法の中の法」だ。その憲法からチェックを受けるべき一般の法律と憲法を同列に扱うのは、本末転倒と言うべきだろう。
米独立宣言の起草者で大統領にもなったジェファーソンの言葉に「自由な政治は信頼ではなく警戒心によって作られる。権力は憲法の鎖でしばっておこう」というのがある。健全な民主主義は、権力者が「多数の暴政」(フランス人思想家トクビル)に陥りがちな危険を常に意識することで成り立つ。改憲にあたって、国論を分裂させかねない「51対49」ではなく、あえて「3分の2」以上の多数が発議の条件となっている重みを、改めてかみしめたい。
http://mainichi.jp/opinion/news/20130503k0000m070110000c2.htmlより、
外国と比べて改憲条件が厳しすぎる、というのも間違いだ。
米国は今も両院の3分の2以上による発議が必要だし、59回も改憲している例として自民党が引き合いに出すドイツも、両院の3分の2以上が議決要件となっている。改憲のハードルの高さと改憲の回数に因果関係はない。問われるべきは改憲手続きではなく、改憲論議の質と成熟度だ。改憲してきた国にはそれがあった。日本にはなかった。
◇堂々と中身を論じよ
改憲案は最後に国民投票に付すことから、首相や自民党は、発議要件を緩和するのは国民の意思で決めてもらうためだと言う。こうした主張は、代議制民主主義の自己否定につながる危うさをはらむ。
普遍的な原理規範である憲法を変えるには、まず、国民の代表者の集まりである国会が徹底的に審議を尽くし、国民を納得させるような広範なコンセンサスを形成することが大前提だ。それを踏まえた発議と国民投票という二重のしばりが、憲法を最高法規たらしめている。
国民代表による熟議と国民投票が補完しあうことで、改憲は初めて説得力を持ち、社会に浸透する。過半数で決め、あとは国民に委ねる、という態度は、立憲主義国家の政治家として無責任ではないか。
衆院憲法調査会が8年前にまとめた報告書には「できるだけ国民の間に共通認識を醸成し、その民意を確認する手続きとして国民投票が行われるという過程になるように、国会議員は努力する責任がある」「たとえ政権交代があった場合でもぶれることのない、一貫した共通のルールを作る視点が大事であり、そのためには国会で幅広い合意を得ることが重要だ」などの意見が盛り込まれている。改憲を発議にするにあたって、国会が果たす役割と責任を強く自覚する姿勢である。
そうした声は今、手っ取り早く憲法を変えようという動きにかき消されつつある。憲法が軽く扱われる風潮を危惧する。
私たちは、戦後日本の平和と発展を支えてきた憲法を評価する。その精神を生かしつつ、時代に合わせて変えるべきものがあれば、改憲手続きの緩和から入るのではなく、中身を論ずべきだと考える。国会は堂々と、正面から「3分の2」の壁に立ち向かうべきである。