ヒバクシャ広島/長崎:’13春 1~5
http://mainichi.jp/select/news/20130514ddm041040135000c.htmlより、
ヒバクシャ広島/長崎:’13春/1 平和守る、魂の叫び 長崎の元教師、相馬の女子高生に託す
毎日新聞 2013年05月14日 東京朝刊
(写真)修学旅行の中学生に被爆地を案内する山川剛さん=長崎市で2013年5月8日、徳野仁子撮影
広島と長崎に、被爆68年を迎える新緑の季節が巡ってきた。改憲の向こうに国防軍の影がちらつき、老いと闘っている被爆者の心中は穏やかではない。そんな春にも、平和を託す若い世代がいる。記録報道「’13春 ヒバクシャ」は、長崎市を訪れた福島県立相馬高校の2人の女生徒と元教師の出会いから報告する。
「福島の高校生が被爆地を訪ねてくれたのは、家庭訪問になったのではないでしょうか」
「長崎県原爆被爆教職員の会」副会長、山川剛さん(76)は長崎市内の自宅でそう振り返った。教師の体験から家庭を訪問することで、児童や生徒の境遇がわかるという。同様に被爆地に足を運ぶことで、原爆や放射線の実相がより浮かび上がると確信している。
山川さんは8歳の夏、爆心地の南4・3キロの海岸で被爆した。小学校教師を36年間務め、今は被爆の語り部活動のほか修学旅行生を案内する被爆遺構巡りなどを通して平和の大切さを訴えている。
福島県相馬市の女子高校生を長崎に迎えたのは4月4日だった。相馬高校放送局で活動する3年生の鈴木ひかるさんと但野仁美さんだ。2人は放送局の制作した演劇作品「今、伝えたいこと(仮)」の上映会のため初めて長崎を訪れた。地震、津波、原発事故の三重苦を経験した同校の演劇部員が演じる作品で、昨年から全国上映を続けている。
山川さんはスクリーンを見つめていた。「誰か私たちを助けてよ!」「国は原発事故が収束したの一点張りですが、終わっていない」。悲痛な叫び声に、68年前の自らの体験と照らし合わせながら、この子たちの助けになりたいと胸を痛めた。
上映前、2人を長崎原爆資料館に案内し、長崎と福島に原爆にまつわるつながりがあることを語った。通称「パンプキン」と呼ばれた原爆の模擬爆弾が太平洋戦争末期、日本各地に投下された。
「49発が落とされ、うち8発が福島に投下されたそうです。なぜか多かった。あまり知られていないが……」
もし福島に原爆が落とされていたら、と想像したのか、2人は緊張を隠せなかった。そして、山川さんの被爆体験を聞いた2人は口をそろえた。
「すぐに心の整理はできないけれど、実際に放射能の被害を受けた人の話を聞いたことは、大きな何かになっていくと思います」
何かが、どう発芽していくか、山川さんは楽しみにしている。
http://mainichi.jp/select/news/20130514ddm041040135000c2.htmlより、
「若者から学ぶことは、多いですね。福島から来てくれた彼女たちに、私の平和への思いを託したい」。山川さんは自分に言い聞かせるように言葉を継いだ。「だから私は、核実験に反対する抗議の座り込みを続け、体にむち打って反核の活動を続けていきたい」
既に396回の座り込みをしている山川さんをいっそう奮い立たせるのは、安倍政権になって改憲の動きが強まってきたからだ。
「日本国憲法は、戦争を防ぐ世界初の試みで、日本人が誇れる宝。なぜ変えようなどという発想に至るのか」
被爆者の願いと逆行する今の風潮に葛藤を覚えながら、山川さんは力を込めてこう語った。「平和は、命がけでないと守れない。戦争への流れにあらがうことは戦争と被爆体験の講話であり、遺構巡りであり、座り込み。根比べだろうと、やらねばならない」
山川さんが全身から絞り出した訴えは、若い世代に届いているにちがいない。被爆地・長崎に「家庭訪問」の旅をした福島の女子高校生を見て、私はそう思っている。<文・梅田啓祐、写真・徳野仁子>=つづく
http://mainichi.jp/select/news/20130515ddm041040077000c.htmlより、
ヒバクシャ広島/長崎:’13春/2 良識ある判決信じ 終末期の「被爆体験」原告団長
毎日新聞 2013年05月15日 東京朝刊
(写真)入院先のベッドに横たわる小川博文さん=長崎市で2013年4月25日、樋口岳大撮影
大きな声で何度か名前を呼ぶとやっと目を開き、力を振り絞って入院先のベッドから体を起こしてくれた。しわが目立つ土色の顔、パジャマから少し出ている脚は筋肉がそげ落ち、すねの骨が刃のように見えた。長崎市香焼(こうやぎ)町の小川博文さん(70)は胃がんが肝臓とリンパ節に転移し、終末期を迎えている。
2歳半で母とイモ畑にいる時、長崎港を隔てた長崎市上空で原爆が炸裂(さくれつ)した。青白い閃光(せんこう)を今も覚えている。
国は1957年以降、爆心から南北にそれぞれ約12キロ、東西に約7キロを被爆者と認める区域に定めた。だが、小川さんのいた南西約10キロの旧香焼村は外れた。区域外でも多くの人が放射性物質を体内に取り込むなどして健康被害を受けたと訴えた。国は2002年、爆心12キロ圏内にいた人たちを「被爆体験者」と名付けて支援を始めたが、「放射線被害はなかった」として、精神的影響だけを認めた。原則として医療費の自己負担がない「被爆者」と違い、医療支援は限定され、被爆者なら支援の対象になるがんも認められていない。
被爆体験者は被爆者健康手帳の交付を求めて07年11月に長崎地裁へ提訴する。原告団長になった小川さんは結審を目前にした11年11月、末期がんで余命1年と告げられた。それでも原告395人の先頭に立ち、「自分の体こそが内部被ばくの証拠だ」と訴えた。しかし、12年6月の長崎地裁判決では、無情にも「合理的根拠がない」と一蹴された。12月に福岡高裁であった控訴審の第1回口頭弁論では、抗がん剤の影響で髪が抜け落ちた姿で「正当な援護を受けたい」と裁判官に迫った。
先月21日の原告団集会で、小川さんはわずか5段の階段を上れず、はって壇上に上がった。これまでに33人の仲間が逝っている。「遺影に判決を聞かせるんじゃありませんぞ。この五体で、黒い目で、逆転判決を聞けるよう、歯を食いしばって、生きて、頑張りましょう」。目に涙をためて呼びかけた。
4日後、病室を訪ねると、ベッドから体を起こし「きつい」と繰り返した。最後の望みを託した東京の医師にも治療を断られた。嘔吐(おうと)するので食べられない。「じーっと死を待つ。じたばたせんと」
http://mainichi.jp/select/news/20130515ddm041040077000c2.htmlより、
裁判には「もう行ききらん」と言った。だが、自らを奮い立たせるようにこうも語った。「常識と良識があれば勝てる裁判だ」。別れ際、私は小川さんの両手を握った。ごつく温かい手でぐっと握り返してくれた。【樋口岳大】=つづく
http://mainichi.jp/select/news/20130516ddm041040131000c.htmlより、
ヒバクシャ広島/長崎:’13春/3 原爆小頭症の67歳 「分かってもらえん」
毎日新聞 2013年05月16日 東京朝刊
(写真)脚が痛いため椅子にいったん座り、シンクに手をかけてそっと立つという岸君江さん=広島県三次市で2013年4月30日、竹内紀臣撮影
ため息が一つ、また一つ……。4月末、新緑がまぶしい季節になったというのに、広島県三次市の原爆小頭症患者、岸君江さん(67)はこたつ布団を膝まで掛けて体を丸め、脚をさすっていた。「今朝、花瓶の水を替えようとして床にこぼしてしもうた。何でこうなるんじゃろう」。不自由な体は生まれつきとはいえ、寝ても覚めても脚がうずき、ふさぎ込んでしまう。
68年前、妊娠中の母の胎内で放射線を浴びた。原爆投下から7カ月後、脳や体に障害を負う小頭症で生まれた。頭が小さい人が多いことからこの病名がついた。室内のわずかな距離を歩くだけで膝が痛んでよろける。そのような状態だった。
半年前からは、ことに老いを感じるようになった。買い物で小銭の種類を間違えたり、知人の名を思い出せない。不安になり先月、神経科を受診した。
そこで医師が取り出した計算テストを見て、体がこわばった。一問も手につかない。重い知的障害がある他の小頭症患者に比べると受け答えはしっかりできるが、子供の頃は授業についていけなかった。「算数はまんじゅう(0点)ばかりじゃった」。結局、医師には「原爆小頭症で答えられんのです」と説明し、計算テストは勘弁してもらった。受診したものの、みじめな気持ちで帰宅した。
小頭症は社会的によく知られておらず、傷つくことは多い。マスコミが取材に来ると、「被爆者は大勢おるのに何であんたばっかり」と周囲から責められる。「病院のお金もタダなんでしょう」と露骨に言われたことも一度や二度ではない。「何で分かってもらえんのか」。情けなくて何度も涙をこぼした。
支援者は、小頭症患者を専任の相談員が見回ってくれる広島市への転居を勧める。その方が楽になるだろうと分かってはいるが、「生まれ育った三次に骨をうずめたい」と思う。
今一番楽しみにしているのは年に1度、5月下旬に広島市で開かれる小頭症患者の集まりだ。この春、愛媛の病院に長く入院していた小頭症の女性が亡くなったと聞いた。自分もいつまで参加できるかわからない。生きている喜びを分かち合いたい。「早くみんなに会いとうて、待ち遠しゅうてならんの」。やっと、声が弾んだ。<文・田中博子、写真・竹内紀臣>=つづく
http://mainichi.jp/select/news/20130517ddm041040109000c.htmlより、
ヒバクシャ広島/長崎:’13春/4 資料館の再現人形撤去 「伝えるため残せ」
毎日新聞 2013年05月17日 東京朝刊
(写真)撤去されることになった「被爆再現人形」の前に立つ原広司さん。「悲惨さを伝えるために、残さなければいけない」と訴える=広島市中区で、川平愛撮影
春の陽光が、広島市の原爆ドームに降り注いでいた。すぐ脇を流れる元安川の対岸で被爆者の市民画家、原広司さん(81)=同市安芸区=は四季のドームを描いてきた。周辺には高層マンションが建ち並び、国内外からの観光客には、鉄骨がむき出しになったドームのほかに爆心地の痕跡を見つけるのはむずかしい。
だが原さんの脳裏には68年前の惨禍が焼き付いている。それだけに納得できないことがある。近くの原爆資料館に展示されている、原爆投下直後の被爆者を再現した人形の撤去が決まったのだ。
「人形をのける理由が『作りもん』じゃ言うなら、わしの絵も『作りもん』じゃろ」
原さんは、いつになく強い口調で憤った。
資料館の展示を2018年度までにリニューアルする計画が3月にまとまり、人形撤去が盛り込まれた。資料館は「実物中心の展示で被爆の実相を伝える」と説明するが、やけどでむけた皮膚を垂らして歩く姿は、訴える力があり、人形撤去に反対の声は根強い。
原さんは13歳の夏、広島湾に浮かぶ江田島の祖母宅で、原爆のきのこ雲を見た。翌日に広島市に入り、惨状を目の当たりにした。「首のないのや内臓が出ているのや、いろんなものを見たんじゃ」。やけどの被爆者が手を合わせて「水をくれ」と懇願する姿。大やけどをし、何か叫びながら走り回る裸の女性……は人形の姿と重なる。
「原爆で全て焼けてしまった。『作り物』でもなければ、惨禍を伝える手段がないから作っとるんじゃろうに」。証言できる被爆者が少なくなる中、「今(人形を)なくしてしまえば、いずれ再現することは不可能になる」と危惧する。
さらに気になることがある。改憲の動きだ。「私たちは満州事変、太平洋戦争をよう知っている。戦争の、原爆の実相を知れば、憲法を変えようなんていう発想はしない」。この日も口癖の「ドームはただ黙って建っておるんじゃない。無残な姿をさらして、核兵器の恐ろしさを訴え続けておるんよ」という言葉を繰り返した。訪れては去っていく観光客を見やり、付け加えた。「多くの人にとって記念撮影するだけの場所になっとる」
原爆ドームも、絵も、人形も、被爆資料も……。風化の後に、過ちが繰り返されるのではないか。「いろんなものを積み重ねて核の非人道性を訴えていかねばならん」
陽光を浴びた原さんの顔に、決意のしわが刻まれていた。<文・吉村周平、写真・川平愛>=つづく
http://mainichi.jp/select/news/20130518ddm041040041000c.htmlより、
ヒバクシャ広島/長崎:’13春/5止 語り継ぐ勇気にエール 元プロ野球選手・張本勲さん
毎日新聞 2013年05月18日 東京朝刊
(写真)涙をためながら母への思いを語る張本勲さん=東京都大田区で2013年5月12日、中村藍撮影
眉間(みけん)が紅潮し、眼鏡の奥の左目から何かがこぼれ落ちた。それは鼻の脇と口角を伝い、肌に染み込んでいった。私が取材に携わって6年あまり、元プロ野球選手の張本勲さん(72)が初めて見せた涙だった。
「母の心情を思うとね……。後悔が消えないんだ」
その出来事は原爆が落とされた5年後、広島市内に母子4人で暮らした10歳の頃に起きた。張本さんは母朴順分(パクスンブン)さん(1985年に84歳で死去)に内緒で、ある写真を持っていた。原爆で亡くなった長姉点子(てんこ)さん(当時11歳)が写っている一葉だった。
戦中に父が病死し、長姉は幼いながらも家事で母を支えた。背がすらりとして色白で、誰彼なく「いい姉ちゃんじゃのう」と言われたのを張本さんは覚えている。しかし勤労動員中に熱線を浴び、命を奪われた。
母は髪一本残さず遺品を処分し、原爆への憎しみも押し殺した。だが、ないはずの形見を息子が隠し持っていた。「何これは!」。母は写真を奪い、マッチで火を付けた。立ち上る細い煙とその小さな後ろ姿が、張本さんの胸に悔悟の念を突き刺した。
涙を拭い、張本さんは言った。「溺愛した長姉の記憶を呼び覚ましてしまう。だから母の前では一切、原爆の話をしませんでした」
母との記憶がよみがえったのには、理由がある。昨秋の「ヒバクシャ」を読んだ栃木市の医師で、被爆2世の盛川宏さん(47)から手紙が届いていた。盛川さんは約15年前、大病した父(77)が入市被爆していたことを初めて知る。だが被爆体験を尋ねても、父はわずかに口を開いただけだった。
「分かりますよ。被爆したことをつまびらかにするのには勇気がいりますから」
張本さんも、現役時代は弱みを見せまいと沈黙を通した。還暦を過ぎて「戦争なんか関係ない」と話す若者をテレビで見たのが転機だった。「自分たちは、被爆体験を伝えられる最後の世代じゃないか」。自らを奮い立たせ、5歳の少年が見た地獄を語り始めた。
http://mainichi.jp/select/news/20130518ddm041040041000c2.htmlより、
「ヒバクシャ」の読後、盛川さんも被爆2世であることを話し出した。院長を務める診療所へは、原発事故に遭った福島からの避難者も通う。「核兵器はもちろん、原発事故もあってはならない。伝わらないもどかしさもあるが、張本さんから勇気を頂いた」。そんな盛川さんに張本さんはエールを送った。「断片でもいい。お父様のことを次世代に伝えてほしい。心強いんだ、話せなかった母の思い、私の思いを語り継いでくれる人がいるのだから」<文・平川哲也、写真・中村藍>=おわり