平和をたずねて:韓国併合 教師ゆえに 19~23

http://mainichi.jp/area/news/20130409ddn012040053000c.htmlより、
平和をたずねて:韓国併合 教師ゆえに/19 「皇民化」への贖罪胸に再起=広岩近広
毎日新聞 2013年04月09日 大阪朝刊

 韓国の大邱から引き揚げた杉山とみさんの一家が、山陰線から北陸線に乗り継いで富山駅で降りたとき、見渡すかぎりに赤茶けた廃虚がひろがっていた。杉山さんは空襲の激しさに目をみはった。1945(昭和20)年10月のことである。
 「車中で、富山は全滅ですと聞かされても、空襲を受けた経験のない私には想像もつかなかったのです。日本海側の小さな都市までも全滅にする、戦争の凄絶(せいぜつ)さにおののきました」
 一家は越中八尾(やつお)の本家に身を寄せた。ここに至るまでの間、家族に不幸があった。「富山に着くとすぐに、双子のめいの姉にあたる子が短い生涯を閉じたのです。見ることのなかった亡き父親を慰安するための旅だったのだと、家族で慰め合いましたが……」
 本家の主人は村会議員で、村の農業協同組合に勤めていた。地主だったので、戦後に田畑が返還され、杉山さん一家はこの土地を借りて農業に従事する。体調のよくない母親と義姉にかわり、杉山さんは父親を手伝う。大八車を引き、畑に入り、村の集会にも出た。
 そこへ、東京の朝鮮総督府残務整理事務所から1枚の書状が届いた。<勅令により自然退職>。無味乾燥きわまる辞令だった。
 「これで呪縛のような戦時体制から解放されたと思うと、どこか安堵(あんど)していました」。続けて、杉山さんは当時の胸中を語る。「戦犯の処刑を報道で知ったとき、皇民化教育を強いた私は精神的な戦犯に当たると思いました。ならば私の償いは−−と突き詰めたうえで、二度と教壇に立たないと心に誓ったのです」
 農作業は厳しかったが、生産する喜びにひたれた。立山連峰をはじめ四季折々に美しい自然が何かと励ましてくれた。一方、新制の中学ができても教師の数が足りず、杉山さんは繰り返し復職を勧められる。だが、韓国の教え子への贖罪(しょくざい)の意味からも教壇に立つわけにはいかないと、杉山さんは頑として断り続けた。
 ところが2年後、心を揺さぶられる話が持ちこまれる。八尾小学校の女性教師が出産を希望しているものの、当時の学校は産休代員がいなく、とても休める事情になかった。彼女は満州(現中国東北部)から引き揚げる際、4人の子どもを全員亡くしていた。遺体をリンゴの木箱に納め、桜の大樹の根元に埋めてきたという。悲痛の帰国後に授かった子どもだけに、どうしても産みたいと願い、杉山さんは何度も説得された。

http://mainichi.jp/area/news/20130409ddn012040053000c2.htmlより、
 「困っているのは学校ではありません。産休を願う教師であり、彼女の受け持っている2年生のクラスの子どもたちなのです」
 悩んだ末、杉山さんは受け入れる。「亡くなっためいと女先生の4人の子どもが重なりました。最後は、子どもたちのために、という言葉を真摯(しんし)に受け止めたのです」
 杉山さんが八尾小学校の教壇に立ったのは、47(昭和22)年の5月だった。韓国の教え子たちを脳裏に刻んだ教員生活は、こうして始まったのである。(次回は16日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20130416ddn012040027000c.htmlより、
平和をたずねて:韓国併合 教師ゆえに/20 続く南北分断に慨嘆=広岩近広
毎日新聞 2013年04月16日 大阪朝刊

 戦後26年を迎えた1971(昭和46)年8月、京城女子師範学校の同窓会が大阪市内の高校で開かれた。広島市在住の恩師が退職金の一部をあてて韓国の教え子10人を招いた。富山市の杉山とみさんは韓国から来日する10人の名簿を見ても、名前と顔が結びつかなかった。当時は日本名で呼んでいたのである。
 当日、一行のなかに、学生寮で同室だった懐かしい顔を見つけたとき、杉山さんは駆け寄った。金順実(キムスンシル)さんもすぐに杉山さんを思い出し、2人は手を取り合って再会を喜んだ。
 「学生時代の彼女はきりっとした無口な美人、すべてに控えめながらオルガンもピアノも堪能で、読書家でした」。杉山さんは彼女を、ひそかに「聖少女」と呼んでいた。自由時間には2人で散歩を楽しんだ。
 金順実さん夫妻は現在の北朝鮮の出身だった。小学校の朝礼で、男女の代表として日章旗を掲揚したのが縁で結ばれた。太平洋戦争が終わると朝鮮半島は分断され、金順実さんと夫は互いの両親を残して38度線を越えた。インテリで親日派の2人だけに両親は案じたようで、2人に強く言い渡している。
 「私たちは残るが、若い者は早く逃げなさい」
 その後、彼女の夫は高麗大学の教育学部長を務め、退官後は芸術院会長などの要職についた。
 「心ならずも親を残して南下したのは、つらかったにちがいありません。一つだった国が、相いれない二つの国に分かれて、断絶しているのは不幸です」
 杉山さんは韓国を訪れるたび夫妻に会い、交友を深めてきた。南北分断の理不尽さについて口にしたとき、彼女の夫は言った。「昔は新羅、高麗、百済の三つに分かれていましたよ」
 杉山さんは追憶する。「諦めとも慰めともつかない優しい口調でした。私には、文化人の深い嘆きと悲しみが秘められていたように思います」。金順実さんには、「やっぱり北を思い出すでしょ」と何気なく尋ねたことがある。「そうよね、野菊の紫が、北はもっと濃い色だったような気がするわ」。彼女の何気ない返答を受け止めてから、杉山さんは夫妻の前で北朝鮮の話をしていない。
 日本が朝鮮半島を植民地にしていたとき、国家は分断されていなかった。それだけに「日本は南北分断に責任がある」として、「日本『帝国』の成立」(山城幸松、金容権著、日本評論社)は書いている。

http://mainichi.jp/area/news/20130416ddn012040027000c2.htmlより、
 <日本は南北分断回避、民族統一政権樹立を助けるために、何らの対策も講じなかった。ただ、アメリカの極東冷戦政策に唯々諾々と従うばかりだった。(略)責任ある戦後処理を行わなかったことによって、日本は分断を促進し、固定化する役割を果たしてしまった>
 植民地朝鮮が解放されて68年になる。しかし、朝鮮半島の分断は続いている。朝鮮戦争も休戦協定(1953年)が結ばれているにすぎない。国家という大きな力を前に、杉山さんは慨嘆にたえなかった。(次回は23日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20130423ddn012040063000c.htmlより、
平和をたずねて:韓国併合 教師ゆえに/21 教え子たちと夢の再会=広岩近広
毎日新聞 2013年04月23日 大阪朝刊

 札幌で開催された冬季オリンピックが終わって間もない、1972(昭和47)年2月28日のことだった。富山市内の小学校で教師をしていた杉山とみさんは、戦前の教え子を自宅に迎えた。韓国・大邱の達城国民学校で担任した金三花(キムサムファ)さんである。
 彼女は戦死した兄の遺影に、小遣いで買った花を手向けてくれた。引き揚げるときに会えなかったので、荷造りを手伝ってくれた同級生の金正燮(キムジョンソブ)くんに、形見の人形を託した。それきり長い歳月が流れ去った。
 実は2人の教え子は結婚していた。夫の正燮さんは外交官になり、札幌の韓国総領事館の領事だった。杉山さんを札幌に招待するために、妻の三花さんは富山を訪れた。
 「人形を託した私が、教え子同士の月下氷人になっていたのです。夢のような、ドラマを超える現実に感動しました」
 杉山さんは終戦の夏、炎天下を自転車に乗せてくれた教え子を忘れることがなかった。金正燮くんも恩師を懐かしみ、杉山さんは引き揚げ先の富山で、検閲を受けた彼からの便りを1度受け取っている。
 <小鳥はさえずり、つばめは再び古巣に帰って来ました。だが一度去って帰らぬ恩師には、またいつになって再会できますでしょうか。再会の日を待つには、あまりに遠い何かがあるように感じます>
 杉山さんは言った。「国交はなかなか正常化されず、朝鮮戦争まで起きて、その後は音信不通になったままでした。それが、日本に来ているというのですから、大感激でした」
 領事となった金正燮さんは、恩師の期待を裏切らない外交官になっていた。杉山さんは札幌で教え子の韓国人夫妻から至れり尽くせりの歓待を受けた。この再会について、金正燮さんは杉山さんが自費出版したエッセー集「ゆく言葉が美しくて」に寄せている。
 <先生は家内と札幌に着くまで、飛行機の中で泣かれたそうで、降りられた時目が赤くなっていた。(略)家での楽しい晩餐(ばんさん)を終わり、夜中にふと呼びかけられた。「私は今竜宮城にいるんじゃないかしら」と。どうしても夢を見ているようだと、先生はしきりに感嘆された>

http://mainichi.jp/area/news/20130423ddn012040063000c2.htmlより、
 杉山さんは小学校の教師を退職した76(昭和51)年9月、夫妻の招待を受けて韓国を訪れる。実に31年ぶりの韓国だった。ソウルで京城女子師範の同級生との懇親を深めてから、教え子の待つ大邱へ向かう。ここでは、歓迎の言葉に涙を禁じえなかった。面影を宿した顔を前に杉山さんは、むりに日本人にしようとした皇民化教育を率直にわびた。集まった約20人の教え子はどこまでも温かかった。
 「長い間の苦しみが、春の日差しを浴びた氷のように和らぎました。その夜は、修学旅行のときみたいに枕を並べて寝ました」
 金正燮さんは前出の「ゆく言葉が美しくて」に書いている。<わたしたち夫婦は立派な師道を歩んで下さった先生を尊敬している>(次回は5月14日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20130514ddn012040067000c.htmlより、
平和をたずねて:韓国併合 教師ゆえに/22 花開いた文学の種=広岩近広
毎日新聞 2013年05月14日 大阪朝刊

 韓国にあって、「大韓民国文学賞」は最も権威ある文学賞といわれる。小説部門の第1回受賞者は、高校の教員をしていた〓恵浩(ペヘイホ)さんだった。富山市在住の杉山とみさんが、植民地朝鮮の達城国民学校で担任した教え子である。1年生で入学してきたとき、杉山さんは「星野恵浩」の日本語名を書いた名札を、学生服の胸に縫いつけている。
 〓恵浩さんは1981(昭和56)年の「大韓民国文学賞」の授賞式で、当時の全斗煥大統領に杉山さんの絵日記指導のおかげだと明かした。そのうえで〓さんは「文学の畑に一粒の種をまいてくれたお礼と受賞の報告をしたい」と願い、恩師の杉山さん捜しを始めた。
 翌年の8月、NHK国際局のアナウンサーと日本テレビの解説委員により、富山市に杉山さんのいることが〓さんに伝えられた。
 杉山さんは追想する。「遠い農村から達城国民学校まで通っていた、勉強のよくできた大柄の子が〓さんだったと、すぐに思い出せました。言葉や文字の表現を補う一助になればと、生徒には絵日記を書いてもらったのです。ポプラの木に止まっているカササギを書いたのが、〓さんでした」
 このとき杉山さんは「とても、よく書けたわね」と褒めて、赤丸を六つか七つつけた。〓さんは褒められたことがうれしくて、「将来は絶対、作家になろう」と心に決めたという。
 杉山さんと〓さんの師弟関係を知った富山の教え子が、韓国に連れて行ってくれることになり、杉山さんはこの年の秋に渡韓した。金浦空港で花束を抱えた〓さんは、「ハルモニ(韓国語でおばあさん)、小さなハルモニが、よくここまで……」と涙声になり絶句した。杉山さんは涙があふれてしかたなかった。
 再会を喜び、文学賞の受賞を祝い、杉山さんは感激を新たにする。このとき杉山さんは〓さんから当時のエピソードを聞いた。
 「〓さんは4年生のときにバイオリンの音に魅了されましたが、あの頃の農家は貧しくて買ってもらえません。母親から子豚を託され、大きく育ててバイオリンを買いなさいと言われたそうです。私が引き揚げる際、釜山までの汽車賃がないので、彼は飼育中の子豚を売って汽車賃にしたのです。そうして釜山港に来てくれたのに、私たちは会えずじまいでした」

http://mainichi.jp/area/news/20130514ddn012040067000c2.htmlより、
 その後、〓さんは初心を貫徹して作家になった。彼の勤める江原道の新鉄原総合高校の朝礼で、約70人の教職員を前に、杉山さんはこう述べた。「韓国の子どもたちを教えた教師であったことへの自責や、たった一人の兄の戦死などもあり、生きる希望も目標も失ったことがあります。さまざまな運命に漂いながらの人生でしたが、こうして〓さんに巡り合えたのは、私が生きてきたことへの受賞のように思われます」
 このあと〓さんが来日し、富山の教え子を加えて3人で京都と奈良を歩いた。杉山さんを囲む日韓の教え子の間に海峡はなかった。(次回は21日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20130521ddn012040024000c.htmlより、
平和をたずねて:韓国併合 教師ゆえに/23止 証人、語り継ぐ決意=広岩近広
毎日新聞 2013年05月21日 大阪朝刊

 戦争による被害補償を求めた「関釜裁判」の原告は、韓国・釜山市などに住む元従軍慰安婦と元女子勤労挺身(ていしん)隊の10人だった。国を相手に公式謝罪と損害賠償を請求して、1992(平成4)年12月に山口地裁下関支部に提訴した。
 富山市の杉山とみさん(91)は、原告の一人に教え子のAさんが加わっているのを知って一驚した。彼女は新卒で受け持った達城国民学校の4年生のクラスにいた。44年3月に卒業したが、当時の担任教師らの甘言を信じて女子勤労挺身隊の勧誘に応じる。富山の機械メーカーで過酷な労働を強いられた末、終戦の直前に工場が空襲に遭い、故郷で待機するように指示された。非常袋と防空頭巾を手渡されたが、一円の給料すらもらっていない。
 この「関釜裁判」が提訴された翌年の5月、杉山さんは博多で彼女と再会した。事情を聴くと、杉山さんが京城女子師範学校に新設された本科研究科に留学中に、女子勤労挺身隊の勧誘が始まっていた。
 杉山さんは語る。「同僚の男性教師が関係していたのと、私の故郷である富山の工場で大変な目に遭ったことを知り、彼女の裁判を支援しようと思いました」
 山口地裁下関支部は男性教師の言動を再現した。<「日本に仕事をしに行けば、生け花、裁縫が習える。学校にも行ける」、「日本国民であれば、すべてが皆奉仕をしなけりゃならない立場である。どうせ行くなら早く行ったほうがずっと有利である」、「もし、日本に行って嫌だったらいつでも帰ってこい、すぐ帰れるから」等と甘言・虚言を弄(ろう)して、同原告の女子勤労挺身隊への加入を勧誘した>。教師を信頼した彼女は<国のために尽くすんだ、国のためならばという思いから、また自分の希望にかなう内容だったので勧誘に応じた>(判決文から)
 杉山さんは法廷で証言した。「韓国は、日本の感覚以上に先生に対する尊敬の念が強い国でございます。先生の言われることに間違いはない、だから勧められることに従っても大丈夫だ、という思いがあったのではないかと思います」
 彼女ら原告側の代理人は被告席の国を断罪した。<被告らが学校の教師を利用して行った勧誘は、朝鮮(韓国)における学校の教師に対する素朴な信頼を悪用した、きわめて悪質なものだったのである>

http://mainichi.jp/area/news/20130521ddn012040024000c2.htmlより、
 「関釜裁判」は最高裁まで争われたが、原告の敗訴が確定した。1965年の日韓請求権協定に基づき、個人の請求権を認めないとして訴えは退けられた。杉山さんはこう話す。「彼女は故郷に帰っても同級生と連絡を絶っていました。女子挺身隊を従軍慰安婦のことではないかと誤解される恐れがあったからです。人生の大きな心の傷として消えることがないと思います」
 戦後は終わっていない−−。教師だったがゆえに、杉山さんはこれからも植民地朝鮮の証人として語り継ぐ決意を強くしている。(この項おわり)

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