火論:新日本発足の下で 玉木研二氏

http://mainichi.jp/opinion/news/20130521ddm003070125000c.htmlより、
火論:新日本発足の下で=玉木研二
毎日新聞 2013年05月21日 東京朝刊

 <ka−ron>

 1945年9月2日、薄曇りで波穏やかな東京湾のミズーリ号艦上で日本代表は降伏文書に調印した。

 翌3日付毎日新聞(東京)は1面をつぶして報じ、見出しの一つで「新日本発足の一瞬」とうたう。外相重光葵(まもる)が連合国の将帥たちの前で調印する大きな写真。その下方に、小さな広告が出ている。

 <急告 特別女子従業員募集 衣食住及高給支給前借ニモ応ズ 地方ヨリノ応募者ニハ旅費ヲ支給ス>

 広告を出したのは「特殊慰安施設協会(RAA)」である。敗戦から3日後の8月18日、政府は全国に進駐軍用の慰安施設づくりを急ぐよう指示、政府の資金的支えでRAAも設けられた。「性の防波堤を」という理屈だ。

 ちなみに、公開中の映画「戦争と一人の女」(井上淳一監督)の主人公はRAAで働き、閉鎖後は進駐軍相手の「洋パン」という街娼(がいしょう)になる。戦争が人の内面にもたらす圧迫やゆがみ、矛盾を性を通して描く作品で、この設定はキーポイントの一つだ。

 全国でどう女性を集めたか。例えば、公刊「北海道警察史」(68年)には、主に業者に委ねたが「事の重要性に鑑み警察官自身も直接これに従事」し、旧娼妓(しょうぎ)名簿から「前職者」の山漁村を訪ね、毛布・足袋・砂糖を贈って「日本および日本人のために再び稼働するよう説得し、協力を求めた」とある。

 この「官民挙げての努力」で320人余が「復職」し、「現職者」と合わせて「本道の特殊慰安婦」は770人余になったと記している。

 また「神奈川県警察史」(74年)には、女性たちを前に「昨日まではアメリカと戦えと言っていた私が、こんなこと言うのは全くたまらない気持ちです」と説きながら胸が詰まり、言葉が途切れた署長の話が出てくる。

 「続内務省外史」(大霞(たいか)会編、87年)には、米兵からの金の取り方の見当がつかず困惑し、知事と相談したという県の元警察部長の回顧が載っている。定額制にしたが、全くソロバンに合わず、結局、時間制に改めた……。

 現実には、水面下にもっと暗然とする悲惨な実相があったには違いない。

 屈辱か、後ろめたさか、公刊自治体史には「被占領体験」の記録は相対的に薄い。

 それだけでない。大きな受難や災害、失政、不都合について、国など公的機関が速やかに調査、記録を保存公開し後に伝える文化が十分育っていないのではないか。

 むろん、メディアの責任でもある。(専門編集委員)

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