【日米同盟と原発】第9回「漂流する核のごみ」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201306/CK2013060502000217.htmlより、
【日米同盟と原発】第9回「漂流する核のごみ」 (1)青森計画「国は電力の虜」
東京新聞 2013年6月5日
青森県六ケ所村に再処理施設の立地が決まった一九八五(昭和六十)年。日米両国は原子力協定の改定に乗り出す。再処理によるプルトニウムの拡散や輸送中の核ジャックを懸念する米国を説き伏せた日本。プルトニウムの海上輸送では、原子力の平和利用とは対極の秘密主義や軍事的な性格が浮き彫りになる。ソ連の民主化で冷戦は終結したが、日米同盟の下で日本の原発推進路線は続いた。二〇一一年の福島第一原発事故を経た今も漂流を続ける核のごみ。「負の遺産」を先送りしてきた「原子力ムラ」の罪は重い。
(文中の敬称略、肩書・年齢は当時)
◆膨らむ処理量
一九八三(昭和五十八)年の師走。ロッキード事件で元首相田中角栄(65)に有罪が言い渡された二カ月後に始まった衆院選は「政治とカネ」一色に染まっていた。
与党、自民党を率いる当時の首相は現在九十五歳の中曽根康弘。ところが、十二月八日、遊説先の青森市で、中曽根が訴えたのは政治倫理の問題ではなく、地元の振興策だった。下北半島を原子力開発の拠点にしたい、とぶち上げる。
ほぼ三十年前、国会で戦後初の原子力予算を議員提案し、その後も日本の原子力開発を主導してきた中曽根。「原子力の拠点」を具体化する場所として念頭に置いていたのは青森県の東側、太平洋沿いに広がる「むつ小川原」地域だった。
(写真)日本原燃の使用済み核燃料再処理施設。技術的なトラブル続きで、いまだ運転を開始していない=青森県六ケ所村で、本社機「おおたか二世」から
六ケ所村などを含む、むつ小川原は六九年の閣議決定で「新全国総合開発計画」に指定された。二万八千ヘクタールに及ぶ北の土地に石油コンビナートや製鉄会社などを誘致する国家プロジェクトが浮上し、国と青森県、経団連傘下の大手企業百五十社が出資する第三セクターが工業用地の分譲に乗り出した。
ところが、七三年と七九年の二度にわたる石油ショックで計画は頓挫。売れ残った広大な土地に目をつけたのが電力業界だった。
原発の燃料となる濃縮ウラン製造、使用済み核燃料からプルトニウムを取り出す再処理、低レベル放射性廃棄物貯蔵という「核燃料サイクル施設」の三点セットをまとめて建設する構想がひそかに検討された。
当時、東京電力の常務で、後に再処理施設を運営する日本原燃サービス(現・日本原燃)の社長を務めた現在八十九歳の豊田正敏はこう証言する。
「むつ小川原の土地が売れず、経済界は金利負担が膨らんで困っていた。初めは九州に建設する計画だったが、方針転換して青森県側と水面下の交渉を始めた」
原子力施設の立地と小川原開発の借金解消。中曽根発言は“一挙両得”を狙った電力業界の思惑を、国が事実上後押しすることを意味した。が、それはエネルギー政策の転換に翻弄(ほんろう)された下北半島に「核のごみ」を押しつける国、電力のご都合主義でもあった。
中曽根発言から七カ月後の八四年七月。業界団体の電気事業連合会は、核燃三施設の建設を正式決定し、青森県に要請した。
中核となる再処理施設の能力は年八百トン。動力炉・核燃料開発事業団(動燃、現・日本原子力研究開発機構)が七七年に運転を始めた東海再処理施設(茨城県東海村)の四倍近くで、フランスの施設と並ぶ世界最大級のものだった。
水面下の調整で、科学技術庁(現・文部科学省)や動燃は半分の四百トンを主張したが、電力業界は譲らなかった。最後は通商産業省(現・経済産業省)の支援も得て、八百トンで押し切った。東電常務だった豊田は「もう使用済み核燃料がいっぱいで、半分の四百トンでは、この先、処理が追いつかない見通しだった」と、その理由を話す。
八四年当時、国内で二十七基の原発が運転し、さらに十七基の建設を計画中。原発から出る使用済み核燃料が増え続けて、処理できない状況だった。「トイレなきマンション」と呼ばれる負の側面が表面化していた。
当時、中部電力の浜岡原発幹部だった現在七十六歳の殿塚猷一(ゆういち)はこうも言う。「電力業界の意識は『いかに安く、うまく造るか』だった。民間でやるとなった以上、採算は大きな指標。再処理工場のスケールメリットは重要だった」
ところが、再処理施設の巨大化は核兵器に転用可能なプルトニウムの大量生産につながる。八百トンの使用済み核燃料から再処理されるプルトニウムは八トンで、核弾頭千発分にも相当する分量だった。
電力業界は全量を高速増殖炉や軽水炉で燃やすプルサーマル発電に利用すると主張するが、国際社会から日本の核保有や、第三国への核流出を疑われる可能性があった。動燃幹部だった現在九十歳の中島健太郎は「八百トンだと、プルトニウムが余って管理が難しくなる。核不拡散にも逆行していた」と話す。
核のごみを増やし続けた責任を棚上げし、その後始末をめぐってプルトニウムの危険性より経済性や効率性を優先した電力業界。本来、規制する立場の国は追認するだけだった。両者の力関係について、東電常務だった豊田は明快だ。
「民間主導というけれど、原子力委員会も規制当局も実力がないからそうなっただけだ。彼らはこちらの言うことを『ふん、ふん』と聞くだけ。電力の虜(とりこ)になっていると批判されるけど、ならざるをえないんですよ」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201306/CK2013060502000216.htmlより、
第9回「漂流する核のごみ」 (2)プルトニウム 米の疑念
2013年6月5日
◆「テロの標的」
使用済み核燃料の再処理施設などの建設を青森県が受け入れた一九八五(昭和六十)年。日米両国は原子力協定の改定に向け本格交渉に着手した。
六八年に定めた協定では、日本が国内で再処理をしたり、電力会社が使用済み核燃料の再処理を委託する欧州へ輸送したりするたびに、米国の承認が必要だった。
当時、関西電力原子燃料部長だった現在七十七歳の前田肇(はじむ)は「関電だけで年に三、四回は分厚い資料を持ってワシントンを回った。使用済み核燃料の輸送が計画通りに進められず困っていた」と振り返る。
従来の協定の枠内では、巨大な六ケ所村の再処理施設を運転するのは事実上不可能だった。電力業界は、個別同意から事前にまとめて承認する「包括同意」へ切り替えるよう改定を求めていた。
当時の米大統領は共和党のレーガン(74)。核不拡散政策を掲げ、七七年の日米再処理交渉で日本と対立した民主党のカーター前政権と異なり、原子力政策に寛容な姿勢を見せていた。元俳優のレーガンは政界入りする前、原子炉メーカー、ゼネラル・エレクトリック(GE)がスポンサーのテレビ番組「GEシアター」で司会を務めたこともある。
当時、科技庁からワシントンの日本大使館に出向していた現在六十四歳の坂田東一は「米国内に『日本にとって核燃料サイクルは重要だ』という認識が広がっていた。友好的に交渉しようという雰囲気ができていた」と話す。
ところが、いざ交渉が始まると、米国側は難色を示した。反対したのは国防総省と原子力政策を仕切る米原子力規制委員会(NRC)だった。
当時、原子力協定の改定交渉を担当した外務省科学技術審議官で現在七十八歳の遠藤哲也は「国防総省の幹部は『非核保有国の日本に三十年もプルトニウムを自由にさせてはだめだ。他国へドミノ的に波及する』と懸念を示していた」。
幹部の中には、国防次官補パール(45)もいた。レーガン政権を支えたネオコンの中心人物で、その意見は米外交政策に影響力を発揮していた。
遠藤によると、NRCは「年八百トンの使用済み燃料を再処理すると、二百~三百キロのプルトニウムが配管に残り、管理できない」と指摘し、六ケ所村の再処理施設そのものにも反対したという。
このころ、中東のイランやレバノンで米国を標的にした人質事件や爆破事件が続発。米国にとって「テロ対策」は東西冷戦と並ぶ安全保障上の新たな課題として浮上していた。
日米の原子力交渉を担当した現在七十六歳の元外務官僚、金子熊夫は「米国は日本のプルトニウムを狙ったテロを心配していた。だから最後まで、日本にフリーハンドを与えようとしなかった」と話す。七七年の再処理交渉で日本の核保有に懸念を示した米国。今度は日本の核管理能力に疑いの目を向けた。
交渉開始から二年後の八七年十一月、日米両政府は新原子力協定に調印する。米国は日本の求めに応じて包括同意を与えたが「国家安全保障の脅威が著しく増大することが予想される場合は停止できる」などを内容とする一文を盛り込むことを忘れなかった。
米国の安全保障上の脅威とは何か。交渉を担当した遠藤は「日米安保条約の破棄やパナマ運河で争乱が起きた場合というのが米側の説明だった」と話すが、日本の原子力が引き続き米国の厳しい監視下に置かれる状況は変わらなかった。
条件付きながら、ようやく認められた六ケ所村の再処理施設。ところが、今度は米議会が立ちはだかった。問題視されたのは、プルトニウムをめぐる輸送だった。
<日米原子力協定>核燃料の調達や再処理、原子力機材や技術の導入などについて定めた日米間の取り決め。濃縮ウランを提供する米国が、日本の使用済み燃料の再処理や輸送などを規制できる仕組みになっている。1955年に初めて締結し、68年に商業用原発の導入に関する内容に改定。88年に発効した現協定は事前に一括して同意を得る包括同意方式を導入し、六ケ所村の再処理工場の運転が可能になった。新協定の有効期間は30年で2018年に期限を迎える。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201306/CK2013060502000214.htmlより、
第9回「漂流する核のごみ」 (3)電力マネー 逆転劇呼ぶ
2013年6月5日
(写真)1983年11月、来日したレーガン米大統領と握手する中曽根首相(右)。「ロン・ヤス」は日米の蜜月関係をアピールする言葉として使われた
◆米議会が承認
一九八七(昭和六十二)年十一月、日米両政府が新原子力協定に調印した直後。米議会で反対ののろしを上げたのはアラスカ州選出の共和党上院議員マコウスキー(54)だった。上院外交委員会で「アラスカ上空を飛行する危険な航空輸送は認められない」と承認に反対した。
新協定では、日本が英仏に再処理を委託して取り出したプルトニウムを空輸することになっていた。日米政府はハイジャックのリスクを避けるため「最短距離、無寄港」で合意したが、飛行ルートにアラスカ州やカナダ上空が含まれていた。
マコウスキーは墜落すれば、放射能汚染が深刻だとして、プルトニウムを入れる金属製容器の耐久試験や上空からの落下実験などを要求。さらに「実際の飛行機を墜落させて確認しろ」などとボルテージを上げた。
当初は言いがかりにすぎないとの見方もあったが、民主党上院議員グレン(66)ら核不拡散派の議員など党派を超えて賛同が集まった。八七年十二月、上院外交委員会は「安全対策は不十分」として新協定を否決した。
科技庁調査国際協力課長として改定交渉に携わった現在六十九歳の間宮馨は「地獄に沈むぐらいの衝撃だった。年が明けた一月三日にすぐ渡米した」と振り返る。
このころ、日米関係はかつてないほど良好だった。レーガンと中曽根の両首脳は親しみを込めて「ロン」「ヤス」とファーストネームで呼び合い、中曽根が「日米は運命共同体」と発言することもあった。それでも米議会は日米の重要な外交案件に反旗を翻した。
八〇年代後半、日本はバブル景気のまっただ中。豊富なジャパンマネーを背景に、日本企業はニューヨークの超高層ビル「ロックフェラーセンター」など米国の不動産や映画会社を買いあさった。米国にとり、かつての「敗戦国」は「貿易敵国」から今や「経済侵略国」。
当時、日米の経済交渉に携わった現在七十八歳の元通産事務次官、棚橋祐治は当時の米議会の雰囲気をこう表現した。「米国は追い上げてくる国には牙をむくんですよ」
振り出しに戻った日米原子力協定の改定交渉。日本側が頼みとしたのはやっぱりカネだった。
電力会社の幹部らは手弁当で政府の交渉団に加わった。関電の原子燃料担当支配人に昇格していた前田肇もその一人。
「原子炉メーカーや電力など米原子力産業界の幹部らと会い、日本の立場を説明した。米議員を招待して日本の原子力施設を案内したりもした」。米議会対策として原子力に詳しい元国務省幹部とロビイスト契約。その進捗(しんちょく)状況は、関電の経営戦略会議で逐一報告されていたという。
この時期に電力会社が購入を決めた米国産ウランの購入も議会対策の一つ。共和党上院議員ドメニチ(55)の地元、ニューメキシコ州は天然ウランの産地だった。
科技庁調査国際協力課長だった間宮は「議員は利益がないと動かないから」。通産省国際原子力企画官だった現在六十三歳の田中伸男は「オーストラリアから『日本は協定のためにウランを米国から買うのか』と文句を付けられた」と交渉の舞台裏を明かす。
反対派の急先鋒マコウスキーが来日した際、電力業界は東京の一流ホテルに招き、翻意するよう直訴した。
官民挙げた原子力ムラは米議会への働きかけを強める一方、プルトニウム輸送の見直しもひそかに進める。空輸から海上輸送への変更だった。「ロン・ヤス」関係を重視するレーガン政権内にも膠着(こうちゃく)状況の打開に向け、空輸をあきらめる意見が出ていた。
プルトニウムの海上輸送に変更した新協定は上下院で承認され、八八年七月に発効した。あのマコウスキーは上院本会議で賛成演説をぶつ、豹変(ひょうへん)ぶりだった。
しかし、プルトニウムの海上輸送は、日本が原子力の平和利用の理念として掲げる「民主・自主・公開」の三原則を大きく揺さぶるものだった。それは、米議会が新協定を承認する四年前の八四年、フランスからの返還プルトニウムを積んだ「晴新丸」が示していた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/arrandnuc/list/201306/CK2013060502000213.htmlより、
第9回「漂流する核のごみ」 (4)初輸送 米「自衛隊を出せ」
2013年6月5日
(写真)1984年11月、プルトニウムを積んで、太平洋上を航行する「晴新丸」(本社機「はやたか二世」から)
◆妥協策は海保
一九八四年十月から一カ月余りにわたり行われた「晴新丸」のプルトニウム輸送。一部の関係者を除いて秘密にされた極秘作戦は、「カミュ」という暗号名で呼ばれた。
輸送の指令室となったのは東京・虎ノ門にある人目につかない雑居ビルの一室。指揮を執ったのは動燃の企画部調査役だった現在七十二歳の菊池三郎だった。「カミュ」は菊池の好きなフランスのブランデー名にちなんでいた。
晴新丸が運ぶのはフランスのラ・アーグ再処理施設で、関西電力高浜原発(福井県高浜町)の使用済み核燃料から取り出したプルトニウム百八十九キログラム。日本に返還された後、動燃が運転する高速増殖実験炉「常陽」(茨城県大洗町)で使われることになっていた。
日本が核兵器に転用可能なプルトニウムを輸送するのは初めてだった。晴新丸がフランスへ出港する直前、米軍の特殊部隊がひそかに東京港を下見に訪れていた。
菊池は「米兵は三班に分かれ、船内の通信機などあちこちを調べていた。彼らは何も言わず、私の仕事はサンドイッチを差し入れするだけだった」と証言する。米潜水艦がスクリュー音を調べるため、船の試験走行も行ったという。
船はフランス北部のシェルブール港でプルトニウムを積み、パナマ運河から太平洋へ出て日本へ帰る航海ルート。海上輸送は空輸に比べ輸送時間がかかる分、テロなどに狙われやすい。当時、政府や電力業界は核ジャック防止を理由に航行中、乗船者や船の位置、積載プルトニウムの量など詳細を一切公表しなかった。
輸送後明らかになったところでは、船は無寄港で、フランス領海はフランス海軍、日本領海に入るまでは米海軍が護衛にあたっていた。空からは米国の衛星が二十四時間態勢で監視した。
日本も武装した海上保安庁の職員四人をひそかに晴新丸に乗船させていた。「彼らは私服で船に乗り、ゴルフバッグに64式小銃を入れていた、と先輩から聞いた」。そう話すのは、元海保職員で現在四十八歳の住本祐寿(まさかず)。
当時、在米日本大使館書記官だった現在六十五歳の白川哲久は「米国は、護衛に武装した公務員を乗せろと要求した」と証言。ただ、動燃の菊池によると水面下の交渉で米国が打診してきたのは自衛隊だった。
しかし、当時の世論は自衛隊の海外派遣に慎重。政府内にもプルトニウムと自衛隊の組み合わせは反発を招くとの意見が支配的だった。
駐米大使だった現在九十四歳の大河原良雄は「自衛隊を派遣することはありえなかった。日本としては、プルトニウム輸送は軍事行動ではなく、あくまで警察行動という建前を貫いた」と話す。
海保で米国側を納得させた日本。が、武装した海保職員を海外に派遣するのも初めてだった。科学技術庁原子力局長だった現在八十一歳の高岡敬展は「日本の船に乗っているのだから海外派遣ではない。日本が動いているようなもので問題ないと判断した」と話す。
当時は科技庁調査国際協力課長補佐だった坂田東一は「プルトニウムのような核物質を輸送する際、どう防護するかは公表しないのが一般的。事前に公にしないのが原子力の国際ルールだと思う」。海保幹部が武装職員の晴新丸乗船の事実を国会で公表したのは、輸送から四年後の八八年だった。
一方、晴新丸の輸送マニュアルには核ジャックを防ぐ究極の策として、プルトニウムを船ごと海に沈めることも盛り込まれていた。海保職員か米兵が船底の弁を開け、浸水させる方法だった。
最終的な判断は動燃の菊池がすることになっていたが「船長にも伝えなかった」と話す。
その船長を務めた坪田順雄(よりお)(47)の妻で現在七十四歳の光代によると、夫が任務の様子を口にしたのは帰国してから一年後。「『船が沈んだら、海がすべて放射能に汚染される、と心配だった』と振り返っていました」
核のごみをめぐる問題で、安全保障やテロの脅威という国際政治の現実を突きつけられた日本。なし崩しで行われた海保の武装護衛は新日米原子力協定下の九二年、「あかつき丸」のプルトニウム輸送で踏襲された。
日本の原発に秘密主義と軍事的な性格がまとわりついていた。
第9回「漂流する核のごみ」 (5)清志郎「ひ、ど、い」
2013年6月5日
◆世論工作 着々
核のごみをめぐる問題がありながら、それでもなお原発大国への道をひた走る日本。その原発推進路線は、世界を震撼(しんかん)させた旧ソ連チェルノブイリ原発事故後も変わらなかった。
(写真)RCサクセションの反原発レコードの発売中止を報じる88年6月23日付中日新聞朝刊社会面の記事
事故から二年後の一九八八(昭和六十三)年六月。人気ロックバンド、RCサクセションの新アルバム(LP)「COVERS」が突然、発売中止になった。エルビス・プレスリーの名曲「ラヴ・ミー・テンダー」に「核などいらねえ」などと日本語歌詞を付けた反核・反原発ソングが入っていた。
発売元は東芝EMI(現・ユニバーサルミュージック)。原子炉メーカー、東芝の子会社だった。東京・虎ノ門のホテルオークラの部屋でボーカリストの忌野清志郎(37)=二〇〇九年死去=に発売中止を伝えたのは当時EMI統括本部長で現在六十七歳の石坂敬一。
「事情を説明すると、清志郎さんは『うむ、む、む…。それはひ、ど、い』と怒った。テーブルの灰皿を壁に向かって投げつけた」と、当時を振り返る。
石坂によると、中止は当時の社長の決断。その社長は親会社の東芝から来ていた。「『清志郎さんとの関係が破綻することもありますよ』と再考を求めたが、社長は『やむを得ませんね』と答えた」と証言する。
「いま振り返ると(親会社からの)すごい圧力はなかったと思うが、子会社が自粛した格好だったかなあと思う」と石坂。
アルバムは二カ月後、別のレーベルから発売された。会合に同席していた清志郎の知人で、現在は音楽事務所の代表を務めている相沢自由里(じゆり)はこんなエピソードを明かす。
「しばらくして、広告代理店を通じて東京電力からCMソングの依頼が清志郎に継続してあった。私が『原発を推進しているところのCMはやりません』と断りました」。東電の真意について相沢は「分からない」とだけ話す。
RCの“事件”が起きた八八年、電気事業連合会は「原子力PA企画本部」を設置した。PAは「パブリック・アクセプタンス」の略で「社会受容」という意味。チェルノブイリ事故で広がる反原発運動の沈静化を目指した事実上の世論工作だった。
当時、作られたパンフレットは「原子炉は安全にコントロールされます」「化学爆発は起きません」「放射性物質は格納容器に閉じ込めます」-などチェルノブイリとの違いを指摘する言葉ばかり。事故から学ぶのではなく、日本の原発の安全性をことさら強調する内容だった。
*1997年の「放送レポート」に掲載された「原子力PA方策の考え方」から抜粋
マスコミ対策に力を入れ始めたのもこのころだ。電力業界のOBなどでつくる日本原子力文化振興財団が九一年に作成した広報マニュアル「原子力PA方策の考え方」。本紙は、全文を掲載した九七年発行のメディア研究誌「放送レポート」を入手した。
それによると、原子力推進に向け「文部省(現・文部科学省)の教科書検定に反映させるべきだ」「ドラマの中に原子力を織り込んでいく」などと、百以上の項目にわたり具体的な助言が書かれてあった。財団は九五年から元朝日新聞論説主幹の岸田純之助を監事に迎え入れていた。
政界対策もそう。電事連は本紙の取材に、自民党の機関誌に広告料名目で八三年から九二年までの十年間、総額五十五億五千万円を支払っていたことを明かした。さらに電力の経営陣は議員への個人献金やパーティー券の購入なども行い、原発を推進する自民政権を資金面で支えた。
チェルノブイリ事故から三年後の八九年、ベルリンの壁が崩壊し、戦後の国際社会を四十年以上分断した東西冷戦が終結した。その二年後、ソ連も崩壊する。体制にはびこった秘密主義や隠蔽(いんぺい)体質を暴いたのは、皮肉なことにその象徴だった原発の事故だった。
一方の日本。核や原子力をめぐる世界の潮流が大きく変わろうとする中、冷戦終結後も原発を増やし続けた。そして、二〇一一年三月、福島第一原発事故が起きた。
電力業界が鳴り物入りで九三年に着工した、あの青森県六ケ所村の再処理施設は二十年たった今も運転開始のめどはたっていない。約一万七千トンにものぼる使用済み核燃料はいまだ行き場もなく「負の遺産」として再処理施設の貯蔵プールや全国の原発に眠っている。
<チェルノブイリ原発事故>1986年4月26日、旧ソ連ウクライナ共和国(現ウクライナ)のチェルノブイリ原発4号機が試験運転中に爆発。隣接するベラルーシやロシア、欧州など広範囲が放射性物質で汚染された。半径30キロ圏内の市民が強制避難させられたほか、多数の作業員が被ばくの危険を冒して事故処理に当たり、急性放射線障害が相次いだ。
事故影響による死者は数千~数十万人と諸説ある。2000年までに閉鎖されたが、放射性物質を封じ込める「石棺」が老朽化し、新たなドームで覆う作業をしている。原発事故の深刻度を示す国際評価尺度(INES)は、東京電力福島第1原発事故と並ぶ最悪の「レベル7」。
戦前から冷戦期までを描いたシリーズ「日米同盟と原発」は今回で一区切りとします。
この特集は社会部原発取材班の寺本政司、垣見洋樹、北島忠輔、レイアウトは整理部の森耕一が担当しました。