ナガサキ平和リレー:特攻艇「震洋」の歴史を

http://mainichi.jp/area/nagasaki/news/20130609ddlk42070262000c.htmlより、
ナガサキ平和リレー:/209 特攻艇「震洋」の歴史、後世に/長崎
毎日新聞 2013年06月09日 地方版

 旧日本海軍の水上特攻艇「震洋」を後世に伝える資料館が、訓練所のあった川棚町新谷郷に完成した。地元の人たちは「あまり知られていない震洋の実態や、犠牲になった特攻隊員のことが少しでも伝わるように」と、開館に向け資料整理を進めている。
 大村湾の波静かな入江に面した新谷郷。太平洋戦争末期の1944年に設置された「川棚臨時魚雷艇訓練所」の名残が、海面にのぞく桟橋の一部にうかがえる。訓練所跡には、ここを巣立ち、戦地で散った兵士約3500人の名を刻んだ「特攻殉国の碑」(1967年建立)があり、資料館(約55平方メートル)はそのそばに立つ。
 資料館の構想は訓練所の元教官、西村金造さん(享年90)が進めてきた。息子の慎吾さん(66)によると、「殉国の碑保存会」事務局長の西村さんは、高齢化に伴い当時を知る元隊員が減るなか「資料を散逸させず、後の人が震洋を調査・研究できる施設が必要だ」と訴えていた。資料館には、西村さんが西海市の自宅に保管していた兵士の軍服、遺書などが収められている。
 震洋は、悪化する戦況を打開しようと開発された1〜2人乗りの船。ベニヤ板の船体に爆薬250キロを積み、体当たりで敵艦を沈めるというものだった。乗り込んだのは、海軍飛行予科練習生(予科練)ら。航空搭乗員を目指す彼らに、飛行機は残っていなかった。
 「俺はこんなもので死ぬのかと失望し、悔やんだ」。三重県の予科練出身の元隊員、藤山均さん(86)=諫早市=が当時、震洋に抱いた感想だ。船体は岩に当たるだけで壊れ、金づちで修理した。エンジンは自動車の転用品。湾内の廃船を敵に見立てた襲撃訓練を繰り返しながら「航続距離も短く、『成功率が低いのは目に見えている』と、仲間内で話していた」と証言する。
 短い訓練の後、フィリピンなどに配置された震洋特攻隊だったが、戦果はほとんどないまま2500人以上が命を失った。鹿児島県で終戦を迎えた藤山さんは「みじめな戦争を、若い人には繰り返してほしくない。仲間を弔うためにも、資料館があるのは、いいこと」と話した。

http://mainichi.jp/area/nagasaki/news/20130609ddlk42070262000c2.htmlより、
 「(震洋で)戦わされる兵隊がかわいそうだった。そう思っていても、訓練するしかなかった自分には責任がある」。そう言って、隊員の慰霊祭などに取り組んだ西村さんは昨年3月、建物の完成直前に亡くなった。資料の整理などは、新谷郷の住民が協力している。地区総代の広川英雄さん(76)は「人間魚雷『回天』などに比べ、震洋は知られておらず、風化が心配。可能な限り歴史を残すことで、平和教育にも生かしてほしい」。【小畑英介】
「ナガサキ平和リレー」は毎月9日に掲載します
〔長崎版〕

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