東京新聞【憲法と、】第3部 沖縄の怒り
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/kenpouto/list/CK2013061802000188.htmlより、
【憲法と、】第3部 沖縄の怒り<上> 「復帰は日米安保の下だった」
東京新聞 2013年6月18日
沖縄の怒りは頂点に達していた。一九九五年十月二十一日、米兵による少女暴行事件に抗議する県民総決起大会が宜野湾市の海浜公園で開かれた。知事(当時)の大田昌秀(88)は開会直前に中国・福建省から那覇空港に戻ったが、道路は大会に参加しようとする人々の車で大渋滞。急きょ、高速艇で海から会場に向かった。
「沖縄は絶えず基地に足を引っ張られてきた。戦後五十年を変わり目にしたい」。会場をぎっしり埋めた八万五千人(主催者発表)を前に訴えた。
学徒動員された沖縄戦で、友達を大勢失った。五二年のサンフランシスコ講和条約発効で、日本は国際社会に復帰したが、沖縄は米国統治下で軍事基地化が進んだ。沖縄が「捨て石」にされてきたという思いを抱きながらも大田は、平和憲法のある日本への復帰を望んだ。しかし「七二年五月十五日に復帰したのは憲法の下ではなく、日米安全保障条約の下だった」。
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当時、米国・ロサンゼルスを拠点に音楽活動していたロックミュージシャンの宮永英一(61)は、北米沖縄県人会の知人から、少女暴行事件や決起大会について知らされた。
「あの時と同じ。たまりにたまった怒りが爆発したんだ」。あの時とは七〇年十二月二十日未明。米国統治下のコザ市(現沖縄市)で自然発生的に暴動が起こった。
コザには沖縄の矛盾が凝縮していた。米兵と日本人女性から生まれたハーフの宮永は、米兵相手の店で演奏していた。「米兵はさげすむような目で沖縄の人たちを見ていた。演奏が気に入らなければ、ビール瓶や灰皿を投げつけられた」
六四年に米国のベトナム介入が始まると、死におびえる米兵は、コザの歓楽街でありったけの金を使い、戦地に向かった。バーで働く人らがその金に群がった。彼らは基地を憎みながら、依存していた。米兵の怒りを買うようなことは避けてきた。米兵がらみの事件では泣き寝入りすることも多かった。
しかし、あの夜は違った。米兵が起こした人身事故がきっかけで、暴徒と化したコザの人たちは、七十台以上の米兵車両に火を放ち、嘉手納基地に突入した。混乱の中に宮永もいた。「みな打撃を受けることは分かっていた。でも、止まらなかった」
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琉球大大学院生の親川志奈子(32)は小学五年のときに那覇市に引っ越すまで、沖縄市で暮らした。嘉手納基地を発着する米軍機の騒音で学校の授業はたびたび中断された。
少女暴行事件への激しい怒りが残る九八年、沖縄の高校生を米国に留学させる国費留学制度ができた。親川はこの制度を使ってルイジアナ州へ。「アメとムチのアメですよ」。基地問題を訴えようと気負って渡った米国では「沖縄どころか、日本がどこなのかも知らない人が多かった」。(文中敬称略)
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国土面積の0・6%しかない沖縄に、在日米軍施設の74%が集中する。圧倒的な負担の不平等を解決するすべも見つからぬまま、永田町では改憲論議が盛り上がる。年代も立場も違う三人の目から見た憲法の光届かぬ島の姿を追った。
<沖縄米兵少女暴行事件> 1995年9月4日、沖縄県に駐留する米兵3人が12歳の女子小学生を強姦(ごうかん)。県警は米軍側に容疑者の身柄引き渡しを要求したが、起訴前の引き渡しを米軍側が拒める日米地位協定を盾に拒否した。米兵3人は後に起訴され、有罪判決が確定した。
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/kenpouto/list/CK2013061902000178.htmlより、
第3部 沖縄の怒り<中> 「戦争に利用許せない」
2013年6月19日
「本土復帰により、日本国憲法下の地権者になった立場から、憲法九条に基づく軍事基地、軍隊の拒否は当然の行為だと考えております」
一九九七年十月、沖縄コンベンションセンターで、琉球大大学院生の親川志奈子(32)の祖父は、声を張り上げていた。米軍用地として強制収用されていることが妥当かどうかや、期間を決める県土地収用委員会の審理の場。反戦地主の一人として、土地が奪われた怒りのたけを委員にぶつけた。
曽祖父は戦前、一家でサイパンに移住、祖父が生まれた。当時、貧困にあえぎサイパンでの農業や漁業に活路を求めた沖縄の人は少なくなかった。戦後、祖父が沖縄に戻ると、曽祖父が帰国する日を夢見て購入していた土地は、嘉手納基地となっていた。
祖父はその怒りを孫の親川に伝えることはあまりない。それでも沖縄戦が終結した六月二十三日の慰霊の日などには「自分は戦争難民。土地を追われ、帰るところがない。戦争に土地を使われることが許せない」と漏らすことがある。
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米兵少女暴行事件があった九五年九月二十八日、沖縄県知事(当時)の大田昌秀(88)は、積もり積もった沖縄の憤怒を一つの行動として表す。土地収用の書類に署名することを拒む反戦地主の代わりに行ってきた代理署名をやめると、県議会で明かした。「沖縄の最大の問題は土地問題」という長年の思いがあった。
村山富市首相から訴えられた大田は九六年七月十日、最高裁で意見陳述する。「憲法の理念が生かされず、基地の重圧に苦しむ県民の過去、現在の状況を検証し、若者が夢と希望を抱けるような、沖縄の未来を切りひらく判断をお願いします」。結果は敗訴。最高裁は「知事は代理署名する義務がある」と判断する。
政府は翌年、「日米安保条約上の義務を果たすことは、国家の存立に関わる重大問題」として、土地収用を容易にする米軍用地特別措置法改正案を国会に提出。日弁連は、憲法で保障された国民の財産権を侵害する恐れがあると批判したが衆参両院は圧倒的多数で可決した。「自分のこととして考えない国会議員たちは痛くもかゆくもないだろう」。沖縄戦の多大な犠牲とひきかえに手に入れたはずの民主主義が、機能していないと感じた瞬間だった。
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二〇〇四年八月十三日、米国から沖縄に戻っていたミュージシャン宮永英一(61)は、家族と食事に出た帰り、宜野湾市の自宅の方から異様な煙が出ているのを見た。米軍普天間飛行場の大型ヘリが沖縄国際大学に墜落、炎上。すでに一帯は米軍に封鎖されていた。自宅からわずか百五十メートルだった。
「バンド仲間には、宮森小に米軍機が落ちたときに通っていたやつもいる。沖縄ではこんな事故が身近にあるんだ」。一九五九年、米国統治下の石川市(現うるま市)の宮森小学校に米軍機が墜落した事故では、火だるまになった子どもや周辺住民十七人が亡くなっている。
土地が奪われ、命が危険にさらされる。憲法がなかった占領下でも今も、その現実に変わりはない。
「憲法以前の問題だ」(文中敬称略)
<米軍用地特別措置法(特措法)> 国が米軍に土地を提供するため地権者から強制的に使用権を得る手続きを定めた法律。現在は沖縄県でしか適用されていない。知事の代理署名拒否などに伴い、96年に同法に基づく使用期限が切れ、不法占拠状態の土地が出てきたため、政府は翌97年に法改正。現在は、収用の是非を判断する県収用委員会の審理中も土地の暫定使用が可能となり、収用委が使用を認めなくても防衛相の決裁で使用できる。沖縄の米軍用地の地権者は4万354人(2011年1月1日現在)。このうち土地の賃貸借契約を拒むなどした3832人の土地に特措法を適用している。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/kenpouto/list/CK2013062002000192.htmlより、
第3部 沖縄の怒り<下> 「普天間移設先の命 軽視」
2013年6月20日
日本人の母親と米兵の間に生まれたミュージシャンの宮永英一(62)は、ウチナーグチ(沖縄語)しか話せない祖母に育てられた。それだけに日本人でも米国人でもなく、沖縄人という意識が強い。
かつて「世変(ゆがわ)い」という曲を作った。
ヤマト(日本)の世になって名前も変わった。あげく戦の世になりがれきの山となった。
米国の世になって通貨が変わった。ファッションも食べ物もすべて変わった。
(中略)
祖国はどこなんだ。
琉球の魂を取り戻そう
(原詞はウチナーグチ)
昨年五月十五日の沖縄復帰四十周年式典に沖縄県ロック協会の会長として招かれた。首相の野田佳彦(当時)ら来賓が祝いの言葉を述べるのをいらだちながら聞いた。「復帰すべきは、日本へではなく、薩摩藩に併合される前の琉球へだった」
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二〇一〇年四月二十五日、読谷村(よみたんそん)運動広場は九万人(主催者発表)の県民で埋め尽くされた。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の県内移設に反対する県民大会。熱狂の中に大学院生の親川志奈子(32)もいた。
一九九五年九月の沖縄米兵少女暴行事件から七カ月後、日米両政府は七年以内の普天間飛行場返還に合意。中学生だった親川は「すごい」と思った。合意から十七年が過ぎたが、返還は実現していない。
大学生のとき留学したハワイは、かつて独立王国だったのに米国が併合。米軍基地が置かれ、ハワイ語が失われた。「沖縄と同じだ」と思った。
米政府は一九九三年、かつてハワイの主権を奪ったことを認め、謝罪した。一方、文部科学省は二〇〇七年の日本史教科書検定で、沖縄戦で日本軍による自決命令があったとする記述に修正意見を付けた。「沖縄の人が親や祖父母から聞かされたことは全部うそだったというのか」
親川は同じ憲法の下にある本土から、沖縄が差別されていると思うようになった。今、沖縄語の復興に取り組んでいる。
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普天間返還合意から間もなく、政府の辺野古沖移設案が浮上すると、当時知事だった大田昌秀(88)は辺野古の女性たちの訪問を受けた。
「普天間は人口密集地で事故が起きたら多くの犠牲がでるから、わたしたちのところに移すのですか。わたしたちの命は普天間の人の命より軽いのですか」。返す言葉がなかった。米軍基地を押しつけられている沖縄と本土の関係を言っているようだった。
沖縄戦で地獄を見て、生きる希望さえ失っていた大田は、本土から密航船で運ばれてきた憲法のコピーを無我夢中で書き写した。そこには、平和主義、基本的人権の尊重、国民主権が書かれていた。
沖縄で徐々に独立したいという機運が強まる中でも、大田は憲法に光を見いだし続ける。「沖縄県民は憲法を求め、憲法に書かれた権利のひとつひとつを勝ち取ってきた」との思いがある。今も手にした権利は十分ではなく、その営みは道半ばだ。「改憲されたら沖縄の戦後の苦労が消えてしまう」=文中敬称略
<米軍普天間飛行場返還問題> 1995年の沖縄米兵少女暴行事件を機に日米両政府が協議を始め、96年、移設して返還することで合意。2005年には名護市辺野古地区への移設で合意した。09年に誕生した民主党政権は県外移設を模索したが10年に断念。地元の根強い反対がある中で沖縄防衛局は今年3月、県に辺野古沿岸部の埋め立てを申請した。県はまだ結論を出していない。
(この企画は、飯田孝幸が担当しました)