平和をたずねて:兵隊無情 死線を超えて 1~8

http://mainichi.jp/area/news/20130528ddn012040069000c.htmlより、
平和をたずねて:兵隊無情 死線を超えて/1 91歳、全身で戦争を語る=広岩近広
毎日新聞 2013年05月28日 大阪朝刊

 細身の高い背は真っすぐ伸び、声に張りがあった。なにより目力が強い。大きな文字で整然と書かれた手紙の一文を思い出すまでもなかった。やむにやまれぬ気持ちから、遺言として戦争体験を語る信条が、91歳翁の全身を包んでいた。
 大阪市東淀川区の瀧本邦慶(くによし)さんから届いた手紙に、こうあった。<太平洋戦争の最後の海軍兵として、戦争の悲惨さや無意味さ等について、私の体験した事を話して、不幸な過ちを二度と起こす事のないよう、若者に訴える平和活動をさせていただいております>
 寒波の厳しかった2月20日、瀧本さんは自宅から電車を乗り継いで大阪府北部の中学校に姿を見せた。2年生の約270人が平和学習の一環として、瀧本さんの戦争体験に耳を傾けた。生徒は知覧特攻記念館のある鹿児島県への修学旅行を予定していた。
 私が瀧本さんに同行するのは、昨夏に続いて2度目だった。広島原爆の日に、大阪市内の中学校が「反戦平和学習の集い」を開き、瀧本さんの話を聞いた。
 夏であれ、冬であれ、瀧本さんは人さし指の1本にまで強い意思をこめて、生徒と向かい合う。「いいですか、私たち戦争にとられた者が死んだら、体験者の話を聞く機会がなくなります。皆さんの長い生涯で、たぶん今日しかない、そのつもりで私の話をよく聞いてほしい」
 瀧本さんは1921年の大正10年生まれである。香川県西部の燧灘(ひうちなだ)に面した桑山村(現三豊市)の農家の長男で、姉と2人の弟の4人姉弟だった。
 「当時の農村は貧しかったです。私は体格がよかったので、子どもの頃から山に薪取りに行くなどして、両親の手伝いをしました」
 満州事変が起きたのは、瀧本さんが桑山尋常小学校3年のときだった。1931年9月、日本陸軍の関東軍は旧満州(現中国東北部)を制圧するため、南満州鉄道を爆発させ、中国軍の仕業だと偽って軍を侵攻させた。翌年の1月には上海事変が勃発する。このとき3人の兵隊が爆弾を抱えて中国軍の鉄条網に突っ込んだといわれるが、事故死との説もある。ともあれ毎日新聞が「爆弾三勇士」、朝日新聞は「肉弾三勇士」と名づけて報じると、三勇士は歌や映画になり、軍国教育に利用された。
 瀧本さんはマイクを握り締め、生徒に語りかける。

http://mainichi.jp/area/news/20130528ddn012040069000c2.htmlより、
 「当時はラジオから新聞、テレビはないからね、昔やから、小説から映画から芝居、そして流行歌、全てが戦争をたたえる世の中だった。男の子はね、小学校1年生のときから、大きくなったら兵隊さんになって、天皇陛下のため、国のために、戦争に行って戦死をせよ、戦死したら靖国神社に神としてまつられる、これが男の最高の名誉だと、そのように教えられた。それで私は、国の思うとおりの人間になり、戦争に行ったわけです」
 満州事変から日中戦争そして太平洋戦争と、瀧本さんの少年期から青年期は「十五年戦争」の渦中にあった。(次回は6月4日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20130604ddn012040027000c.htmlより、
平和をたずねて:兵隊無情 死線を超えて/2 父の影響、海軍を志願=広岩近広
毎日新聞 2013年06月04日 大阪朝刊

 ラッパといえば、映像や絵画で目にしたことのある軍隊の進軍ラッパや起床ラッパを連想しがちだが、日中戦争時の香川県観音寺市ではちがった。戦死者の合同葬を営むとき、ラッパが吹かれたのである。商業学校のラッパ部が駆けつけて、高らかにラッパを鳴らした。
 このラッパ部に、戦争体験の語り部をしている大阪市東淀川区の瀧本邦慶(くによし)さん(91)がいた。尋常小学校を卒業した瀧本さんは、観音寺市の商業学校に進んだ。軍隊式のラッパに魅せられて部員になったという。
 「校外に出て練習をし、観音寺のメインストリートをラッパを吹き鳴らして軍列行進をしたものです。すでに軍国少年だったので、勇躍していました」
 戦死者の合同葬を振り返って、瀧本さんは聴講の中学生に語るのだった。
 「中国大陸は広いから戦死者がたくさん出る。遺骨が帰ってくると、市町村でまとめて合同葬をするわけです。その葬式の席で、母親が亡くなった息子の遺骨を抱いて祭壇で待っているときにね、母親は涙を流すことができなかった。許されない。名誉の戦死をして帰って来たのに、その葬式で涙を流すとは何事や、非国民だと言われるわけです。そのくらいね、人の心っていうのは、いったん戦争になると変わってしまう。そうでしょ、自分の可愛い息子が戦争に行って戦死をして帰ってきて、その葬式にね、涙を流さない母親がおりますか、涙を流すのが当然でしょ。戦争反対という声も絶対に出せなかった、そんな世の中でした。皆さん、ちょっと想像できないでしょう。当時は若者も洗脳されているから、そういうことを言う気にもなれない。私がそうでした」
 瀧本さんが通った商業学校では善通寺師団などから兵隊が教官としてやって来て、週3時間は軍事教練がなされた。樫(かし)の棒で模造した銃による「立ち撃ち、膝撃ち、寝撃ち」をこなしてから、実物の三八式歩兵銃による実戦さながらの訓練を行った。
 瀧本さんは、早くから将来の進路を職業軍人と決めていた。父親が海軍に13年間いた影響も大きい。「父は水雷科の上等兵曹で、魚雷の構造からフランスまで遠洋航海に行った話を聞いて育ちました。そのうえに軍国主義教育をたたきこまれていたので、兵隊はカッコ良いと憧れたのです」
 当時は、高級職業軍人を目指す若者が多かった。海軍兵学校、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、海軍機関学校などが登竜門である。

http://mainichi.jp/area/news/20130604ddn012040027000c2.htmlより、
 「私は勉強嫌いだったので、一般兵卒から階級のあがっていく中級の職業軍人になる心づもりでした」
 瀧本さんは迷うことなく海軍を選んだ。「種々の軍事教練を通して、歩き回る陸軍だけは嫌でした。そのかわり水泳は得意で、子どもの頃に農業用のため池で泳いだものです」
 当時は徴兵されると、陸軍に取られる者が多かったという。だから瀧本さんは、徴集される前に海軍を志願した。紅顔の17歳だった。(次回は11日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20130611ddn012040062000c.htmlより、
平和をたずねて:兵隊無情 死線を超えて/3 出征の駅に両親姿なく=広岩近広
毎日新聞 2013年06月11日 大阪朝刊

 日本が陸軍と海軍を保持していた戦前、男子は大日本帝国憲法で兵役の義務を課せられた。兵役法により20歳になると徴兵検査を受け、合格者は兵役(陸軍2年、海軍3年)につかねばならなかった。歴史学者の大江志乃夫氏は著書「徴兵制」(岩波新書)に書いている。<必任義務としての徴兵制とは、たんに青年を一定期間軍隊に徴集する制度ではなく、国家全体を軍事化する制度であった>
 そうした兵役下にあって、17歳から入隊できる志願兵は、忠良なる兵隊つまり良兵の供給源として期待された。とりわけ海軍は志願兵が支えていた。
 戦争体験の語り部をしている瀧本邦慶(くによし)さん(91)が、海軍を志願して徴兵検査を受けたのは1939(昭和14)年2月だった。瀧本さんは追想する。
 「寒い日でしたが、身体検査は越中フンドシをつけて裸で受けるのが決まりでした。軍医に、性器から肛門まで調べられ、異常がないと、尻をパンとたたかれて合格です」
 このとき瀧本さんは香川県観音寺市の商業学校に在籍しており、1カ月後に卒業を控えていた。就職にしても、級友たちが憧れた満州鉄道に内定済みだった。家族以外には内緒で徴兵検査を受けたため、合格するや満鉄に推薦してくれた教師に打ち明けた。
 「先生の驚きと怒りは大変なものでした。入社の難しい満鉄に入れてやろうというのに、お前のようなやつは本校始まって以来だ−−とこっぴどくしかられたものです」。瀧本さんは句切って続ける。「先生にすれば、必ず徴兵に取られるのだから何も急いで入隊することはないだろうとの親心だったと思います。でも陸軍嫌いの私は、満州に行って陸軍の徴兵にあうことだけは避けたい。軍国少年になっていた私は、初心を貫徹したのです」
 その年の6月、瀧本さんは佐世保海兵団に入隊が決まり、郷里を後にする。出征の日、実家の桑山村(現・香川県三豊市)を走る予讃線本山駅には、大勢の村人が集まっていた。村長をはじめ小学校の教師や生徒、友人の顔も見られた。いつもの光景ながら、この日は瀧本さんが主役だった。
 両親とは自宅で別れを惜しんだ。海軍に13年間いた父親は「行ってこい!」と短く切った。母親は「気をつけて行っておいで……」と情感をこめた。

http://mainichi.jp/area/news/20130611ddn012040062000c2.htmlより、
 「母は生きて帰って来るんだよ、と言いたかったにちがいありません。しかし、軍国主義の風潮を守って、口に出せなかったと思います。両親は自宅から表に出ず、だから駅に姿を見せませんでした」
 瀧本さんは見送りの人々を前に、お礼のあいさつをし、最後に決意を述べた。「私は、先輩に負けないだけの働きをしてきます」
 「バンザイ」の声が響き、蒸気機関車がゆっくりと動き出した。日の丸の小旗を振る村人に囲まれた歓送の駅、ひっそりと自宅に残った両親−−この対比が、軍国の世の一面を映し出していた。(次回は18日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20130618ddn012040044000c.htmlより、
平和をたずねて:兵隊無情 死線を超えて/4 「カラス」苦難の訓練=広岩近広
毎日新聞 2013年06月18日 大阪朝刊

 奈良と京都に都が置かれた千数百年以上も昔の時代、鎮守府と呼ばれる軍政を担う役所があった。朝廷が「蝦夷(えぞ)鎮圧」のため陸奥国に設置した。古代日本で使われた軍事機関の名称ながら、死語にならず明治になって復活している。海軍が軍港を有する根拠地を、鎮守府と名づけたのだった。
 1886(明治19)年に海軍条例が制定され、日本の沿岸を5海軍区に分けて、鎮守府を置くことになった。横須賀、呉、佐世保に開庁し、その後に舞鶴と続いたが、室蘭は見送られた。鎮守府には、新兵を教育する海兵団があった。
 香川県観音寺市の商業学校を卒業した瀧本邦慶(くによし)さんは、1939(昭和14)年6月に佐世保海兵団に入隊する。第3海軍区の佐世保鎮守府は四国、九州、沖縄、さらに植民地にしていた朝鮮半島や台湾が管轄エリアだった。
 瀧本さんは振り返る。「一般水兵の入隊なので、最下級兵の4等水兵でした。佐世保海兵団は他の海兵団に比べて最も気風が荒く、厳しい伝統を持っていると聞いていたので、17歳の私は、緊張して水兵服に袖を通したものです」
 軍服に階級章はつきものだが、4等水兵のセーラー服にはなかった。色は冬が濃紺で、夏は白と決まっていた。ひさしがなく、頂部がたいらな水兵帽は黒一色で、そんな4等水兵は「カラス」と呼ばれた。冬服のときは白のリボンを帽子のふちに巻いて後ろに垂らし、夏服のときは黒色のリボンに変わった。
 海兵団の「カラス」は艦隊に乗り組むための基礎訓練に明け暮れた。手旗や無線の実習、弾丸を装填(そうてん)する艦砲教練、遊泳、ボートの上げ下ろし、救助艇作業、短艇への乗り移り……。
 「新兵訓練は苦しいの一語に尽き、気力あるのみでした。なかでもカッター訓練は、筆舌に尽くしがたいほどきつかったです」
 カッターは手こぎボートのことで、右舷と左舷に6人ずつが浅く腰かけて、12本のオールを一斉にこぎながら進む。「用意!」「前へ!」の合図がかかると、12人の新兵は体を前後に動かし、約5メートルのオールで海水を切った。
 「両手の指と尻の皮がボロボロになり、血まめもできました。訓練のたびに他の班と競争するのですが、負けると海水を頭から浴びせられたうえ、食事を抜かれるので誰もが必死です」

http://mainichi.jp/area/news/20130618ddn012040044000c2.htmlより、
 海兵団はすべてが競争だった。狭い艦内では麻布の釣床(ハンモック)で眠るため、釣床の上げ下ろし競争も日課になっていた。「総員起こし」の号令がかかると床に飛び出し、1本のロープで釣床を縛ってたたむ。これが釣床上げで、続いて「総員寝ろ!」と命じられると、再び釣床づくりにかかる。5カ所ある結び目をそろえ、1分以内に作業を終えねばならなかった。
 「釣床の上げ下ろしは必ずタイムをとられ、毎晩10回ほどやらされました」
 そして11月、瀧本さんは佐世保海兵団を卒業する。3等水兵となり、艦艇に乗り組むのだった。(次回は25日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20130625ddn012040074000c.htmlより、
平和をたずねて:兵隊無情 死線を超えて/5 あしき伝統「バッター」=広岩近広
毎日新聞 2013年06月25日 大阪朝刊

 海軍に伝わるバッターは犯罪的な体罰であった。「軍人精神注入棒」と呼ばれた樫(かし)の棍棒(こんぼう)で、上官から力まかせに臀部(でんぶ)を打ち据えられる。佐世保海兵団から機雷の敷設艦八重山に配属された瀧本邦慶(くによし)さんを待っていたのが、このバッターだった。
 「古参兵が種々の文句をつけては、毎夜、バッターをやるのです。両手を上げ、前かがみの姿勢をとらされ、突きだした尻に最低3発はくらう。尻の激痛であおむけになれないため、横向きか下向きになって寝るしかありません。洗面所に行っても座れず、便器の左右に両手をついて腰を浮かしたものです。気を失う者や、打たれどころが悪くて背骨を折る者もいました」
 戦争の語り部を続ける91歳の瀧本さんは、中学生の集団を前にして言った。「海軍いうところはね、非常にいじめがきつい。生命の危険を感じるほど、いじめられる。海軍には、そういう伝統があったのです」
 瀧本さんが話すように、バッターは海軍のあしき伝統としてまかり通っていた。「日本海軍史」(毎日新聞社)の「私の海軍体験」に、14歳で入隊した最年少の兵隊が<夢にまでうなされたバッター>について、こう寄せている。
 <下士官らが力一杯棍棒を臀部に叩(たた)きつける。はじめのころは二メートルもすっ飛ぶ。痛いなどというものではない。よく死なないものだと感心さえした。(略)私が一八本やられたときは一〇本目くらいで気絶した。(略)ある者など失神したのをロープで天井にぶら下げてなぐりつづけられた。二五本はやられただろう。このときの制裁が原因で、肛門が開いたまま死んだ愛媛出身の少年兵もいた。なぐられると臀部は青く“死に色”にはれあがり、階段を這(は)って上がったものである。鳥の啼(な)かぬ日はあっても、バッターのならぬ日はなかった。内出血をして痛みのとれぬ上へなぐられるのだから、海軍はまさに生き地獄だった>
 このほか鉄拳制裁の「顎(あご)の分解掃除」も常態化していた。げんこつで顎を殴られるのだが、歯がこぼれる新兵もいたそうで、この体罰の俗称さながらだった。
 ある夜、同じ初年兵が何度もバッターを浴びた。瀧本さんは黙視できなくなり、意を決して歩み出た。
 「それ以上、打つのをやめて、かわりに私を余分に打ってください」

http://mainichi.jp/area/news/20130625ddn012040074000c2.htmlより、
 まさに、飛んで火に入る夏の虫となった。「3日間は、まともな姿勢で歩けませんでした。バッターの痛さだけは、やられた者にしかわかりません」
 この日から瀧本さんは古参兵に目をつけられ、ことあるごとにいじめに遭う。軍隊では上官に口答えできないから、いじめはエスカレートしていった。
 「バッターに加えて、お茶や水を飲ませてもらえないのはつらかったです」。瀧本さんは顔をしかめた。「掃除をする際に使った汚れた水を倉庫に隠しておき、古参兵が寝てから床を抜け出して、汚れた水を飲んでしのぎました」(次回は7月2日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20130702ddn012040077000c.htmlより、
平和をたずねて:兵隊無情 死線を超えて/6 いじめ苦悩、練習生に=広岩近広
毎日新聞 2013年07月02日 大阪朝刊

 <軍隊の用は戦闘に在り故に百事皆戦闘を以(もっ)て基準と為(な)すべし>。帝国海軍では、この軍事要綱がすべてに適用された。教育もしかりで、海軍兵学校の「生徒教育」、海兵団の「新兵教育」、専門技術を持つ特技兵を養成する「練習生教育」、さらには士官らを対象にした「学生教育」などにも課せられた。階級を重視する海軍では、教育を受ける兵隊の呼び名も異なった。士官は学生、兵学校や機関学校は生徒、下士官以下は練習生である。
 軍艦八重山の新兵だった瀧本邦慶(くによし)さんは古参兵の度重なるいじめに遭い、練習生の試験を受ける決意を固める。ある事件がきっかけだった。
 八重山が上陸したとき同年兵が脱走した。その後の消息が分からなかったので、自殺したとみられる。この脱走事件をきっかけに、瀧本さんは八重山から離れることを真剣に考える。
 大阪市在住で、91歳の瀧本さんは当時を回想する。「このまま八重山にいたら、生き地獄の果てに、いじめ殺されると思いました。真夜中にそっと起きて甲板から海面に揺らぐ月影を見ていたら、両親の顔がうかび、涙がこぼれました。このとき練習生の試験を受けようと決めたのです」
 練習生を受け入れる海軍術科学校には、砲術学校、水雷学校、通信学校、潜水学校、工機学校、航海学校などがあった。航空機の整備術学科は教材の飛行機を配備している航空部隊が担っていた。いずれも普通科と高等科を併設しており、瀧本さんは普通科の受験資格があった。
 「将来的には砲術か水雷を希望していましたが、そんな悠長なことを考える余裕はなく、試験のいちばん早い飛行機整備術科を受験したのです」
 1940(昭和15)年5月、瀧本さんは合格通知を受け取る。6月に八重山を退艦し、神奈川県横須賀市の追浜(おっぱま)航空隊に入った。整備兵になるべく、格納庫で教材の戦闘機を使ってエンジンを分解し、再び組み立てる。高度計、速度計、油圧計などの計器類の構造と役割を学び、体育の授業もこなさなければならない。瀧本さんは剣道や水泳の選手として分隊対抗試合に出場した。
 「海軍は、激烈な競争社会です。私の名前が、優秀卒業生として郷里の新聞に出たときは、両親も恩師も喜んでくれました」

http://mainichi.jp/area/news/20130702ddn012040077000c2.htmlより、
 その年の11月、瀧本さんは2等水兵となり、軍服の右袖に階級章、左袖には整備兵の特技章がついた。配属先は航空母艦の飛龍だった。多数の戦闘機や爆撃機を搭載し、その離着陸を容易にできる飛行甲板を有しているのが、航空母艦である。
 飛龍は乗組員1103人、全長227メートル、排水量1万7300トン、速力34・5ノット、搭載機数73だった。瀧本さんは九七式艦上攻撃機を担当した。800キロ爆弾を積める大型攻撃機で、艦攻の略称で呼ばれた。希望した職業軍人になれた瀧本さんは、飛龍が沈没する日がくるなど夢にも思わなかった。(次回は9日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20130709ddn012040027000c.htmlより、
平和をたずねて:兵隊無情 死線を超えて/7 命がけの猛訓練=広岩近広
毎日新聞 2013年07月09日 大阪朝刊

 軍歌の一節にみられるように、まさに「海の男の艦隊勤務 月月火水木金金」であった。空母飛龍に整備兵として乗り組んだ瀧本邦慶(くによし)さんは、土日がないのは当たり前で、毎日毎夜の猛訓練に明け暮れた。
 飛龍は戦闘機、爆撃機、攻撃機の約70機を搭載していた。飛行甲板の下には上下2層からなる高さ5メートルの格納庫があり、そこに両翼を折り畳んで収容した。出し入れは甲板の前部、中部、後部の3カ所に設けた昇降用のエレベーターを使う。
 発着艦訓練は命がけだった。洋上訓練から戻ってくる飛行機が次々と着艦できるためには、そのつど格納庫に収容するか、前部の飛行甲板に並べておかなければならない。この誘導が整備兵の任務の一つだった。
 手順は−−後部の飛行甲板に制動索と呼んだワイヤを張り、着艦するとき機体の尾部から垂らしたフックにワイヤをかける。甲板上で速度と距離を制御するのだが、飛行機を格納庫に入れるにはフックからワイヤを外す必要がある。もちろん長い両翼は折り畳まなければならない。
 瀧本さんは振り返る。「担当の整備兵がフックを外すと、機体はゆるやかに前進します。すぐに2人の整備兵が機体の左右から飛び移り、左と右の翼を折り畳むのです。作業中に機体の前に滑り落ちでもしたら、プロペラで頭をやられるので、失敗は許されず、失敗は即死につながります」
 夜間の発着艦訓練では、海に転落しないように神経をとがらせた。甲板の両サイドにあるポケットに入り、頭を低くして飛行機が降りてくるのを待った。
 こうした訓練の合間に、瀧本さんは見込まれて来歴簿係の仕事にも就いた。飛行時間を調べ、エンジンの発火栓をいつ取り換えたかなど、細かい項目を1機ごとにチェックするのである。
 「エンジンの排気弁の摩耗も調べましたが、慣れてくるとゲージを使わずに何ミリ減っているか分かりました」。瀧本さんは懐かしそうに続ける。「だいたい1時間はかかりました。上等兵曹に来歴簿を渡して整備が完了すると、今度はパイロットと一緒に試験飛行に出ます。整備兵の責任は重大だと痛感しました」

http://mainichi.jp/area/news/20130709ddn012040027000c2.htmlより、
 異例の猛訓練は1941(昭和16)年の春先になると、燃料補給訓練にまで及んだ。<上層部はわれわれに何をやらせようとしているのだろう?>。碇(いかり)義朗著「飛龍天に在り」(光人社)は、機関科第17分隊長だった梶島栄雄氏をとりあげて、こう続けている。<数多くの艦に乗り組んでいたが、演習でも洋上での燃料補給などやったこともないし、聞いたこともなかったからだ。逆にいえば、それほどまでにハワイ攻撃の企図は、秘匿が完璧だったということになるだろう>
 瀧本さんは険しい表情をのぞかせた。「私たち兵卒には何も分かりませんでした。今、はっきり言えるのは、大本営は真珠湾に奇襲攻撃をかけると決めていた。だから、あれほど激しい訓練をやらされたのです」(次回は23日に掲載)

http://mainichi.jp/area/news/20130723ddn012040025000c.htmlより、
平和をたずねて:兵隊無情 死線を超えて/8 息を潜め奇襲決行=広岩近広
毎日新聞 2013年07月23日 大阪朝刊

 戦闘機や爆撃機を搭載した空母は、海上を移動する飛行基地に相当する。日中戦争が激化するにつけ、軍縮に反対する海軍の「艦隊派」と軍需産業が一体となって、艦艇の建造が続いた。まさに軍拡の日本であった。空母飛龍は1939(昭和14)年7月に軍艦旗を掲げ、11月に連合艦隊に編入される。
 それから2年後、飛龍は紀伊半島から東京湾沖を通過して北上を続けていた。1等整備兵に昇進した瀧本邦慶(くによし)さんが、強い寒気を肌に感じはじめたとき、飛龍の前方に雪に覆われた島が見えた。
 千島列島南部に位置する択捉(エトロフ)島だった。現在、ロシアの実効支配下にあるが、当時は日本が主権を行使していた。意外な場所に来たとはいえ、瀧本さんには思うところがあった。
 「通常の航海では、重油タンクを満タンにしておけば事足ります。しかし今回は、重油入りの一斗缶とドラム缶を艦内の通路や空間を見つけて次々と並べたので、長い航海になるのだろうと想像していました」
 飛龍が択捉島中部の単冠(ヒトカップ)湾に近づくにつれ、瀧本さんは目を見張った。
 「赤城や蒼龍の空母をはじめ随伴の駆逐艦、巡洋艦など多数の戦艦が集結していたのです。大きな演習でもあるのかと思っていたら、2日後には行き先も知らされずに出港しました」
 このとき艦内のゴミを海中に投棄するな、と厳命された。夕刻、飛龍の乗組員に総員集合がかかり、格納庫の甲板で艦長から行き先を聞いた。米海軍の軍事拠点・ハワイの真珠湾だった。海軍を志願し、戦陣訓をたたきこまれてきた瀧本さんは、いよいよだな−−と身を引き締めた。
 最初の苦難は荒天との闘いだった。瀧本さんは語る。「駆逐艦が波間に入って見えなくなるほどの大波に洗われ、飛龍も木の葉同然でした。激しい風波に翻弄(ほんろう)され、まともに歩くことさえできませんから、重油をドラム缶からタンクに移す作業は難事を極めました」
 あえて北太平洋が荒れる、この時期に、この航路を選んだのは、アメリカをはじめ他国の船舶に察知されないためだった。すべては奇襲作戦ゆえである。
 12月2日、連合艦隊の各艦は電報を受信した。<ニイタカヤマノボレ一二〇八>。新高山は台湾の最高峰で、暗号電報はハワイの真珠湾を12月8日午前零時に攻撃せよと伝えていた。日米開戦の始まりであった。

http://mainichi.jp/area/news/20130723ddn012040025000c2.htmlより、
 「ハワイ攻撃は勝ち戦やったから、話すことはありません。ただし−−」。瀧本さんは平和学習の中学生に語りかけた。「飛龍にも未帰還機があり、何人かの飛行士が戦死しました。遺骨はありません。爆撃を受けて艦上で死んでも、海軍は水葬です。毛布に包んで海に落とす、だから遺骨があるはずもない。戦争で死ぬと、遺骨が白木の箱に入って帰ってくると思ったら、大間違いなのです」
 瀧本さんは声を強めた。「いいですか、戦争はね、親より先に子どもが死ぬ、それが戦争なんですよ」(次回は30日に掲載)

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中