風知草:ドイツ史に学ぶこと 山田孝男氏

http://mainichi.jp/opinion/news/20130805ddm003070098000c.htmlより、
風知草:ドイツ史に学ぶこと=山田孝男
毎日新聞 2013年08月05日 東京朝刊

 生兵法(なまびょうほう)は大けがのもとという。麻生太郎副総理兼財務相(72)の歴史講釈はお粗末過ぎた。「改憲はナチスに学べ」という放言(7月29日)で深手を負ったのは副総理だけではない。日本の国際的な信用が血まみれになっている。

 放言報道についてマスコミの歪曲(わいきょく)、誇張を疑う向きがあるが、録音に基づく詳報が併載されており、ねじまげた跡はない。

 なるほど、麻生自ら釈明した通り、話の趣旨は「狂騒の中ではなく、静かな環境で改憲を」と聴衆に訴えるところにあった。が、たとえが悪過ぎた。脱線の核心部分はここだ。

 「ワイマール憲法という当時のヨーロッパで最も進んだ憲法下にヒトラーが出てきた……ある日気づいたらワイマール憲法が、ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうかね」

 中国メディアが「日本の政権幹部がキツネのしっぽをさらけ出した」と論評したのも無理はないが、この断定は放言の本質を正確にとらえていない。

 麻生はヒトラーの信奉者ではない。毒舌で満座を沸かせたいというウケ狙いの欲にとらわれ、一知半解の知識を振り回して墓穴を掘った。事の本質はそれに尽きると私は思う。

 麻生の最大の誤解は、ヒトラーによる事実上のワイマール憲法改正が、現代日本と同質の議会手続きで行われたという思い込みにある。史実は違う。

 ヒトラーは首相就任直後の1933年3月、立法権を国会から政府に移す全権委任法(授権法)を制定した(ナチス憲法をつくったわけではない)。

 ワイマール憲法76条は改憲のハードルを「国会議員3分の2以上が出席し、出席議員の3分の2以上が賛成する」ところに置いていた。全権委任法採決もこの規定が適用された。

 採決当時は、国会議員647人中81人を占める共産党議員は、全員が、地下に潜るか、強制収容所に送られているかという状況だった。社会民主党議員も120人中26人が逮捕されていた。多くの国民は、反国家的勢力の規制はやむをえないと考えていた。

 本会議場の建物はナチスの軍事・警察組織であるSA(突撃隊)、SS(親衛隊)と熱狂的なナチス支持者に包囲された。反対票を投じた社民党議員が「生きて議場を出られないのではないかと危惧した」(「ヒトラー/権力掌握の二〇カ月」=クノップ著、2010年中央公論新社刊)という状況の中で全権委任法は可決・成立した。

 熱狂と強権の政治を許したものは世界経済恐慌(1929年)波及に伴う失業者の急増だった。

http://mainichi.jp/opinion/news/20130805ddm003070098000c2.htmlより、
 ドイツ現代史に造詣の深い三宅正樹・明治大名誉教授(79)=外交史=に教えていただいたことだが、恐慌当時は社民党首班の連立政権だった。失業保険を維持するために給付金を削るか、保険料率引き上げかという議論になるが、結局何も決められない。

 1930年夏、この連立政権の総辞職で民主主義は終わった。ドイツ国民は既成政党をバカにし、力強い恐慌脱出策を掲げたナチスの宣伝に酔った。

 「ヒトラー/権力掌握の二〇カ月」の著者クノップは、ヒトラーに加勢した人々を動かしたものは、経済の逼迫(ひっぱく)でも闇の勢力でもなく、「彼ら自身の弱さであり、野心であり、幻想であった」と書いている。

 ドイツ史に学ぶべきはヒトラーの手口ではなく、強権的救済への熱狂を疑うことである。(敬称略)(毎週月曜日に掲載)

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