オリンピックを考える 佐藤次郎氏

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013082002000113.htmlより、
東京新聞【社説】オリンピックを考える(上) いまからでも「なぜ」を
2013年8月20日

 二〇二〇年夏季オリンピックの開催地は九月七日、ブエノスアイレスで開かれる国際オリンピック委員会(IOC)総会で決まる。東京、イスタンブール、マドリードによる招致レースは、いまのところ横一線との見方が強い。
 前回に続いての挑戦となった東京。安定した開催能力に対する評価は高い。七年後、五十六年ぶりとなる聖火が東京にやって来る可能性は十分にある。
 そこで、歴史的決定を待ちながらオリンピックについていくつかのことを考えてみたい。まずは基本中の基本。なぜ、何のためにオリンピックを開くのか、だ。
 二〇一六年大会を開催するリオデジャネイロやイスタンブールには、南米初、イスラム圏初という大義があり、五輪開催によって国の発展を推進しようという強い意図が感じられる。近年でいえば北京は国家の威信を誇示するための舞台だったし、シドニーやロンドンには実質的に都市再開発のためという側面もあったようだ。比較的わかりやすい「なぜ」。が、スポーツの祭典であるオリンピック本来の姿からして、そうしたことが開催の主目的であっていいのかという疑問は残る。
 東京はどうか。オリンピック開催で何を目指すのか。その後にどのような遺産を残そうとしているのか。そこはいまもはっきりとは見えてきていない。そもそも「なぜ」や「何のために」が幅広く積極的に論議されたとは言えないようにも思う。
 「日本を元気に」「未来をつかむ」などのスローガンはあるが、それをどう実現していくのか。スポーツの力で活力ある社会をつくるという方向性は、オリンピック本来の意義には沿っている。その理念を、具体的な形をとって見えるようにして、人々の心を動かす「なぜ」にしたいところだ。
 前回より支持率は高い。だが、お祭りムードだけでは世間の支持も長続きしないだろう。招致活動ではIOCへの訴えかけばかりが焦点となってきた観があるが、本当は「なぜいま開くのか」を徹底的に論議して国内の理解を得るのが第一だったはずだ。
 いまからでもいい。開催が決まってからでもけっして遅くはない。あらためて論議の火をかき立てたいと思う。(論説委員・佐藤 次郎)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013082102000168.htmlより、
東京新聞【社説】オリンピックを考える(中) 「どこの街でも」が理想
2013年8月21日

 世界共通の財産であるオリンピック。感動や喜びを誰もが共有できる貴重な催しだ。ただ、それが本来あるべき姿からかけ離れつつあるのは否定できない。
 一八九六年、十四カ国・二百四十一選手の参加で開かれた第一回の五輪。スポーツの場に各国の若者が集い、よりよい世界の実現に貢献するというのが当初の趣旨である。だが回を重ねてそれは大きく変容してきた。時に国威発揚の舞台となり、政治にも左右され、ビジネス優先の方向は強まる一方となっていまに至っている。素朴で純粋なスポーツ大会の面影などもうどこにも見られない。
 二百以上の国と地域から一万人を超す選手が参加する現在の夏季五輪。テレビマネーを中心とするビジネス路線の徹底で、大会は豪華さや巨大さを競う一大ショーと化した。時代によって変貌していくのは当然だし、テレビや商業化が発展に不可欠だったのも間違いない。ただ、それも行き過ぎればゆがみが生じる。結果、オリンピックは本来の姿を失いつつあるように見えるのだ。そして、現状がもたらすゆがみが最も顕著に表れているのがこの点だろう。
 いまオリンピックは実質的に大都市しか開催できない状況となっている。現在の形の大会を受け入れるだけの規模と財政基盤を持つ都市は多くない。しかも国際オリンピック委員会(IOC)は、開催地にすべての面で最高の質を求める。費用は膨れ上がらざるを得ない。必然的に世界有数の大都市でなければ開けないのである。
 これは明らかに五輪精神に反する。多様な地域、多彩な文化のもとでそれぞれの特色を出していくのが本来のオリンピックというものだろう。しかし、このままでは限られた場所で画一的な大会が繰り返されるだけなのだ。
 巨大さや豪華さの競争の連鎖を断ち切り、開催費用をある程度抑えて、さまざまな街に聖火をともしていく。オリンピック運動とはそうでなくてはならないはずだ。その理想を実現するには根底からの改革を必要とする。現在の流れとは正反対ともいえる方向ではある。だが、いずれはIOCをはじめとする関係者にそのことを真摯(しんし)に考えてほしい。オリンピックの価値は巨大さや豪華さと正比例するわけではないからだ。(論説委員・佐藤 次郎)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013082202000151.htmlより、
東京新聞【社説】オリンピックを考える(下) 「未来」見つめ直す時だ
2013年8月22日

 オリンピックはこのままでいいのか。その未来を根底から見つめ直すべき時期ではないか。いま何より思うのはそのことだ。
 ビジネス路線の成功で、かつてない隆盛を誇る五輪。しかし巨大なショーと化したそれはさまざまなゆがみも生んでいる。あれほど贅(ぜい)を尽くした開会式が必要なのか。五輪競技の入れ替えは妥当か。開催地が大都市のみに偏っていていいのか。隆盛の裏には疑問が山積みだ。オリンピックはあまりにも原点から離れ過ぎたのではないかと思わずにはいられない。
 国際オリンピック委員会(IOC)は確かに五輪大会を発展させた。だが、その商品価値を高めようと豪華さや華やかさばかりを追い求めたあまり、スポーツの祭典としての本来の魅力をそこなってもきた。人々をひきつけるのは、至高の舞台に臨む競技者の純粋素朴な情熱そのものなのだ。いまはともすればそれがビジネスの陰に隠れがちになっている。
 過剰な飾りはいらない。質素な施設でかまわない。競技の魅力と感動をシンプルに、ストレートに伝えてくれる大会を見たい。スポーツ文化を大事に守り育てる大会であってほしい。世界中で多くのスポーツファンがそう思っているはずだ。IOCには、そのことを踏まえたうえで、今後の方向性をあらためて見直していく姿勢を強く求めたい。
 これから大会開催を目指す世界の各都市にも、オリンピックの未来をどうすべきかを考える義務があると思う。IOCの意向に従っているだけでは何も変わらない。前例踏襲ではなく、それぞれの文化や民族性を生かした特色ある大会を積極的に提案してはどうか。それはいまあるゆがみを正すことにもつながるはずだし、世界のオリンピック運動の幅を飛躍的に広げもするだろう。
 二〇二〇年では東京にも大きなチャンスがある。開催が決まったら、ぜひともオリンピック本来の姿を取り戻すためのビジョンを組み入れてほしい。大会まで七年。計画に新たな方向性をつけ加えるのは十分に可能だ。
 多くの支持を受け、発展の象徴となった一九六四年の東京大会から、来年で半世紀。二〇二〇年を射止めたら、今度は未来へとつながるオリンピックとしたい。(論説委員・佐藤 次郎)

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