ナガサキ平和リレー:被爆2世 家族史を子供たちに

http://mainichi.jp/area/nagasaki/news/20130908ddlk42070270000c.htmlより、
ナガサキ平和リレー:/212 被爆2世長崎訪問 家族史を子供たちに/長崎
毎日新聞 2013年09月08日 地方版

 被爆2世の大阪大名誉教授、松尾伸也さん(65)=大阪府吹田市=が8月、長崎の爆心地の北約500メートルにあった父の実家跡を訪ねた。そこは原爆で消滅し、被爆した父は熊本・天草で息絶えた。松尾さんは、被爆した両親が焼け野原をさまよい、自らも原爆に翻弄(ほんろう)された長崎での家族史を、子供たちに語り継ぎたいと考えている。
 「岡町108番地」にあったという父の実家は長崎市の原爆被災復元図に「石屋 大塚」と記されている。「この辺りだろうか」。松尾さんは、浦上川に架かる大橋のたもとで、商店などが並ぶ一角を見つめた。
 教師だった父大塚嘉蔵さんは、爆心地から約3キロの同市立山町の自宅で被爆。翌日、岡町にいた松尾さんの祖母と、長崎医科大付属病院の職員だった叔母を捜しに行った。叔母は防空壕(ごう)で見つかったが間もなく死亡。父は、松尾さんの母幸子さんとともに、叔母を火葬した。祖母は行方不明のままだ。
 両親は3人の子を連れて祖父の故郷天草に引き揚げた。2年後の1947年12月に松尾さんが生まれた。しかし、7カ月後に父が死亡。母は教師として働くため、松尾さんを長崎の実家に預けた。
 家族と離れた長崎での生活はつらく、いつも教室の窓の外を見て天草の母と兄姉のことを考えていた。同居する叔母とは口論になり、中1の時には家出をして、天草に帰ったこともあった。母は毎夏、長崎に来て長崎医科大の慰霊祭に松尾さんを連れて行ったが、離れて暮らす母の気持ちが分からなかった。
 長崎の高校から大阪大へ進み、金属の研究者となった。
 「原爆」を強く意識したのは1995年の阪神大震災だった。同窓生を捜すため、自転車で被災地に入ると家々は倒壊し、粉じんで空が茶色かった。「父が家族を捜しながら経験したのは、これだろう」と直感した。
 翌年再婚し、高2になる長男、中2の長女、小2の次男を授かった。同じ部屋で「川の字」になって寝る生活に、初めて「家族」を実感した。「これが原爆や戦争で一瞬で消えたら、必死になって捜すんだろうな」。そう思った。
 毎年のように家族で長崎を訪れる。「一瞬にして家族を失うことにならないよう、私の家族が経験した過去を、子供たちに伝えたい」と願いながら。【樋口岳大】
〔長崎版〕

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