視点 オスロ合意20年 布施広氏

http://mainichi.jp/opinion/news/20130923k0000m070074000c.htmlより、
社説:視点 オスロ合意20年=論説委員 布施広
毎日新聞 2013年09月23日 02時30分

 ◇人類の宿題に再挑戦を
 始まりは感動的だった。1993年9月13日、イスラエルのラビン首相は「もう流血と涙は終わりにしよう」と呼びかけ、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長(後の自治政府議長)は「合意が、長い苦しみを終わらせてくれるように」と国家樹立への期待感を示した。ワシントンのホワイトハウスで双方が暫定自治共同宣言(オスロ合意)に調印した日だ。
 だが、20年たって振り返れば苦い思いを禁じえない。調印に貢献してノーベル平和賞を受けた3人のうち、ラビン氏は極右のユダヤ教徒に暗殺され、アラファト氏は米ブッシュ政権から徹底的にうとまれた末にフランスで死亡した。イスラエルのペレス外相は大統領になり、和平交渉の現場から遠くなった。
 この間、パレスチナの指導部は二つに分かれ、イスラエルはパレスチナ人居住区を隔てる分離壁を造った。融和の精神は分裂・分離へと変容したように見える。ある国際組織の調べでは、イスラエルの1人当たり国民総生産は20年前に比べ2・3倍の3万2000ドルになったが、パレスチナはヨルダン川西岸が2000ドル台、ガザは1000ドル台で、横ばいか減少だ。
 だが、「オスロ合意は死んだ」と片付けたくもない。この合意は、イスラエルが67年の第3次中東戦争で占領した西岸とガザでパレスチナ人の暫定自治を認め、聖地エルサレムの帰属を含む最終地位交渉にも言及している。20年前の課題はそのまま人類の宿題とも言えるものだ。
 進展のカギは米国がジレンマをどう克服するかだと思う。91年の湾岸戦争でイラク軍をクウェートから追い出した米国は「イスラエルの占領は黙認するのか」というアラブ側の不満に直面した。そこで同年秋、旧ソ連と共催で中東和平会議を開き、紛争の公正な仲介者となる姿勢を示した。オスロ合意を生む秘密交渉はここから始まる。
 だが、一方で米国はイスラエルへの「無条件の支持」を大原則とする国だ。米国の研究者によると、72年から2006年の間に米国はイスラエルに不都合な42の国連安保理決議案を拒否権で葬り去った。オバマ政権も入植地(住宅団地)の問題で拒否権を使っている。
 同盟国の利益を守りつつ公正な仲介をするのは容易ではなかろう。だが、同盟国を真に幸福にするには大局を見据えた仲介が必要だ。米国はクリントン政権下の3首脳会談(00年)以来、集中的な仲介をしていない。感動的な「カイロ演説」をしたオバマ大統領が頑張らないと「宿題」は一向に片付くまい。

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