東京新聞【憲法と、】第6部 福島の希望

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/kenpouto/list/CK2013092402000125.htmlより、
東京新聞【憲法と、】第6部 福島の希望<1> 「権利」奪った原発
2013年9月24日
(写真)「普通の生活に戻りたい」と話す青田勝彦と恵子=大津市で

  原発は 田んぼも畑も海も
 人の住むところも
 ぜーんぶかっぱらったんだ

 四月二十四日、福島の方言である相馬弁の詩が、福井地裁で朗読された。関西電力大飯原発運転差し止め訴訟の口頭弁論。原告側は「原発事故は、憲法が保障する幸福追求権などの権利を奪う」と主張した。
 詩の作者は青田恵子(63)。夫の勝彦(71)とともに東京電力福島第一原発から三十キロ圏内の福島県南相馬市原町区から滋賀県の大津市に避難している。
 元高校教師の勝彦はかつて、福島第二原発設置許可取り消し訴訟の原告になり、敗訴した。恵子は、小学校の社会科見学で原発に行くことに「こうやって、子どものころから原発にならされていくんだな」と違和感を覚えていた。
 二〇一一年三月十四日、福島第一原発3号機の爆発音を聞く。花火の打ち上げのような腹に響く音だった。「こりゃだめだ」。宮城県に二カ月間避難し、湯飲みや茶わんなどの日用品を購入。後に、この費用を東電に賠償請求したが、「領収書が必要」と断られる。

 一万円なんと いらねえわ
 そのかわり“3・11”前の福島さ 戻してくいろ
 恵子の詩に怒りと悲しみがにじむ。
   ■  ■
 私たちの神隠しはきょうかもしれない
 うしろで子どもの声がした気がする
 ふりむいてもだれもいない
 なにかが背筋をぞくっと襲う

 同じ原町区に住み、勝彦と一緒に福島第二訴訟の原告となった詩人、若松丈太郎(78)が「神隠しされた街」という詩をつくったのはチェルノブイリ原発事故から八年後の一九九四年。民間の福島県民調査団に参加し、現地を訪れたときのことだ。十七年後、その懸念は現実となる。
   ■  ■
 国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス

 恵子や若松の自宅より、さらに原発に近い小高(おだか)町(現南相馬市小高区)で生まれた憲法学者の鈴木安蔵(一九〇四~八三)は終戦直後、憲法研究会の仲間とつくった「憲法草案要綱」の中に記した。要綱は連合国軍総司令部(GHQ)が日本国憲法の草案をつくる際、参考にし、詳細な検討が加えられたとされる。
 若松は「小高は昔から農民運動や自由民権運動が盛んな場所」と話し、現行憲法には小高の血が通っていると思っている。これを「米国の押しつけ」と言って変えようとすることにも、原発は「平和利用だから安全」としてきたことにも、共通する権力者側の「ごまかし」を感じる。
   ■  ■
 青田夫婦は、鈴木が切望した健康で文化的水準の生活を営む権利を求め続ける。大飯原発の運転差し止め裁判は関西各地で起こされ、勝彦は滋賀の原告団に加わった。原発再稼働を進めようとする政府や電力会社に、勝彦は「いささかの反省もない」と憤る。「今でも各地で原発反対のデモはある。この世論が救いだ」(敬称略)
     ◇
 福島第一原発事故で、行く末見えぬ暮らしの中、憲法に一筋の光を見いだす人々を訪ねた。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/kenpouto/list/CK2013092502000111.htmlより、
第6部 福島の希望<2> また国策で捨てられた
2013年9月25日
(写真)「国策で2度棄民となった」と話す橘柳子=福島県郡山市で

 終戦直後、台車の上に板を敷いただけのような列車が旧満州の真っ暗な大地を駆け抜けた。当時六歳だった橘柳子(りゅうこ)(72)は「落ちたら死ぬ」とおびえながら日本への逃避行を続けていた。帰国船では、死んだ人がゴザにくるまれ海に捨てられた。一九四五年八月八日に旧ソ連は日ソ中立条約を破棄し、満州に侵攻。在留邦人は大混乱に陥った。
 二〇一一年三月、同じような状況に直面した。東日本大震災翌日の十二日、東京電力福島第一原発で1号機が水素爆発。浪江町の自宅から車で国道に向かったが、大渋滞で動かない。ようやくたどり着いた町内の津島地区で十六日まで過ごした。
 当時、浪江町には国からの情報が途絶え、文部科学省のSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)が放射線が高濃度となることを予測していた津島地区に、人々が殺到した。
 福島県本宮市の仮設住宅で暮らしている橘は「私は国策により二度、棄民となった。一度は戦争、二度目は原発事故で」と怒りを込める。
   ■  ■
(写真)「故郷に帰りたい」と話す遠藤昌弘=相模原市で

 一九七三年、小高町(現南相馬市小高区)は東北電力が計画する浪江・小高原発の誘致を決めた(後に東北電力が計画を撤回)。故郷の町役場に勤め、当時土木課職員だった遠藤昌弘(88)は、原発造成工事に必要な道路の用地買収交渉を担当。毎晩のように地権者と交渉した。
 「放射能の恐ろしさは分かっていますが、原発と原爆は違います。原発は平和産業で、地元に雇用をつくります」と説得した。遠藤は原爆被爆者だった。
 四四年に徴兵され、原爆投下時は、体調を崩して爆心地から約二・五キロの広島市の病院に入院していた。その時に見た地獄絵図。「人が想像できる範疇(はんちゅう)を超えた悲惨な光景だった」。戦後も、思い出すと眠れなかった。髪の毛が抜け、鼻血や下血に苦しんだ。
 平和憲法が公布され「これで戦争はなくなる。まだ生きていける」とほっとした。
 かつて国の言葉を信じ、「戦争に勝つ」と思っていた。戦後、原発は「平和の灯」と宣伝する国の言葉を福島の人たちが信じた。その結果、故郷は放射能に奪われた。「原発が安全かどうかじゃなくて、しょうがなかったんですよ。原発が来れば町の固定資産税も上がり、経済も活性化する」。遠藤はそれ以上語らなかった。
 現在は、相模原市に避難している。「帰りたい」という思いは尽きず、俳句を詠んだ。
 目に見えぬものに逐(お)われて春寒し
   ■  ■
 満州から命からがら帰国した橘は教員となり、八六年には日本教職員組合(日教組)で支部初の女性書記長になった。「四十年前にできた憲法に男女平等が書かれているのに。結局、本物の平等を手に入れるには闘わなきゃいけなかった」
 原発事故で多くの人が故郷を奪われた今の福島も「基本的人権さえ満たされていない」と感じる。避難生活で一時、鬱(うつ)状態になっていたが「今こそ、憲法を本物にしなきゃいけない時期だ」と思い直した。
 原発事故からちょうど一年後の二〇一二年三月十一日、郡山市であった反原発集会でスピーチした。「原発は人の意思と行動で止められます」(敬称略)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/kenpouto/list/CK2013092602000139.htmlより、
第6部 福島の希望<3> 屈しない一人でも
2013年9月26日
(写真)「国民の意思で政治は変えられる」と話す大和田秀文=福島県喜多方市で

 東日本大震災翌日の二〇一一年三月十二日。テレビには、東京電力福島第一原発1号機の建屋の上部が吹き飛んだ、ありえない映像が流れていた。
 原発から八キロの自宅から、同じ福島県浪江町内の友人宅に避難していた大和田秀文(80)はぼうぜんとした。さらに遠くに逃げる中で悔しさがこみ上げた。「四十年にわたる原発反対は何だったのか」
 中学教師になったばかりの一九五六年、書店で「第三の火-原子力」という本を手にしたのが、反原発運動にのめり込むきっかけだった。「放射能は今の技術でおさえられるか分からない」と書かれていた。
 大和田は、明治期に憲法制定や国会の設置を訴える自由民権運動に身を投じた苅宿仲衛(かりやどなかえ)の親せき筋にあたる。苅宿は、たびたび飢饉(ききん)に見舞われた貧しい浪江で農民の手助けをしながら、一人一人が大切にされる社会を目指し続けた。
 戦後の高度成長からも取り残され、貧しさから抜け出せなかった寒村に、原発マネーが降り注ぐ。福島第一原発は建設段階から、出稼ぎ農家に地元で働く場を与え、自治体にも膨大な補助金をもたらしていた。福島第二原発や浪江・小高原発の計画が相次いで浮上し、大和田は反対の輪を広げようと集落をまわったが、仲間になってくれる人はほとんどいなかった。

(写真)原発から13キロの場所にある自宅前で無念の思いを語る志賀勝明=福島県南相馬市小高区で
 
 七三年、国の原子力委員会は福島第二原発建設をめぐり公聴会を開催する。三十人中二十一人が賛成派。反対派は六十人の参加希望を出したが九人しか認められなかった。反対の声はかき消された。
   ■  ■
 その公聴会に、南相馬市小高区村上のホッキ貝漁師の志賀勝明(65)は反対派の一人として出席していた。仲間の漁師たちは最初「海が汚染される」と反対したが、原子炉が増設されるたびに支払われる膨大な補償金で腰砕けとなり、最後は孤立無援となった。福島第一原発近くにあるホッキ貝の漁場は、原発の取水が始まってから生息に必要な砂地がなくなり、水揚げはほとんどゼロになった。
 二〇〇六年に新築した自宅は福島第一原発から十三キロ。立ち入り可能な避難指示解除準備区域になった一二年四月に訪れると、壁は変色し、家の中には鳥の巣まであった。「がっくりきて、もう、掃除する気もしない」。避難先を転々とする中、母は亡くなった。
 志賀は震災前、地元の仲間に誘われ、九条の会に参加していた。南相馬市の借り上げアパートに閉じこめられた現状は、憲法一三条の幸福追求権の侵害なんだろうかと思ったりもする。「素人だからよく分からないけど、人は誰からも束縛されずに住みたい場所に住む権利があると思う」
   ■  ■
 「政府は原発再稼働や原発輸出を進めている。しかし、国民の意思で政治は変えられる」。喜多方市に避難している大和田は、所属する自由民権運動の研究会で原発の話をする。「私にとっては、反原発が自由民権運動なんだ」(敬称略)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/kenpouto/list/CK2013092702000152.htmlより、
第6部 福島の希望<4> 生きる場所 取り戻す
2013年9月27日
(写真)福島第一原発の事故後もクリーニング店の営業を続ける高橋美加子=福島県南相馬市で

 東京電力福島第一原発事故が起き、福島県南相馬市から県外への最後の避難バスが出た二〇一一年三月二十日、クリーニング店を経営する高橋美加子(65)=同市原町区=は避難先の仙台から自宅に戻った。「地元企業にとって存在意義がかかっている」との思いがあった。
 人口七万から一万に減り、ゴーストタウンのようになった街での闘いが始まった。食料の調達、がれきの撤去など残った企業は自分たちのできることをした。銀行はすべて支店を閉じる中、唯一残った信用金庫は先の見えない地元企業に融資を続けた。
 人々が戻り始めた一二年二月、人のつながりを取り戻そうとイベントを開催した。会場に立てた木に子供たちがメッセージを書いた紙の葉を付けた。「なぜ同じ日本国民からまでも死の町とよばれなくてはいけないのですか」「じいちゃんのつくったすいかをたべていいですか」
 胸が詰まった。人は個人として尊重され、幸福を追求する権利があるはずなのに。原発事故は家や財産だけでなく、人の尊厳まで奪っている。それらを保障する憲法が、人々の当たり前の生活の土台となっていたことを、あらためて感じた。
 「憲法は、よく言われるような目に見えない空気のようなものではなく、人がよって立つ大地。原発事故は大地を汚し、基本的人権を破壊した」
   ■  ■
(写真)教壇でも原発の危険性を生徒に伝えた山崎健一=川崎市で

 同じ南相馬市原町区の元高校教師で、川崎市で避難生活を送る山崎健一(67)も同じ思いだ。「虫歯になって初めて歯を意識するでしょ。これと同じ。憲法に書かれた人権も、失って初めて憲法に守られていたことに気づく」
 自民党が戦力の不保持を明記した九条二項を削除した憲法改正草案を発表した二〇〇五年、教師仲間ら六人と、はらまち九条の会を立ち上げた。3・11以降、会報は原発事故に関する原稿が大半を占めるようになった。
 教壇に立った六校のうち四校が原発の二十キロ圏内にあり、他校を間借りして授業をしている。教育を受ける権利すら危うくなっているのではと気がかりだ。かつての教え子たちをテレビで見かけることもある。「みんな疲れ切っている。インタビューで『先が見えない』っていうでしょ。その姿が私より老け込んでいる。切ないよ」
   ■  ■
 南相馬に残った高橋は、被災地を記録したDVDを制作した。変わり果てた街の映像に詩が重なる。「私の生きる場所はどこなのか?」。子供たちが除染の済んだ大地に立ち、笑顔を浮かべる映像もある。
 「震災前は効率、効果で動く国だった。そういうのは終わりにしないとだめ」。南相馬にはもともと「そうじゃない暮らし」があった。年収三百万~四百万円でも家を建てることができた。野菜は買わなくても畑で作り、近所からもらうこともできた。それでも「もっといい生活」を目指した。原発事故で、やっと失った生活のすばらしさに多くの人が気が付いた。
 「残る人のためだけでなく、よその土地に移った人たちにも戻るべき故郷を残してあげたい」。再生可能エネルギーを活用した地域づくりに取り組み始めている。=敬称略、おわり
(この連載は、飯田孝幸が担当しました)

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